君の背中に贈る言葉

TASHIRO KAZUMA

田代 和馬 氏

ひなた在宅クリニック山王 院長
内科学会認定内科医


断らない。逃げない。見放さない。

その医師の存在を知ったのは、なにげなく聴いていた友人の会話のなかだった。
どんな末期の患者であろうと、絶対に治療を断ることをしない。途中で放り出すことも、見捨てることもない。最後の最後のその時まで、全身全霊を尽くし、徹底して患者に向き合ってくれる医師がいるという。
友人はそのまま話を続けた。

死に瀕した人たちを、私たちはどれだけ強く抱きしめられるだろう。

ある女性が、疎遠になっていた高齢の父が余命いくばくもなく、自宅でその日を迎えたいと言っていると姉や妹から知らされた。
いい父親ではなかった。姉妹のなかでもとくに父の生き方を一番腹立たしく感じていた。
それどころか、彼女自身が新型コロナウイルスの影響をもろに受け、仕事も、日々のことも、これからどうしていくのかの重い決断を迫られていた。
何を、いまごろになって。あんな人は、放っておけばいい。一度は切って捨てた。

ところが日を追うにつれ、気持ちがすこしずつ変わっていった。
あんな人でも父は父だと思ったら、どうしたことか、愛おしさがこみあげてきた。ただ、自分はいま誰かに手を差し伸べられる状況にはない。どうしたらいい。何ができる。思いあぐねた末に、ある医師を訪ねた。

若い医師は、こう言った。すべては任せてください。貴女は貴女のことをやればいい。つらいこと、面倒なこと、それらはすべて私たちがやります、と。
もしほんとうなら、どれだけ救われるだろう。でもそれは、娘である自分たちにさえ実際にはなかなかできそうもないことだった。

が、そんな不安も、たちまち消えた。
目の前の医師集団は、まさにその言葉どおりに、本来は身内がやらなければならない一切のあらゆる面倒なことを引き受けてくれた。そして父は、本人が望んだとおりに、自分の家、自分のベッドの上で安らかな寝顔を見せて旅立っていったという。
「がんばらなくていいんですよ」
その医師のひと言に一瞬にして救われた、まるで魔法を見ているようだった。そう彼女が言っていたよ、と友人は話を締めくくった。

そうなんだ。そんな医師が、いてくれるんだ。
話を聴き終えてひととき、胸に明るい灯が点った。が、それにしても、何が彼をそうさせているのだろう。さまざまに自分を犠牲にして、どうしてそこまでやりつづけられるのだろう。
その人を知りたい、と思った。

貧しい母子家庭に生まれた少年に舞い降りてきた、最高にたのしい日々。

その医師、田代和馬さんは九州の宮崎に生まれた。
残念ながら非課税世帯の母子家庭で、暮らしは貧しかった。ごくふつうの子どもだったと思うが、 小学校の学力テストの成績が上位だったことから、思いがけず鹿児島にあった中高一貫教育の池田学園から声がかかった。多彩な実践を通じて国際的 なリーダーを育てようとする学校で、寮費はかかるが奨学金が出て学費は免除された。
ありがたかった。

同校には全国から、いろんな生徒たちが集まる。医者や弁護士志望の生徒が多く、そんな仲間たちと中高6年間の寮生活で寝食を共にする。世界は広いんだと知らされ、それぞれがチャレンジを掲げていたから刺激も受けた。たまたま勉強ができたというだけで、ふつうなら出会えなかった環境に入り込めたのは、幸運だった。

ただ、心のどこかに、自分が生まれ育ってきた境遇を敏感に感じ取ってもいた。
だから、卓球部の顧問の西村先生が「世の中には大学受験という、人生一発逆転のシステムがある。君の人生で最後に与えられた平等なチャンスだ」と語ってくれたとき、胸が高鳴ったことを覚えている。

学校生活は楽しかった。新入生のときは年上ばかりだが、1年ごとに上が減っていく。3年後には弟も入学してきて、高校3年時はまわりが子分ばかりで、天国みたいになった。 暇を見ては映画館などに出かけ、学校ではサッカーや野球や卓球に熱中し、体育館を独り占めしてスポーツと遊びに打ち興じた。

その反動はすぐにやってきた。
11月の模擬試験だった。えっと声が出るほどひどい成績で、現実をはっきり突きつけられた。いまのレベルで浪人したら、こんどは学費も出ない。焦った。
そこから田代さんは猛勉強に入っていく。おまえどうしたんだ、友人は一様に驚いたが、勉強に集中した。
その甲斐あって、なんとか地元の宮崎大学医学部医学科に拾ってもらえた。
おかげで医師になる道がつながったのだが、かつて自分を奮い立たせてくれた西村先生は医学生のときに他界されてしまい、ついに医師としての姿をお見せすることはできなかった。

