素敵な人生の歩き方

YAMAFUJI TOMOKO

遥かな年月、北陸富山の地で、家族みんなで守り継いできた葡萄園の四代目として。

山藤 智子 さん

ホーライサンワイナリー代表


100年葡萄は、つぎの夢をみている。

ある日の新聞に、農業に従事している方の投稿があった。
「農業はつらい仕事が多いが、高級車に乗り、うまいものを食べ、高価な服を着ていても満たすことのできない、心の豊かさがある」そんな一文だった。

すばらしい仕事なのだと思う。

ただ、自然を相手にするには、生半可な気持ちでは向き合えない。
豊かな実りを得られれば心の平穏と豊かさを感じられるだろうが、そこに至るまでに、数代にわたる家族の長い長い闘いの日々があったことを見逃してはならない。

山藤智子さんの曽祖父、初代の山藤重信氏は、丘の上でさまざまな果実がたわわに実る総合果樹園づくりを夢見ていた。
1927年(昭和2年)のことである。その時代に耕作機械や農業機械などはない。 近隣の多くの村人たちの手を借り、ただただ人馬だけで山野を切り開き、立ちはだかる土くれに向かっていったのである。

しかし、頭ではわかっていても、1年が過ぎ2年が過ぎ、5年が過ぎても、いまだ苗木を植えることすら叶わない。 来る日も来る日も、いつ終わるとも知れぬ過酷な労働だけが待っていた。

想像もしてほしい。
その間、まったく収入がない日が、延々とつづくのである。
昔の人の辛抱強さには舌を巻くが、夢の実現のために、人はいったいどこまでその意思を貫き通せるものなのだろうか。

令和の時代になって、いま、丘の上のホーライサンワイナリーにはうつくしい葡萄棚が幾重にも広がっている。
穏やかな風景のなかで育まれたワインは、国産の葡萄だけで自然なままに醸し出された、すっきりとした作為のない爽やかさを有している。
液体は透明に澄んで何も語らぬが、しかしここにたどりつくまでには、100年にもわたって愚直に日本の農を貫いていきた家族の、途方もない格闘の日々があった。

働いて、働いて、最初の収入を得るまでにかかった10年という歳月。

或るワイン専門家の方が書き残した一文によると、山藤家は地元でつづく名家で、大地主でもあったようだ。
代々米づくりを営んできたが、1918年(大正7年)に富山から始まった米騒動がみるみる全国に波及していったように、初代・山藤重信氏の時代は稲の不作がとりわけ深刻だった。

家の近くには川がなかったから、ずっと水で苦労していた。
米づくりの将来に明るい展望を描けなかった初代は、さまざまに思いを巡らせて、1921年(大正10年)、丘の上に遥かに連なる理想の総合果樹園を構想した。
それからまもなく、彼は所有していた山地と、あらたな土地の購入や交換を経て手に入れた大地の開墾に取りかかった。22才のときだった。

開墾が長期にわたることはわかっていたが、梨と葡萄の苗木の植え付けにこぎつけたのが、開墾開始から6年も経った1927年(昭和2年)のことだった。 それでも開墾を終えたのは、まだ予定の半分の面積にすぎなかった。

そこから最初の出荷まで、さらに4年がかかった。
それが1931年(昭和6年)のことで、いつしか年号は大正から昭和へと変わっていた。

ようよう第一歩を踏み出したものの、待っていたのは容赦ない現実だった。
桃はいざ収穫しようという時期になって風害にやられ、栗やりんごは積雪のなかでウサギの食害に会った。シカやタヌキ、カラスなど、強敵はいくらもいた。

果樹の大半は、一度倒れたら、そこで終わる。
ただ葡萄だけは、さほど水が無くても育ってくれ、雪に強く、なにより倒れても起き上がるだけのしなやかな強さがあった。 また粘土質の土壌は栽培がたいへんだったが、そのぶん葡萄はミネラルの多い、甘くて味の濃いものとなってくれた。
何度も打ちのめされるなかで、味方をしてくれたのは葡萄だけだった。

葡萄に傾斜していった、もう一つの理由があった。
日本は世界の列強のなかで揉まれるなか、しだいに戦争への階段を上りはじめていた。 じつは葡萄を栽培する過程でごく微量の酒石酸という白い結晶体が生じるのだが、これが戦場で敵の音波を素早く捉える特性を有していて、軍隊にはとても重要なものであったらしい。
時の政府は、そうとは言わずに、葡萄の栽培を推奨していた。

こうして総合果樹園は、おのずと「山藤葡萄園」となった。

未来が見えぬまま、ひたすら身を粉にして働く毎日。家族もただ黙々と。

初代・山藤重信氏には、もう一つの構想があった。
米に代わる、酒造りである。主食の米が不足して暴騰すれば、とても日本酒づくりにはまわせない。そこで思いついたのが、葡萄による酒造だった。
1933年(昭和8年)、初代は果実酒醸造免許を取得し、まったくの手さぐりからワイン醸造を始めた。

