素敵な人生の歩き方
TSUGE KYOZABURO
世界最高峰のパイプメーカーの代表にして、下町・浅草の人と文化をこよなく愛する。
柘 恭三郎 氏
株式会社 柘製作所 代表取締役会長
アジア人唯一の「パイプの騎士」の称号を授与される(タバココレギュウム・ドイツ)
CIPC国際パイプクラブ委員会 副会長 / 日本根付研究会 理事 / 東京浅草ロータリークラブ会員
世界は、愛すべき⼈とモノとであふれてる。
どこからご紹介すればいいのだろう。
⾔い訳ではないが、柘恭三郎⽒の⽣き⽅を表そうとしてしばしば⼿が⽌まるのは、仕⽅のないことのように思える。
海外で⾼く評価されて広く名が通っている⽒と、浅草を拠点に江⼾の⽂化を伝え残そうとする、もう⼀⼈の⽒とがいるからだ。
⽒は幼い頃から、浅草界隈で「若」と呼ばれてきたらしい。
地元の⼈たちにとって、いろんな意味で特別な愛着を寄せたくなる、どこか可愛げのある男の⼦だったのだろう。
もっとも、どこかの若様であるからには、その⽗親が際だった存在であることが前提となる。敬われ、慕われる、有⼒な⽗あってこその「若」だからである。
となれば、まずはその⽗のことから書き始めよう。
逸話のいくつかは、⽒の著作「浅草・下町 職⼈モノ語り」(ソレイユ出版)から引⽤させていただいた。
東京・浅草は、さまざまな人が織りなす「人間劇場」でもあった。
いつも観光客などでごった返す浅草寺など、周辺には江⼾期から数えきれぬほどの寺社があり、
江⼾歌舞伎の源流を成した芝居⼩屋やいろいろな見世物小屋が⽴ち並び、極めつけは吉原遊郭という当代随⼀の傾城(けいせい)も近くにあった。
戦後は戦後で、浅草六区に代表される演芸場や映画館、たくさんの料亭や⾷の名店などが建ち並び、遊興と観光と参拝で集う、どこよりも賑わう町で有りつづけてきたのである。
狭い地域のなかには当然ながら、市井の⼈に混じって、⾐⾷住にとどまらず信仰や芸能などに従事する多くの職⼈たちも集まり、⾃らの技量と男気で凌ぎあい、ときに助け合う。
毎⽇どこかで何かが起きているような町だった。
恭三郎⽒は、⺟からこんな話を聴いたことがある。
とうに時効だから話せるが、戦前は柘製作所の裏⼿に博打打ちの⼀家の賭場があった。
ときおり警察の⼿⼊れがあるのだが、そのつど屋根を伝って何⼈もの⼈が逃げ込んできたそうだ。
先に賭場の客たちが逃げてきて、慌てて⼯場の⽞関から出ていく。
そのあとに⼦分たちや⼥の雇い⼈。しんがりで逃げ込んでくるのが、たった今まで賭場で⽬を吊り上げていた男衆(おとこし)たちだ。
彼らは板敷きの作業場に潜り込んで機械に取り付き、何⾷わぬ顔で仕事を始める。
先に逃げていた⼥衆は⼿拭いを姉さんかぶりにして、せっせと階段や廊下の雑⼱がけをしているから、乗り込んできた警察官はすっかり煙に巻かれることになる。
後⽇、賭場のおかみさんが菓⼦折りを持って謝りに来ることがしばしばあったらしい。
いったいこれが住⼈の真の助け合いかどうかは微妙なところだが、浅草に暮らす者どうしが互いの事情を呑み込んでのことだった。
⼀⽅で、こんな話もある。
昭和21年(1946年)に恭三郎⽒が⽣まれたとき、⽗が進駐軍から籐製の乳⺟⾞を買ってきた。
ところがこれがパイプを運ぶのに便利で、そのうちパイプ運び専⽤⾞になった。
そのころ、乳⺟⾞⼀杯分のパイプを売ると近所の⼟地が買えたというのに、柘家はたまたま詐欺にあって、なんとトラック1台分ものパイプを失う事件があった。
幸いに犯⼈がわかり、⺟がお⾦を取り返しに向かった。
ところがその場所に着いてみると、⾒るから貧しそうな家に⼦どもがたくさんいて、詐欺を働いた張本⼈は寝たきりの病⼈になっていた。
⺟はお⾦の催促もしないまま、その家を後にしたそうだ。
恭三郎少年はある⽇、当時は⾼価だった台湾バナナを⾷べたいと駄々をこねたことがある。
すると⽗は、これでもかとバナナを買ってきて「欲しいというから買ってきた。
