名人に会いたい
YOKOYA SOUSYU

横谷 宗舟 氏
木彫・社寺・仏像 三代目 横谷宗舟 当主 / 寺社建築 彫刻士
何代目を名乗ろうと、仕事が甘ければ、
それはやがて自分に跳ね返ってくる。
もう、こういう人には会えないんだろうな。
取材を終えて帰る道すがら、そう思った。
時代は確実に変わっているし、どんな業界であれ大手企業による寡占が進んで数字ばかりが優先されるなか、
職人だけがいつまでも昔のままではいられない。
確かな腕と知見があり、何事にも一徹で、折れないし、曲げない。おまけに口をへの字に結んで、笑わない。
それが昔気質の職人の通り相場だが、「宗舟」三代目の横谷さんはそんな昔の職人をそのまま絵に描いたような人だった。
江戸の下町、浅草という土地柄もある。
遠い昔、徳川家康が江戸の町をつくるにあたり、幕府や武士の需要をまかなうために全国から職人を呼び集め、
同じ職業の者たちを一つ町に集めて住まわせた。猿若町や鍛冶町、紺屋町、白壁町、塗師町などの名に往時が偲ばれる。
そもそもは統制しやすくするための政策であったのだが、まもなく江戸の人口が急増して需要が一気に拡大し、
歴史的な大火も重なって職人たちが市中に分散すると、こんどは町人のために腕を振るうようになっていった。
とくに浅草周辺には、職人が多く暮らした。
そもそも寺社が多いうえ、江戸歌舞伎隆盛の舞台となった猿若三座があり、さらに足を延ばせば、
一夜にして千両の金が行き交い最盛期には遊女三千人を抱えた遊郭、吉原もある。
じつにさまざまな需要があったから、木彫職人はもとより、飾職人、小間物、大工、指物、打ち刃物、
下駄職人らから将棋の駒やお位牌をつくる者まで、ありとあらゆる技を持った職人が暮らしてきた。
職人たちはほとんどが、男気の世界で生きている。
地域のなかで身を寄せ合いつつ互いに凌ぎあってきたのだから、おなじ現場で働く職人気質がぶつかり合うことも多かった。
生来が、意地でも負けられない気質の人たちなのである。
じつは、横谷さんを推薦してくださった方がいる。もとより、その技量を見込んでのことだった。
その方は「宗舟」のすぐ四軒先に住んでおられる恭三郎さんという重鎮で、横谷さんの6歳年上である。
推薦してくださったくらいだから、さぞかし横谷さんを高く買っておられるのだと思っていた。
ところが、恭三郎さんが語った横谷さんの人物評はこれ以上ないほど辛辣で、手厳しいものだった。
「ほんとに、親の言うことなんか聞きゃあしない、無茶苦茶な男でしてね。でもね、なんだかね、小さいころは可愛いかったねえ」。
その「可愛かった」に望みを託し、強面の横谷宗舟さんを訪ねた。