ふらふらしながらも、医師としての将来の姿が見えてきた、宮崎大学医学部のころ。

医学部にもぐりこんだものの、6年間の大学生活は期待していたほど楽しいものではなかった。
宮崎は地元であり、田代さんにとっては自ら望んで入った大学であった。たぶんみんなもそうなのだろうと思っていたら、そうではなかった。
東京の大学の受験に失敗して、都落ちしてきたと感じている学生がたくさんいたからだ。
そのくせ彼らは、卒業後も大学に残って、やがては教授になってと、金太郎あめのような将来図を描いていた。それが悪いとは言わないが、共感できるものはなかった。
そのうち彼らに対して逆差別のような意識も芽生え、大学が急につまらなくなり、講義をさぼりまくるようになった。

大学4年のときに特別講義があった。出席日数も単位も足りないから、受講せざるを得ない。出席してみたら、その講師が破天荒だった。
教壇に立った清山知憲医師は、いまの大学の研修制度を痛烈に批判し、そこに集まる人たちの気概のなさを嘆いた。身内の批判はタブー中のタブーなのだが、 臆することなくバッサバッサと斬り倒した。
その人は医者になって4年目、地元宮崎の出身で、当時まだ29才だった。東京大学の医学部を卒業したあとの2年間を激務で名高い沖縄県立中部病院で鍛錬し、 その後ニューヨークに渡ってアメリカの医師免許も取っていた。相当に優秀な、いわゆる逸材であることは理解していたが、とんでもない医師がいるもんだと、心底驚いた。

学生のほとんどは講義の途中で消えていた。
残ったのはどうしても単位がほしい学生と、おもしろそうだと感じた一部の学生だけだった。そのなかに田代さんはいた。
後日、清山医師に冗談まじりで「先生は東大を出てるから、そんなことを平気で言えるんですか」と尋ねたら、彼は「世界を見ろ」と返した。 そうして国内だけでは得られないさまざまなことを教えてくれた。

医学部では、最初の1年で一般教養を学んだあと、2・3年生で解剖や生理、病理学や微生物学などの基礎を学ぶ。4年生になって内科や外科などの臨床を終え、5年生になってようやく附属病院での実習が始まる。
田代さんは6年時に、アメリカに実習に行った。研修と言っても日本ではただ教授の後ろについて見学するだけで、実践の機会は与えられない。アメリカは違った。みずからが体験しながら学んでいく。清山医師が指摘した、ほんとうの医療の形が見えた気がした。

アメリカの海軍病院での1枚

行き場のない患者さんがいたら、絶対に 「自分が最後の砦になる」 という覚悟を持て。

大学を卒業し医師国家試験にも合格した田代さんは、研修医としての次なる場を、かつて清山医師がおもしろいと言っていた沖縄の病院に決めた。それには明確な理由があった。

時代はさかのぼるが、戦後すぐの日本では医師が激減していた。これでは立ち行かないと、アメリカのハワイ大学がその附属病院として医師を育てるための教育病院を設立した。
それが、沖縄県立中部病院(OCH)だった。

日本では内科なら内科、外科なら外科のことしかしないが、OCHではスーパーローテーション研修医と称し、ひと通りのことを経験させ、幅広いスキルを持った医師を育てることを主眼としていた。
沖縄は離島が多い。一方で、島の医療資源は乏しい。どんな患者にもすぐに症状を見抜いて最適な処置を導く、現場での力量こそが求められていたのだ。

みんながOCHスピリットと呼ぶ「断るな! 見放すな!」の理念をそこで徹底して叩き込まれた。
都会なら、救急車は病院に事情を告げ、「できますか」と問う。しかしここでは、そもそも病気の人を断るという前提がない。
「いまから連れて行きます」の連絡が入る。際限なく患者さんが運び込まれ、研修医として入った1年目に年間で2000人という圧倒的な救急外来を受け入れていた。
怖ろしいほど忙しい病院だった。

研修医時代に救急外来1000人目を診たとき

難行苦行の連続を強いられるそんな病院を、たいていの医学生は敬遠する。
が、考えてみれば、高度な実戦に次ぐ実戦の場に身を置いてこそ、猛烈な勢いで医者として成長していけることになる。
田代医師は初期研修として4年間、徹底的に鍛え上げられることになった。

田代医師はここで、生涯の師と出会う。
腫瘍血液内科でずば抜けた臨床力を持った、朝倉義崇先生である。
先生は多忙な日々のなかにあっても、膨大な最新の医学知識を蓄積しておられた。だからこそと言うべきか、患者さんのふとした言動からも病気解明の糸口をつかみ、それを診断と治療につなげる圧倒的な洞察力を持った人だった。

先生は研修医に、とりわけ問診と身体診察を極めることを求めた。
まずは話を聴け。それから、診て、音を聴け。それで8割くらいは突き止められると説いた。いわゆる臨床推論だが、医療資源の乏しいところではなおさらその能力が要求される。先生は同時に、CTやMRI,顕微鏡初見など、放射線科が舌を巻くほどの画像分析力も有しておられ、何をとっても他の追随を許さない存在だった。

