名人に会いたい

YOKOYAMA MUNETAKA

横山 宗生 氏

日本を代表するタキシードデザイナー
一般社団法人 日本フォーマルウェア文化普及協会 理事長/株式会社マイモード 代表取締役
Tuxedo Atelier ROSSO NERO 代表&デザイナー


誰も歩いていない道を歩く。

米国のアカデミー賞やグラミー賞の授賞式でその華やかさに圧倒されるのは、 登場する主人公たちが解き放つ個々の輝きだけでなく、彼や彼女らが身に着けている特別な衣装のせいでもあるだろう。
機知に富んだスピーチ、エレガントな振る舞い、さらにはそれぞれに趣向を凝らした衣装デザイン。 それらが見事に溶けあったスターたちの存在が、まぶしく映る。

じつは、これら世界最高峰ともいえるステージに、横山宗生さんがつくった個性ゆたかなタキシードが何度も立ち会ってきている。 式典に参加する人たちは彼の仕事場を訪ね、そのコレクションのなかから最も気に入ったものを選び、 あるいは自分の希望にかなった最新のタキシードを新調してから米国へと向かう。

残念ながら日本には、世界で評価されるラグジュアリ―ブランドがなかった。
だれも本気で手掛けてこなかったこともある。 それゆえ海外のものに頼らざるをえない事情があったのだが、時代は変わり始めている。
横山さんの動きは速い。彼の脳裏には、ラグジュアリーの代表アイテムであるタキシードの世界で、 さまざまな場面でふつうに日本製が愛用されている未来が描かれている。
そんな光景を目にするのは、案外、近いかもしれない。

tuxedo rossonero

日本人が着るタキシードの多くがレンタル用で、
ずっと、まるで制服のような安直なものだった。

タキシードがいつごろ生まれたか、ご存じだろうか。
記録では、1986年に「タキシード100年」のイベントが米国で催されたとある。 それからさらに80有余年の月日が流れている。前述の米国アカデミー賞授賞式で司会やプレゼンターを務める出席者が、 それまでの燕尾服に代わってタキシードを着用するようになったのは半世紀ばかり前、1969年に開催された第41回からである。

たとえば職住近接のロンドンあたりでは、夕刻になると仕事を終えた若者たちがいったん自宅にもどり、 さほどの時を置かずタキシードに着替えて再び中心部にもどってくる。
タキシードは日常生活のピリオドとして、みんなで夜会をたのしむために欠かせないアイテムだった。 自宅と職場が遠すぎる日本では、こうしたことは考えにくい。それはそれで残念なことである。

ではそんな日本で、タキシードはどんな歩みをたどってきたのだろうか。
日本国としての正装は、明治の初期に、和装なら黒紋付の羽織と袴、洋装なら燕尾服と定められている。 だからタキシードは、ずっと略正装の扱いだった。
不遇の時代とも言えるが、仕方のない面もある。

なにしろ、かつての日本のタキシードは型にはめたように、色は黒、長い丈、だぼだぼのシルエット、きつい光沢、 安価な生地が通り相場だった。だれでも着れるようにつくった制服のような代物を、必要な時にだけレンタルで借りて着用することが多かったからである。
セレモニースーツと揶揄されたように、それらの多くはいかにも形式ばっていて年寄りくさく、若者はだれも見向きもしなかった。

ところが、時代が下るにつれ、だんだんと紋付や燕尾服を着用する人が少なくなってきた。
近ごろではタキシードを実質的な正礼装として用いることが多くなってきている。
結婚式の景色も変わった。みんなが黒っぽいスーツを着た時代が終わり、自由な配色、素材、デザインのタキシードをたのしむ出席者が増えてきているように、 人びとの意識も変わってきている。

経営者になりたい。
家業を継げば、とりあえずは経営者になれる。

横山宗生さんは、もともとファッションの仕事を強く意識していたわけではない。
横山さんが生まれるずっと前に、祖父は四国の高松でオーダースーツのデザイナーをしていた。 息子である横山さんの父は、しかし、そのまま親の跡を継がなかった。

1931(昭和6)年のことだ。高松にデパートの「三越」がオープンした。
これからは洋服の時代であり、オーダースーツが増えていくだろうとの読みが、父と三越との双方にあった。 父は1963(昭和38)年に、依頼を受けて横山縫製工場を創業した。 三越が保証人になるという稀なケースで、専属縫製工場として百貨店内に仕事場を持つことになった。

横山宗生さんは第2次ベビーブーマーの世代である。
時は移り激動する時代になって、できれば大きな会社での安定した生き方が求められるようになった。 だから「家業は継ぐな」というのが父の考えだった。それもあって四国からは遠い国立富山大学の、しかも経済学部に進んだ。