腕一本で生きる職人と芸術家とは、紙一重のところに存在した。
浅草からほど近い上野に、美術や工芸の最高峰とされる東京芸術大学がある。前身は、明治二十年に設立された東京美術学校だ。
設立当初は、日本画、木彫、工芸の3科だけで、彫刻科の教授には牙彫(げぼり)と木彫の名工であった石川光明、
片切彫(かたぎりぼり)で著名な金工師の加納夏雄、木彫の大家で上野の西郷隆盛像などで知られる彫刻家の高村光雲など、
そうそうたる人物が顔をそろえた。
ところが、である。
存外知られていないのだが、この国の芸術の礎をつくったそうした方々も実はみんな職人上がりで、教授になる前までは、
一日一日を喰いつなぐための職人仕事をしていたのである。
ただ、仕事の中身が芸術の域にまで達していたから、国に請われて教授になった。
おもしろいのは、みんな、横谷さんが生まれ育った浅草の寿町から歩いて行ける距離にいたことだ。
石川光明は隣町の駒形の出で、加納夏雄は神田に店を構え、高村光雲は上野と浅草の間の下谷生まれだった。
立派な教授たちは、多くの他の職人と同じく、ごくふつうにこの土地で暮らしていた。
浅草は、限りなく芸術家に近い、名工たちの町でもある。
三代目宗舟の横谷さんは、名を光明(みつあき)と言う。
お気づきだろうか。その名は、芸大教授になった名工、石川光明(こうめい)にあやかって、先代の父が名づけたものである。
浅草は、紆余曲折を経ながら生きてきた町だ。
関東大震災や東京大空襲など幾多の試練を受けながら、いつもどの町より早く復興し、そのたびに新しい町へと生まれ変わってきた。
浅草には、他の町にはない旺盛な復元力がある。根っこには、職人たちが育んできた、負けられないとする強い気持ちがあったのだろう。
ただ戦後のしばらくは、彫刻士にとってつらい時代だった。
荒れ果てた土地を前に、多くの寺社がまず着手すべきは、なにより建物の復興であり、彫刻などはずっと後へと先送りされた。
「宗舟」も何もかもを失ったが、幸い、彫る道具だけは手もとに残った。
父たちは生きるために、ビリヤードのキューに龍を彫ったり、人形ケースに彫刻を施したり、
兜の型や人形の手足を造形したりして食いつないでいたと聞く。
職人にはつねに、喰える、喰えない、がつきまとう。当時の記憶は、浅草に生きる職人として、
横谷さんのなかにも深く刻み込まれたことだろう。

およそ10年、外部での修行を経て、ようやく父のもとへ。
江戸木彫の伝統を今に伝える「宗舟」の始まりは、1888年生まれの横谷光一だった。現当主、光明さんの祖父にあたる。
横浜の出だったが、仲間に引っ張られてまずは駒形に移り住み、そこで彫刻の腕を磨いたようだ。
やがて父の仕事ぶりが柴又帝釈天(題経寺)の第十六世、日済上人の眼に止まる。
大正十一年には東京在住の有名木彫師九名に選ばれ、本堂まわりの十枚の胴羽目彫刻のなかの「法師修行図」や御水屋彫刻などを制作した。
巨木から採ったと思われる大きな欅の板に、見事な彫りがほどこされている。
父、横谷芳一は、その初代に徹底的に鍛えられた。
社寺、仏像、置物、額など、多くの作品が残されており、卓越した技能に与えられる賞や勲章も授与されていた。
ただ父は、現場に住み込んで仕事をするのが常であったから、家に帰ってこない日が多かった。
子どもにとっては3カ月くらい顔を見ないことも、ふつうにあった。
そのせいかどうかは知らぬが、めったに父と顔を合わせない息子は大いに羽を伸ばし、自由奔放に遊んでいたようだ。
いつしか「上野・浅草の暴れん坊」の名がついていた。
まもなく都立工芸高校に進むことになるのだが、ほんとうは中学での出席日数が足りず、そこに入らざるを得なかったという。
だから仲間にも、職人の息子など横谷さんとよく似た、はみ出し者が多くいた。
机で学ぶのは退屈だ。束縛されるのはもっと嫌だ。
横谷さんは、木工や金属、彫金、デザイン家具などのいろんな実技をこなした。何でもかでも、作っているほうがおもしろかった。
卒業したあとの2年間は、「美学校」に行った。
学校とは言え、当時は埼玉の入間あたりに小屋を建ててやっていた私塾である。
前衛美術家で作家にもなった赤瀬川原平など多彩な人物が教えていた。
横谷さんはこれ幸いと友人のところに転がり込み、ここでも好き勝手に彫刻をやっていた。
その後1968年になって、父の助言で、彫刻家の佐藤蔵治師に入門する。
佐藤師は日展の会員であり審査員もしていたから、さまざまな人との交流があった。
ここでは主に家具彫刻と塑像彫刻を学んだが、ふつうなら会えない人にもたくさん会えた。
個の力には限界があるが、いろんな才能と才能がつながれば何でもできることを知った。
さらに2年後の1970年、こんどは、西田光治師に入門し、そこで御輿彫刻を学んだ。
さらに2年後の1972年、十人くらいいた祖父の弟子で、父とも仲がよかった荒川陶光師のもとに弟子入りをし、
ここで本格的に社寺彫刻を学んだ。師弟関係を結んだのはこの荒川師だけで、横谷さんは師の最後の弟子となった。
得るものが多かったのだろう。2年の約束が、いつしか5年の月日が流れていた。
修業が終わろうとする時期にはちょくちょく父のもとにも顔を出していた。やがては自分が「宗舟」を継ぐ、その準備もあった。
1977年、25才になって、職人として父のもとに帰った。
江戸の職人の世界では、遠い昔から、弟子であっても親方が直接仕事を教えることはしない。
見て覚える、あるいは見て盗むのが決まりである。
教わったことは忘れるが、覚えたものは忘れない、との考えからだ。
また職人は、元来、他人のいいものは平気で盗み、わがものとして身に着けていく。
「いいものはたくさんあったほうがいい。最初に作った人は、どうせ光るのだから」、横谷さんもそう考えて生きてきた。