初代は、最初に授かった子に「茂森」の名を与えている。
茂れる森、である。幼な子に、これからつづく果てもない旅の同伴者の姿を重ねていたのだろう。さほどに想いは強かったようだ。

二代目として育つ茂森氏は、父が望んだ道をまっすぐに歩いた。
農学校を卒業したあとは、県の園芸試験場に入所した。これで父と子の共同作業は軌道に乗るかと思われた。
ところが、である。
はからずも翌1939年(昭和14年)になって、第2次世界大戦が勃発した。 ここから一気にこの国全体が重い黒雲に覆われ、ただただ耐えしのぶ我慢の時代を強いていく。

戦後、人びとはすぐに立ち上がった。
二代目は新たに山地を拓いた。水資源の確保にも奔走し、麓を流れる山田川からポンプアップして水を確保した。
ほかにも、県内初の観光農園として葡萄狩りを開始したり、隣地にドライブインなども整備して収益の多角化を図った。
葡萄の販売だけでは、どうにもならなかったからである。

世の中は急速に変貌していた。
名神や東名と言った高速道路と東海道新幹線が整備され、日本の高度成長は軌道に乗った。
1970年(昭和45年)だった。二代目は満を持してワインづくりを本格化させた。年間3000本を出荷し、勝負に打って出たのである。 いまにつづく「蓬莱山葡萄酒」の誕生である。

ただ富山は、大型消費地である大都市からは遠い。
日常的にワインを飲む習慣もまだない。
葡萄酒はお酒というよりは健康維持のための、いわば飲むクスリにすぎなかった。箱には「滋養 強壮」と大書されていた。

素朴な樽で野生酵母で造られた葡萄酒は容易に受け入れてもらえず、水はけのわるい肥えた土壌との絶え間ない闘いもあって、報われることはなかった。

やむなくワインづくりを断念した二代目と、必死でそれをとどめた三代目。

試行錯誤を繰り返しながらも走りつづけてきた二代目だったが、とうとう刀折れ矢が尽き、決断の日が訪れた。
ワインづくりが重荷になって経営の見通しが得られないなか、家族が疲弊し悲鳴をあげているのが手に取るようにわかる。 もはやこれ以上は続けられない。思い余った彼は醸造免許を売却しようと覚悟し、家族に告げた。
そのときである。必死で、どうか思いとどまってくれるよう父に強く主張したのが、三代目となる息子の重徳氏、すなわち智子さんの父だった。

重徳氏は、学校卒業後すぐに、家業を継ぐべく修行に出ている。
サントリー山梨農場に研修生として入り、2年間、住み込みでワイン醸造と葡萄栽培を研究し、日々、研鑽を積んだ。 そうした制度はとうに無くなっているが、どうやら父が最後の研修生だったようだ。

どうにか親を説き伏せて醸造免許を手放すことは止めたものの、止めたほうの三代目にこれと言った目算があったわけではなかった。
その後30代前半で家業を継いだ彼は、自分がやれることはすべてやる、その覚悟のままに率先して行動していった。
サントリー時代の経験を生かし、ワイン用の品種に力を入れ始め、欧州系の葡萄栽培にも着手した。
何事にも苦労を惜しまず働いたが、経営は変わらず困難を極めていた。
そのため農園の仕事だけでなく、冬は除雪作業員として働きに出て、さらには長距離トラックの運転手もこなし、内と外で働きつづけて必死に家業を守っていた。

後には、フランスにならって新酒のヌーボーを発売したり、かつてドイツを旅したときに出会ったパラディワイン、つまり毎年9月の第2日曜日に「収穫祭」と銘打ち、醸造途中のワインを振る舞うことも始めた。 また、自社農園で取れた葡萄ジュースやスイーツのあるカフェも整備した。

仕事は山積していた。
たとえ家族であっても、本来は人件費が考慮されるべきものだが、日本の農業にはそもそも家族への支払いは計算に入っていない。 それどころか、全体のコストを下げるために、そばにいる人間は誰であれ、みんなが働かなければならなかった。

末っ子だった智子さんも例外ではない。10才くらいから国道沿いで、一人で葡萄とワインを売っていた。

開墾開始からちょうど100年が経ったとき、智子さんは四代目を継いだ。

智子さんは中学3年生のとき、富山県と米国オレゴン州との交流で各校から1名が選ばれ、ワインの収穫祭の時期にホームスティを経験できた。 高校では2年生の1年間、交換留学でニュージーランドの学校に通った。山梨大学では工学部醸造学科の研究所で学んだ。