どうせ家業は継がないのだからと、卒業後は帰郷して、一旦は地元の通販会社に就職した。
ところが、しばらくするうち、気持ちに揺れが生じてきた。経済学を勉強したこともあったのだろう。 自分で経営をしてみたいとする欲求がむくむくと頭をもたげてきた。
具体的に何かをこうしたい、というのではない。ただただ経営者になりたかっただけだ。
家業を継げば経営者になれる、との想いが離れなかった。

もちろん、両親は入社を拒んだ。
そのころすでに、父の会社は裁断と縫製のみを行う下請工場になっており、顧客の顔が見えず、職人も減っていた。 売上げの大半を三越に頼っているうえ、お客さんも職人も高齢化していた。 遠からず先細っていく、将来を見通せない会社だった。

何度もやりとりがあり、最後には父が折れてくれた。
ただ父は、どうやったら生き残れるかは自分で考えろ、と言った。代わりに、やりたいことはすべてやらせてくれた。

いざ入社してみると、やはり父が予測したとおり、事業はわるいほうに向かっていた。
家業をこなしながら横山さんは2年間、夜に服飾専門学校に通った。 状況はよくないが、ともかくも、父と職人がいる間だけは続けていこう。 吸収できるものは何でも貪欲に取り入れていく日々が始まった。

横山さんは工場に併設して、スーツとタキシードのオーダーショップ MY MODE(現ROSSO NERO)を立ち上げた。 販売も仕入れ経験もない危なっかしいスタートだったが、すぐに結婚式の衣装の注文が入った。夢中で走っていた。

ある日のことだ。当時の組合のセミナーで、大阪府洋服商工業協同組合の理事長だった中井さんの講義を聴いた。 そこには生き残るためのヒントがあった。
これからのテーラーは売る時代であって、もはや自分で縫う時代ではない。 外注に出せばいい。フルオーダーではなくなるが、生き残るにはそれしかないだろう、と聴かされた。

中井さんは父子で四国に来られていた。 ご子息は、背広の語源ともなった英国のサビルロウで修業された方だった。 後日、大阪の彼のところに押しかけて、1週間ほど滞在した。 採寸の仕方、生地の仕入れ方、販売の仕方、特別なイージーオーダーの方法などを学んだ。
大きな転機となった。

マイモード工場

おもいがけないタキシードとの出会いと、打ちのめされた外国人たちとの彼我の差。

28才になった2000(平成12)年のことだった。 各国の青年会議所の次期会頭が集まる国際アカデミーが高松で開催された。 最終日の夜、80名ほどが集まるブラックタイ指定のガラディナーに出席した。

愕然とした。
隣にいた外国人はオスカー・デ・ラ・レンタのタキシードを着ていた。 その姿のうつくしさと格好のよさに、おもわず息を呑んだ。
反射的に我が身を振り返った。初めて着たとはいえ、名ばかりのだぼだぼタキシードが目に痛かった。 おなじタキシードなのに、これほどまでに違うものなのか。
自分も、こういうものを着たい、作りたい、売りたい。やりたいことが、一直線に見渡せたときだった。

それからは、小売りをするだけでなく、結婚式場などのブライダル業界に卸すことも始めた。 安価で手軽なものから、たとえレンタルするにしても姿がよく、デザインを吟味した質のいいものにシフトしていった。
周囲にまだ安直なものしかなかったからだろうか。気がつくと、四国にいながら東京からの注文が増えていた。 偶然とも一過性とも思えなかった。想像もしないところに需要が生まれつつあった。

2008(平成20)年、肚をくくって東京青山に進出した。
1ルームからのスタートだったが、翌年に現在のショールーム兼ショップに移転した。
卸は、数字も含めて売るほうの都合が優先される。それは仕方がない。 しかし小売りなら、自分が真に着てほしいものだけを提供できる。
とは言え、小売りに踏み込むには、場合によってはこれまでの卸売りがすべて無くなってもいいという覚悟がいる。 思い悩んだが、自分の意志を貫くことにした。

それから10数年が経って、最高級ホテルの象徴であるザ・リッツカールトン東京やシャングリ・ラ東京、 ザ・ペニンシュラ東京、和倉温泉加賀屋、 ジョエル・ロブションのブライダル運営会社など、そうそうたる取引先が扱ってくれるようになった。

それらを後押ししてくれたのは、一点一点、本物志向で作りつづけてきた多彩なタキシードたちの存在だ。 毎年のようにつくってきた新作は、当時でも150着を超えていた。
その過程で作品がスタイリストたちの評判を呼び、信頼も得て、年間100人以上の著名人や芸能人、 モデルさんたちに使用されるようになっていた。新調される方も増えていた。