世間とはひと味違う、おなじ木彫職人である父と子の関係。
ひと昔前まで、どこの家でも父親は怖い存在だった。
「地震、雷、火事、親父」と言われ、避けようもない天災と並んで怖いものの象徴だった。
実際、当時の家庭の多くはそうなっていたものだ。ところが横谷さんは、あまり父や母に従順な子どもではなかった。
師と仰いだ荒木陶光師に礼節を守り、ご近所の先達たちには十分な敬意を払うその人が、
二代目として立派に仕事をやり遂げた父にはさほど聞く耳を持たなかった。
なぜだろう。不思議に思っていたのは、先にこんな逸話を聞かされていたからだ。
NHKの番組班が作業場にやって来たときのことだ。
シーンは、横谷さんを紹介してくださったご近所の恭三郎さんがふらりと「宗舟」を訪ね、
職人父子と世間話をするところから始まる。
カメラがまわりはじめて直後、子の光明さんが当たり前のように「おい親父、そこの鑿を取ってくれ」と言った。
瞬間、撮影隊が固まった。が、事態はそれにとどまらない。
なんと、こんどは父親のほうが「光明さん、これでいいのかな」と息子を「さん付け」にして返したのである。
当時の放送コードで言えば、子どもは子どもらしく親を敬い、親はそれをそっとやさしく見守る。
いまの時代ならくすぐったいような、良き家庭像が前提にあった。ましてやお堅いほうのNHKである。
このままではオン・エアできないだろう。
一瞬にして事態を察した恭三郎さんは、ディレクターにしばし待ってくれるよう声をかけ、後輩のほうを向いた。
「光明、世間では息子が¨おい親父¨なんて誰も言わないよ。
自分の父親でもあり師匠なんだから、もっと敬った言い方をしろよ」とたしなめた。
返す刀で親のほうに向き直り「親父さん、光明は息子なんだから¨さん付け¨して呼ばなくてもいいと思う。
¨光明¨と呼び捨てでいいんだよ」と諭した。
滔々と二人に説き明かして、なんとか撮影は再開された。

もう一つの逸話も紹介しておこう。
横谷さんは若いころ、体に彫り物を入れたいと言って何度も親に直談判していた。
なにも特殊な社会の一員になろうというのではない。
男気が幅を利かせる下町の、おそらくは淡い憧れから来たものだったのだろうが、両親は途方に暮れた。
筆者の想像だが、その頃の横谷さんの頭のなかには、浅草の人びとが仕事も放りだすほどに熱狂する三社祭の光景があったのではないだろうか。
三社祭と言えば、彫り物をした屈強な体に男は白い褌を締め、女は肩をはだけて祭りを見つめる象徴的な光景がある。
その土地に生まれた男の子が、毎年来る祭りの興奮のなかで、いつかはああいう姿をしてみたいと、素朴な憧れを募らせていったのではなかろうか。
確かにあの時代は、ちょっと下町の銭湯に行けば彫り物をした大人はそう珍しいものでなかった。
彫り物には勇壮さと同時に、痛みに耐え抜いた男の辛抱強さも描かれており、職人の心意気の象徴だったのだろう。
なんとか押しとどめていたものの、いよいよ余命幾ばくとなったときに父は、息子が一番言うことを聞く四軒先の恭三郎さんを枕辺に呼んで懇願した。
「恭ちゃんが認めたら彫っていいと言っておいたから、必ずここに来る。
そのときは絶対に彫らせないでくれ」というのである。
案の定、時を置かずして横谷さんがやって来たが、遺言を反故にすることもできないから、恭三郎さんは頑として首を縦に振らなかった。
わが子の弱点をみごとに突いた両親の奇策だった。