おまえ、残さずぜんぶ喰え! ⾷べ終わるまで、おれはここを動かない」と⾔い放った。
意を決して必死で⾷べながら、途中でふと⽗のほうを⾒つめると、なんと⽗は眠っているではないか。
逃げられるかもしれないと喜んだが、それでよくよく⽗を観察すると、ときどき薄⽬を開けてこっちを⾒ている。
⼦どもが⼭盛りのバナナを⼀⼈で⾷べきるのはたいへんだった。
その⽇から恭三郎少年は、贅沢を⾔わなくなった。
⼈にはそれぞれに、⾟いことや悲しいことがある。それを教えてくれたのが⽗⺟であり、浅草の町だった。
困難から何度でも立ち上がる。
浅草の人たちの、生きる力はすごかった。
⽗、柘恭⼀郎は不遇な幼少時を過ごしていた。
13才のときに相次いで両親を亡くし、幼いながらも丁稚として浅草で象⽛製品をつくる職⼈のもとへ預けられた。
⼼細かったに違いない。しかし⽗はそこから鍛錬と⼯夫を重ねて、25才になった昭和11年(1936年)に、浅草の寿町に象⽛パイプをつくる「ツゲ製作所」を興した。
ただ、その先には、あの戦争が待っていた。
ほとんどの⼯場が軍の仕事に駆り出されるようになり、⽊の加⼯技術を持つ柘製作所は三⼋銃の台座をつくらされていた。
やがて終戦を迎える。その年の春には⼤空襲によってあらゆる建物が焼きつくされ、⼈々は逃げまどい、辺りは⾒渡すかぎりまっ平になっていた。
すべてを失いながらも、⼈々は⽴ち上がった。
広範囲に空襲を受けた東京でも、浅草はどこよりも復興が早かった。⽗もまた、掘⽴て⼩屋からパイプづくりを再開した。⼈は、逞しい。
戦後のたばこの需要は旺盛だった。
進駐軍は緊急でアメリカからパイプたばこを持ち込んで市場に放出した。
紙巻きたばこをつくる国内⼯場はまだ稼働できておらず、放出されたのがパイプ⽤の刻みたばこだったから、パイプの需要が⼀気に爆発した。
昭和20年代の終わりごろには、東京だけで47社ものパイプ製造会社があったという。
ところが30年代になって紙巻きたばこの⽣産が軌道に乗り始めると、パイプの需要は⼀気に落ち込んでいく。
隆盛を極めたパイプ⼯場はみるみる減って、4〜5軒となった。
廃業した⼯場はみんな、儲かるシガレットホルダーやライターだけをつくっていたし、わが世の春を謳歌して次の⼿を打てていなかった。
⽗が率いるツゲ製作所も、最盛期には120名ほどの職⼈を抱えた。
ただ、好業績にあっても彼らのように浮かれてはいなかったし、贅沢もしなかった。
なにより⽗には、先取の精神があった。そのうち⽗は、ただパイプを⽣産するだけでなく、⾃らの製品として売るようになる。
社名を「柘製作所」と改め、喫煙具だけでなく、ネックレスや万年筆のボディ、象⽛のステッキや数珠まで、持てる技術を⽣かしてさまざまなものを⼿がけて苦境を凌いだ。
結果として⽗は、昭和39年(1946年)、浅草の⼆階家をこわし、町内ではまだ珍しい5階建てのビルをこしらえた。
その地下室と1,2階とを⼯場にし、最新鋭機をイタリアから買い付け、⽣産ラインを⼤きく変えた。
職人は商人の、商人は職人の心を持て。
「職方商人」 が父の教えだった。
柘製作所には、いまも残る⽗の教えがある。
「職⼈は商⼈の精神を持ってもの造りを⾏い、商⼈は職⼈の精神を持ち商いを⾏え」。
すなわち、職⽅商⼈(しょっかたあきんど)たれ!という考えだ。
職⽅が職⼈の枠のなかにとどまって⼿間仕事をこなしているだけだと、いいモノはできない。
商⼈もまた、商品を右から左に売るのではなく、つくられたモノを最⼤限に理解したうえでお客様に売ることが肝要だと⽗は説いた。
こうしてはじめて付加価値のあるものが⽣み出され、仕事に発展性が出てくるのである。
⽗は、職⼈の気概を愛していた。
あるとき外注先の職⼈さんから、値上げをしたいとの通知があった。
その交渉役に、⼊社していた恭三郎さんが選ばれた。
もともと職⼈さんは⼩さくとも⼀国⼀城の主であり、⾃分は腕で稼いでいるという⾃負がある。