ここまでずっと家業に近いところを歩いてきたが、できる作業はすべてこなしながら、智子さんにはどこかに過酷な労働から解放されたい気持ちもあった。

そうだ。東京には姉がいる。
姉はお茶の水大学を卒業後、文教大学の大学院に通って臨床心理学を学んでいた。その姉を頼って、智子さんも東京に出た。
彼女の部屋に居候しながら、池袋の西武デパートでアルバイトをした。 1Fの化粧品・婦人雑貨売り場のレジ係だったが、座って眺める店内の光景が楽しく、家業の厳しさを思えば夢のように楽しい日々がそこにあった。

しかし、都会での朝夕の通勤電車だけは苦痛で苦痛で、どうにも我慢ならなかった。
やがて智子さんは富山にもどり、結婚も出産もすると、こんどは一気に家を繋いでいくことへの想いが強くなった。

2021年(令和3年)に智子さんは四代目を継いだ。
偶然というか、ちょうどこのときは曾祖父がこの地を開墾しはじめてから100年にあたる年だった。
もとより家族みんなで連綿と繋いできた葡萄づくりである。4世代にわたり、おなじ夢を追いかける。きわめて稀有な事例となった。

「ひと枝にひと房のみ」 あえて効率の悪いワインづくりをつづける理由。

かつてこの国にも多くのワイナリーがあり、1936年(昭和11年)時点で、ワイン製造農家は3000軒を超えていたという。
曾祖父の開墾から100年余が経ち、いまでは北陸最古のワイナリーとなった。

手間を惜しまない農業、丁寧なワインづくりが変わることはない。日本人しかやらない、まじめすぎる農業を貫いて、栽培から醸造、熟成、瓶詰までを行う数少ない存在となった。

たとえば、こうだ。
ここではずっと、機械に頼らない手摘みを貫いている。
しかも腕と腰に負担がかかる棚仕立てだ。過去にはヨーロッパで主流の1本仕立ての垣根栽培もやってみたが、こちらはうまくいかなかった。 それで果実を地面から遠ざける棚仕立てを採用しているのだが、昨今の異常な夏の熱さにあっては逆に葉の連なりが太陽の直射を防いでくれ、いわば日傘の役目をしてくれている。

そしてなにより、経営を考えると首を傾げたくなる流儀なのだが、「ひと枝にひと房のみ」の、相当に効率のわるいワインづくりを貫いている。 獲れる収量を制限してでも、望みうる最良のおいしさを優先しているからだ。

もちろん、毎年保健所の検査を受けていて、残留農薬はない。
洗う必要のない葡萄を実現しようと思えば、それだけ労働はきつくなる。
言うなれば、日本の優れた農業技術がいっぱいに詰まった、まさに「誠実なワイン」そのものである。

日々の作業量は、父の時代の倍以上になった。
それでも智子さんは、園内に併設したカフェとショップで、おいしい料理や雑貨、個性ある自作のラベルデザインやアパレルなども展開している。 季節が来れば、葡萄の樹の下での音楽ライブもひらく。むろん、収穫祭もある。

ただ、課題は多い。
人口減があり、アルコール離れが進む。一方でワイナリーの数は急増し、競争が激しくなっている。
もっと怖いのは、将来のさらなる気候変動である。極端に温度が上がり、降るべきときに雨が降らない。 消えてくれるはずの虫は冬を越してくる。動物の生態が変わり、植物にも異変が生じ始めている。

それでもいつかは、「しあわせな村」を実現したい。
ここにはワインも、お米も、新鮮な野菜もある。もっと言えば、心地よい風も、眺めのよさも、陽だまりも、おいしい空気もある。
叶うなら、葡萄を見下ろせる高台に宿泊できる場所をつくり、いろんな方たちにそれぞれの豊かな時間を過ごしてほしい。

ふと、思う。
考えてみれば、かつて曾祖父が描いた理想の総合果樹園も、きっとあの時代の、しあわせの場をめざしたものではなかったろうか。
訪れる人すべてに、幸福な時間が流れる場所。

時は流れたけれど、100年前の夢は、これからたどる100年の夢でもあるのだと。

追記

取材でワイナリーに向かうとき、地図でホーライサンという地名を探した。 園の名前から、おそらく蓬莱山という山の近くにあるのだろうと推測したからだ。しかし地図の上にも、現地が近づいても、そんな名前はついに現れなかった。

あとで、それは初代と二代目が父子二人して名づけた、架空の山だと知った。
蓬莱山とは、かの「竹取物語」に登場するかぐや姫の育ての親、すなわち竹取の翁の故郷とされる。
かぐや姫は世俗にまみれたたくさんの男性の求愛をことごとく退けて、やがて一人で清らかな月へと旅立っていくのだが、先人たちはそんな、みんなが美しく清らかにいられる地上の楽園を思い描いておられたのであろうか。

ありはしないけれど、あってほしい夢の世界。
夜になれば、黒ずんだ森の向こうに、ひときわ澄んだ月がきらめくことだろう。
ホーライサンワイナリーに佇めば、どこか桃源郷の匂いがする。

文:瀧 春樹



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