おなじ彫刻師であっても、父と子の見つめる景色は違っていた。
父芳一さんは、横谷光明さんにとって彫刻の師でもある。
ただ、ひと口に彫刻と言っても、みんなやり方が違う。道具が違う。
専門領域が違う。もっと言えば、みずからが描く職人像も違う。
おなじ木彫職人としての尊敬はあっても、見ている風景は父のそれとは違っていたのかもしれない。
横谷さんが子どものころには、同業の組合に200軒くらいが所属していた。それがいまは、わずか20軒ほどである。
どうにも喰えずに別の分野に転向していった家もある。あくまで社寺建築の彫刻を貫いているところは、もう、数えるほどしかない。
父がそうだと言うのではないが、現場や工房でただ黙々と仕事をこなしていくやり方では、やがて行き詰まる。
確かな腕は当然だが、職人を束ねる身としては、自身の構想を持って施主の方々と堂々と向き合い、
弟子を育て、家族を食べさせていくことが求められる。
人ひとりではどうにもならない仕事もある。ふつうなら尻込みするような大仕事も、しっかりした構想の下に、
それに適した才能を集めて高度な技能集団となることで請け負える。なにより施主の方に安心して任せていただける。
若いころに多彩な人が出入りした佐藤藏治師のところで学び、それ以来みずから実践してきた経験とが一体になって、
横谷さんはその先にある、あたらしい職人世界をめざしていたようだ。
そう考えれば、横谷さん流の父への対応も理解できるのだ。
そして父もまた、成長して帰ってきた息子の能力を、自分にはない、古い職人たちにもなかった新しい職人の姿として感じ取っていたのではないか。
あのとき息子を¨さん付け¨で呼んだのは、ひょっとすると父の正直な想いだったかもしれない。

25歳のころだった。転機が訪れ、何かがぱちんと弾けた。
1977年は特別な一年だった。
修業を終え、25歳で父のもとにもどり、同じ年に結婚もした。
このとき新婦は持参金をもって嫁いでこられたそうだ。ところがその大切なお金は、あっという間に消えてしまった。
横谷さんが使ってしまったのである。
若かった横谷さんは給料をもらいながら、お寺の仕事などで檀家総代の方から給与を上まわる豪儀な心づけをもらえた。
前後して、自分で仕事の見積もりをし、集金もやるようになった。当時はすべて現金取引だから、お金は自由に動かせた。
なんとでもなる。そういう性分だったのだろう。お嫁さんの十分な持参金は、しかし「半年もたなかった」という。
いささかの反省がこもった、いつにない小さな声だった。
ちょうどその頃からである。三代目「宗舟」として、本気で仕事と向き合うようになったのは。
肚を決め、これからは社寺だけでやる!と宣言もした。
荒川師の下で社寺彫刻のおもしろさが体に浸み込んでいたし、おなじやるなら「大きいもののほうがおもしろいから」との思いもあった。
ただ、それにしても、突然だった。
詳しくは語らない人だから想像するしかないのだが、持参金を使い果たした時期と本気で仕事を見つめ直した時期とが見事に符合している。
お金の有無ではなく、自分に嫁いでくれた浩代さんの存在が、自由気ままに生きてきた男を突き動かしたことだけは容易に想像できる。
仕事は軌道に乗った。
頼みとなる仲間や先輩にも恵まれていた。
千三百年の歴史をもつ群馬県の水澤観世音から、坂東三十三観音霊場のご本尊を作りたいと打診されたことがある。
一定の期間のうちに、三十三体もの観音像を仕上げる約束だ。40~50人ほども腕の立つ彫刻士を集めなければならない。
個人レベルではとても手に負えない仕事ではあるが、横谷さんは自分も含め、職人たちの力を信じていた。
一体一体サンプルを彫り、自らも監修をしながら、一心に彫り進めて完成させた。
ほかにも、手がけた社寺彫刻は東日本一円に及んでいる。
麻布山善福寺、宝珠山観泉寺、長松山林昌寺などの社寺彫刻、あるいは柴又帝釈天題経寺の群猿遊戯図など、
各種文化財の保全と修復にも貢献し、一方で地元の浅草雷門の引き屋台なども手がけている。
四代目に伝えたいことがある。
きっと、背中で伝えていく。
横谷さんの長男、昭則さんは学生のころから、将来は彫刻士になると思い描いていた。
男は自分しかいないし、自分が継がなければ「宗舟」はそこで終わる。ほかの仕事を考えたことはなかった。
だが、仕事の厳しさを知る母は、「よく考えるように」と助言した。
そのうえで、いまの道を選んだ。