冒険かとも思えた行動が、順調に果実を結びつつあった。
そう、見も知らないウイルスが上陸するまでは。

ショールームにて

新型コロナが連れてきたもの。
はじめて経験する、長く深い闇を乗り越えて。

いろいろな素材や技術を用いて表現に取り組むうち、切実な問題が浮かび上がってきた。
日本には古来から連綿とつづくさまざまな優れた伝統があり、文化があった。 ところがいつのまにか、世の中全体がどんどんカジュアルな方向へと流れていって、日常から伝統的なものが姿を消しつつあった。

業界で言えば、100年以上つづいた老舗の機屋さんがついに幕を閉じた。 全国各地で、伝統産業が同様の危機に瀕していた。このままでは産業とともに熟練の人がいなくなり、 固有の技術も、さらには根底にある日本の文化そのものも失われかねない。

横山さんは和装と洋装とにこだわらず、伝統技術にたずさわる方々に問いかけ、 2018年に「日本フォーマルウェア文化普及協会」を設立し、みずから理事長に就いた。
この国の基準をいま一度時代に合った形で再構築し、内外に広く発信することで伝統産業や伝統文化の振興をはかり、 なんとか社会や地域に貢献していけないか。
団体は順調に滑り出した。

JFCA設立記念PARTY

そんななか、ニュースが飛び込んできた。
新型コロナ感染者の発生である。 2019年12月に中国武漢で初の発症者が確認されると、年が明けた2020年1月15日に国内初の感染者が発見された。 そこから一気に、世界中がだれも予知できなかった事態に直面することになる。

怖れはあったが、当初はそのうちには収まるだろうという淡い期待もあった。
しかし、ウイルスの感染スピードは驚嘆すべきものだった。あれよという間に全国に蔓延し、人の行動は制限され、 店舗は閉じ、街は息をひそめ、あらゆるイベントが中止された。
フォーマルウェアを着る場面など、どこにもなくなっていた。結婚式に至っては90%のダウンという、厳しすぎる現実が待っていた。

無音の日々のなかで、ただただ待っていた。
長い時間が過ぎて、一片の願いが通じたか、すこしずつではあるが仕事がもどりはじめた。
と思っているうちに、その勢いが増してきた。反動もあったのだろう。
ところが、ただそのまま以前の状態に戻ったのではなかった。何もできない日々を体験した人びとのなかに、明らかな変化が生まれていた。

人びとは歓びを感じることのできる、フォーマルな集まりを希求していた。
いまだ繊維業界が厳しい寒風のなかにいるなかで、スーツを着ることは減っても、フォーマルにはフォローの風が吹いてくれていた。
こうした傾向は、とくに海外で顕著なことだ。 以前のようなセグメントされたフォーマルの形ではなく、カジュアルやスポーツにフォーマルの要素を入れた新たな流れが出てきている。

おかげで、低迷を続けた事業は2022年の春ごろには過去にない好業績を記録し、その後も勢いは止まっていない。
手がけたいことはたくさんある。横山さんの想いは、長い沈黙を強いられた時を経て、膨らみに膨らんでいる。

横山宗生50歳マイモード60周年PARTY

近い日、世界最高峰の舞台で、自分のすべてをかけて問いかけてみたい。

いまの若い人たちは、カジュアルなファストファッションで育ってきた世代にあたる。
日々、直接お客様に接しているから感じられることでもあるのだが、なかでもそんな彼らの意識変化が急である。 一般の方々からの問い合わせが格段に増えている。コロナ前とコロナ後では、明らかに数と中身が違ってきていることを痛感する。

フォーマルな服装をすると、人は心が引き締まり、気持ちが高揚する。 そこには日常とは異なるゆたかな時間があり、自分とは異なるさまざまな職業や考えの方々とも積極的に出会っていける。
たとえば、近ごろではこんなシーンも多い。
ふだんは体を動かして大量の汗を流し、汚れた作業着で黙々と仕事に取り組む人たちが、 ある日、おしゃれなタキシードに身を包んでさっそうと現れる。日常、彼らをよく知る人が見たら、どれだけ驚くことだろう。 彼らの新しい一面に触れ、驚きはやがて新鮮な喜びで満たされるだろう。
そんなケースがしばしば見られるようになった。

文化服装学院講師

みんなで、そうした歓びの輪を共有したい。
どの方も、どこにいても、輝く人であってほしい。心豊かな日々をおくる人でいてほしい。
そしてその方たちに、なにより胸を張って着れるタキシードを届けたい。

年が明けた2024年2月に、世界有数のコレクションであるイタリアの「ミラノコレクション」への出展が決定した。
いまはそれに向かって準備を始めているが、横山さんはその先にある、世界一のタキシードブランドであり、世界一のタキシード専門店を見据えている。

日本の市場はどんどん小さくなっている。
向かうは、世界、である。


文:瀧 春樹

<横山 宗生氏のミラノファッションウィーク活動予定>
・2024年2月 キャットウォーク(ランウェイ)&プレゼンテーション(展示会)開催

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