お互いが利害で結びついてもいないし、上下関係にあるわけでもない。
「下請け職⼈さんに『まけろ』という⾔葉は⾔うな。まず値上げを受けて、折り合いをつける。
彼が帰って職場の⼈間や家族に柘製作所を説得してきた、と華を持たせるように。彼らの仕事に対して⾃尊⼼を傷つけるような態度や⾔葉に気を付けるように」、
そう⽗に念を押された。
職⼈としての苦労を嘗め尽くしてきた⽗だからこその交渉術だったに違いない。
TSUGEの名を世界に広めよう。
とんでもなく壮大な計画が始まった。
⾼度成⻑が始まり、売り上げも伸びていった。
しかし⽗は安住しない。⼦にはいつも、次のことを考えておけ、と⾔っていた。
それもあって、恭三郎⽒は学⽣時代に何度も貧乏旅⾏で海外を旅し、ときには4カ⽉かけて世界を⼀周したこともある。
海外旅⾏⾃体がまだ珍しい時代に、数え切れぬほどの国を訪れて経験と知⾒を積んだ。
まもなく為替レートが変動相場制となり、どんどん円⾼になっていくのを機に、⽗は海外からパイプを仕⼊れて国内で売ることを始めた。
恭三郎⽒が⼊社したときには、⾃社の製品はもちろん、輸⼊品のパイプも売る喫煙具関係の総合取扱会社になっていた。
⼊社してすぐに恭三郎⽒は、新婚まもない奥さんと2⼈で貿易部をつくり、輸⼊業務を⼤きく変えていった。
これまで商社に頼っていたブライヤーなどのパイプの原材料や吸⼝の材料となるエボナイトなどを、新規の取引から⾃前で仕⼊れるようにした。
そのうち、好調なうちに「世界の⼀流店に並ぶパイプをつくろう」という気運が沸き起こった。浅草から世界へ⽻ばたこう!という、
まるで雲をつかむような壮⼤な話であったが、本気で⾛り出した。
まずは社内の職⼈たちをヨーロッパに連れて⾏き、量産のファクトリーパイプの⽣産現場を⾒せながら、本場のパイプづくりを学ばせた。
並⾏してフリーハンドパイプづくりに天分を⾒せていた職⼈2⼈を、当時最先端だったデンマークの作家のもとに修⾏に⾏かせ、それを何度か繰り返させた。
そのときの⼀⼈が、15才から70年間もの歳⽉を柘製作所でパイプづくりに励んで数々の名品を世に送り出し、職⼈にして伝説的なパイプ作家となった福⽥和弘⽒である。
⼀⽅で、著名なデンマークのメーカーの⼯場⻑を⽇本に招聘し、ファクトリーパイプのつくり⽅を伝えてもらったりもした。
そうした貴重な経験を繰り返すことで、浅草職⼈本来のモノづくりの才が花ひらき、職⼈たちは格段の進歩を⾒せていた。
本格的な海外進出のきっかけは、以前から交流があり、当時世界⼀とされたシカゴの⼩売店の社⻑夫妻がクィーン・エリザベス号での世界⼀周旅⾏の途中で東京の柘製作所にも⽴ち寄られたことだった。
そのとき、せっかくだからと福⽥⽒の作品を⾒せた。
と、彼らはその出来栄えに感嘆し、おもわず「⽇本にもデンマークに匹敵するパイプがあるんだ」と⼝にした。
⽒の⾔葉に⼀同が⼤きくうなづいたことは⾔うまでもない。
そこからの⾏動は速かった。
翌年には、独フランクフルトメッセに出展した。と、すぐにドイツの会社から東欧以外のヨーロッパ各国でこれを売りたいとの申し⼊れがあった。
そして数年後には、約束どおりヨーロッパ中のパイプ店にTSUGの製品が並ぶことになった。
さらに4年後には⽶国へも進出し、ワシントンでは展⽰会に持っていった30本のパイプが初⽇の午前中に売れた。
苦節の時期を経て柘製作所は、数え切れぬほどの国々と取引をさせてもらっている。
かつて有り得ないと思ったことが、がむしゃらに⽬標へと突き進んできたことで、いまやそれが現実となってくれている。
はじめて、日本人が「パイプの騎士(ナイト)」の称号を授与されたとき。
昭和62年(1987年)11⽉のことだった。
おもいがけず恭三郎⽒は、英国のパイプ王と⾔われたジョン・アドラー⽒に推挙され、フランクフルト郊外の古い公会堂で「騎⼠」の称号を授与されることになった。