横谷さんのご長男、昭則さん
ノミや小刀などの道具を砥げるまでに、5年はかかる。
そこから思うように道具を動かせるようになるまでに、あと5年はかかる。
丸彫り、透かし彫り、浮き彫り、キメ彫り、厚肉彫りと、自在に彫れるまでの道のりは遥かに遠い。
そのうえ「宗舟」では、下絵もすべて職人自らが描く。辛抱強さが求められる、途方もなく長い旅路となる。
彫刻仕事には、何級だとかの検定もなければ、資格制度もない。
注文を受けてから、顧客の求めるものと自分たちの腕とが一致したときに、よい仕事が生まれる。かんたんではない。
昭則さんは高校を出てから3年間、父の職方の一人だった木彫刻士の、遠藤弘師のもとに通った。父よりもかなり年長の師だった。
修業を続けながらたまに家に帰ると、父がいて、祖父がいて、職人たちがいた。
入りづらく、張りつめた緊張感があった。戦場のようでもあった。
修業を終えて昭則さんは、弟子として家にもどった。
もう、お父さん、お母さん、とは呼べない。その日から、父を師匠と呼び、母をおかみさんと呼ぶ日々が始まった。
弟子にとっては師匠が施主である。
父は、道具を置く位置、仕事をする姿勢、仕事への向かい方、その順序について厳しく仕込んだ。
その先にある彫刻には何十通りもあるが、つねに基本から正しく始めよ。そう叩き込まれた。
長男でもある弟子は、師匠をこう思っている。
東京で、社寺で、木彫で本道を取れる彫刻家はごく限られている。父は数少ないその一人だ。
それに、自分は相手を尊重する人間だが、父は相手の話を聞かない。
それで納得させて、今日まで仕事を切らさずにやってきた。すごい人だ。
全否定されることも多いが、最近は「おまえの好きなようにやれば」と言ってくれることもある。
一方で、子を見る父の目は厳しい。
社寺彫刻という仕事は、ほんとうに好きでないとできない。
弟子5人のなかで、息子はまだ一番下手だと言い切る。
四代目を名乗ろうが、だれより精進しなければつぶされるのは自分だと、冷静な目で見ている。

そろそろ取材も終わりに近づいたころ、奥さんが階段を上がってこられた。
職人の家では当たり前のもてなしなのだろうか。出前のお蕎麦が並べられ、新しいお茶と甘いものが添えられた。
しまった、と思ったが、お昼の時間が近づいていた。
ご子息の話を聴きながら食べ終わって階下のギャラリーを覗いたら、横谷さんがお弟子さんたちと一つ机でおなじお蕎麦をたぐっておられた。
そう言えば、ついさっきまでは、箒を持って作業場の床に散らばる木くずをご自身で掃き集めておられた。
そこに師匠と弟子の境界は見えなかった。漠然と描いていた、偏屈で気難しい親方のイメージはすでに消えていた。
お別れするとき、若い頃の武勇伝もお聴きしたかったと伝えたら、それには答えず、
首を左右に振って、嘘だとも真実だとも言わぬままやさしい笑みを浮かべて頭を下げられた。
またゆっくり話がしてみたいな。職人っていいな。
そう思って駅のほうへと歩き出した。
文:瀧 春樹
●宗舟・伝統木彫刻 http://so-syu.jp/index.html