この称号は、たばこ愛好家の組織であるドイツのタバココレギウムが主催し、
パイプを通して世界中に友⼈の輪を広げ世界平和に貢献している⼈物に、2年おきに1⼈を選んで与える名誉あるものである。
宣誓式に先⽴ち、アドラー⽒が恭三郎⽒について推薦理由を述べた。
「世界中のパイプ業者、パイプたばこ業界であなたの名を知らない⼈はいないと⾔っていいほどだ」と。
ちょっと⼤げさじゃないないかとも思ったが、もっと驚いたのは、ヨーロッパの各地からTV、ラジオ、新聞などのメディアも含め、500名ほどの⼈々が詰めかけていたことだった。
やがて壇上に上げられると、⻄洋の甲冑に⾝を包んだ会⻑が⼿にした鉄剣を⽒の肩に置き、「これからも世界に友好の輪を広げ、平和に貢献するか!」と問うた。
事前に教えられていたから、きっぱりと「ヤー」と答えた。聴衆は喝采し、祝宴は夜中の2時ごろまでつづいた。
思えば、⽗が13才で丁稚奉公に⼊り、⼀介のパイプ職⼈から会社を興して、半世紀もの⻑い時間が流れていた。
このとき⽒は、柘製作所はついに世界に認められる存在になったと実感した。
と同時に、⽗⺟や兄弟、会社のスタッフ、仕事でお世話になっている⽅々に対する感謝の念があふれるようにこみあげていた。
TSUGEがつくる新作を誰より早く手にしたい、と訪日されるお客様に。
柘製作所には、職⽅商⼈という⽗の教えが沁み込んでいる。
⼈を尊重し、認め合うことで⾃分を⾼め、持てる技術を存分に伸ばしていく。
出来上がった製品にはどれも、随所に浅草の職⼈のモノづくりの奥深さが込められている。
⼀点⼀点ハンドメイドでつくるパイプは、数が知れている。
それでも多くの外国の⽅々が浅草・寿町を訪れるのは、早くTSUGEの新作を⾒たい、⼿にしたい、と待ちわびておられるからだ。
わざわざ遠く柘製作所まで⾜を運んでくれた外国のお客さまには、商談のあと、できるかぎり恭三郎⽒⾃⾝が案内するようにしている。
浅草界隈できっと喜んでいただけるだろう処へとお連れするのであるが、そんなときは、お相⼿に合わせて、趣向を凝らして和服で向かうことが多い。
浅草はもともと着物を着る⼈が多い。
江⼾⽂化を引き継いでいる⼈が多く暮らすからだ。花柳界も、寄席芸⼈も、新内の⼈も、幇間の⼈も、みんな着物が⽇常着である。
柘製作所にも昔は着物で通ってくる職⼈がいた。恭三郎⽒の⽬には、少年時代にかっこよく映った⼈びとの映像が沁みついている。
だからだろう、帯や⾜袋、根付、扇⼦、⼿拭いから⼿に持つ合切袋まで、⽒は誰よりも造詣が深い。
⼩さな芸術ともされる根付などについては、⾃⾝がコレクターでもある。
パイプに関しては、TV番組の鑑定や時代考証に駆り出されることもあるほどだ。
訪れる外国⼈の⽅々に、少しでも⽇本⽂化を知ってほしい。そうしてTSUGEの技と⼼を感じてもらえるなら、もっとうれしい。
浅草を知り尽くした「若」の、⾯⽬躍如の時である。
恭三郎⽒は、無類の世話好きを⾃認する。
じつは、それにも理由がある。狭い地域に雑多な⼈間が⾝を寄せ合って暮らす浅草で、代々、伝統的に育まれてきたものだからだ。
下町では、隣家との間には⼈がやっと通れるくらいのすき間しかない。
声は聞こえるし、⽇々の様⼦も知れる。お互いの⽣活が筒抜けだから、気取ることもなく、飾ることもないのである。
⽒も⼦どものころから、誰かの家で当たり前に⼣飯を⾷べたり、もらい⾵呂をするのが⽇常だった。
気軽に声をかけたり、かけられたり。
恭三郎⽒が初対⾯の⼈間にも旧知の⼈のように垣根なく親しげに振る舞うのは、そのせいだろう。
世話好きはなにより、⼈間好きの裏返しでもあるから。
もとよりそれは、外国の⼈に対しても変わらない。誰であれ、まずは相⼿の気持ちを第⼀に考えて⾏動する。
だから出会った⼈は、すぐに恭三郎さんを好きになってしまうのだろう。
「若」が歩いた道には、どこも、さわやかな⾵が吹いている。
文:瀧 春樹
●柘製作所 TSUGE est.1936 JAPAN