心にずしんと響いた教えがある。
それは「患者さんや家族を、絶対にがん難民にさせない」とする信念だった。
がん難民とは、他の医療機関に断られて行き場を失くしたがん患者さんのことだ。がんには肺がんのような一般的なものもあれば、めったに罹患しない稀少がんもある。それらはさらに細分化され、最終的なカテゴリーによっては特殊な知識と経験がなければ対応がきわめて困難になる。どんながん患者も絶対に断らないというのは一見当たり前のことのようだが、現実には相当に難しいことなのである。

そのうえで、さらに大事なことがある。
腫瘍内科医である朝倉先生は患者さんに対して、しばしば病名告知から治療のリスクの説明、ときには予後(余命)のことなど、重い事実を正確に伝えることになる。たとえ知識や経験があっても、そのときに患者さんから信頼してもらえなければ自分のもとを去って行かれ、がん難民になりかねない。

だからこそ先生は、困り果てておられる患者さんに「自分が最後の砦になる」ことを誓い、誰よりもそれを自覚してみずから率先して治療に臨んだ方だった。

研修医のころ

離島で見た、人間らしい尊厳のある最後。これこそが、自分の医師としての仕事かもしれない。

人並外れた先生たちの薫陶を得て田代医師が向かった先は、伊平屋(いへや)島、石垣島、波照間(はてるま)島だった。
たくさんの方を治療していれば当然、高齢の患者さんを看取ることが多くなる。
都会の病院では終焉のとき、みんながモニターの画面を見ている。しかし島では最後の最後まで、みんながみんな、ずっとおじいちゃんやおばあちゃんと向き合っている。
そしてその方たちは自然に帰っていくように、ゆっくりと、ご自宅のいつもの布団の上で、穏やかな表情を浮かべて仏さまになっていかれるのだ。

日本の医療界は一方で、大きな問題を抱えていた。
もはや治療が困難となれば、たとえ本人が望まぬことであっても、医師は次の病院なり施設に送り込まざるを得ない。身内の方々も、これからの介護を思い、やむを得ぬこととして医師の判断を受け入れる。死に瀕した人は最も弱き人であり、その声はなかなか届かず、結果として病院は終末期の人であふれて、治療を必要とする人のための場所が無くなっていく。
緊急性の高い人たちを治療する急性期病院が困っている現実があった。

田代医師は島をめぐりながら、尊い瞬間である終末期のケアがいかに重要な仕事であるかを認識し、同時に人口の多い都会での病院が抱える問題も懸念していた。
大都市でももっと在宅訪問診療が当たり前になっていけば、その方や家族のご希望にしっかりと応えられるとともに、病院での治療を必要とする方々を受け入れられていない病院を守ることにもなる。果たしてそれは、できない相談なのだろうか。想いが募った。

日々、地域医療に従事しているうちに、想いはやがて確信に変わっていく。
医療職と介護職が協力してがんばれば、患者さんの希望を叶えながら、病院の在りようを変えていける。できないことではない。
なにより自分には、絶対に「在宅看取り難民にさせない」という大事な使命がある。それが天職かもしれない。あとは、実際の行動だった。

診察風景

無謀だとわかってはいたが、頼る者もない東京の一隅に拠点を構えて。

3年間にわたる離島での後期研修を終え、田代医師は認定内科医になった。
アメリカでさらに研鑽しようとも考えたが、そのための6年という時間はあまりに長く、もったいないものだった。計画を巡らし、かつて大学の講義で衝撃を受けた清山医師に相談した。
いきなり東京で在宅医療のクリニックを開くと言えば、当然、厳しい見方を示されるだろう。そう思っていたら、やってみろよ、行けよ、と清山医師は背中を押した。
やはり、どこか破天荒な人だった。

ただ、のろしは上げてみたものの、頼れる医療職の知人が東京にいるわけでもない。場所は大田区に決めたが、地縁があったわけでもない。すべてが手探りで、無謀な考えであることはすぐにも思い知らされた。
それでも何とか、たいへんな思いを続けて、2019年4月に「ひなた在宅クリニック山王」を立ち上げた。

少しずつ患者さんが増え、いまでは年間で130人ほどの看取りをしている。
振り返れば、どこの誰ともわからない若い医者に自分の人生をゆだねてくれた大森の方々の信頼に応えたい、の一念でやってきた。
2年を過ぎたいまは、平日も、週末も、ときには夜中も、ずっと往診である。
それでも、診療することが楽しい。よくなったよとか、安心できたとか、先生に看取ってもらえてよかったと言われれば、途方もなくうれしい。

診察風景。つま先の先まで丁寧に診ます。

最近では、新型コロナウイルスに感染した患者さんの治療も手がけている。対応できる病院が少なかったから少しでもお役に立てればと必死に調べ、専門の医師を訪ね、現場に耳を傾け、知見を深めてきた。コロナの患者さんには往診のみで対応している。
チームは、出会った患者さんは一人として死なせるわけにはいかないと、全身全霊でやっている。

確かに、らくな仕事ではない。最後まで患者さんに真摯に寄り添い抜くことに自己犠牲は避けられない。開院当初のメンバーの多くが去っていったのも、そのことに耐えきれなくなったからだろう。
いま頑張ってくれている人たちは、決して特別な訓練や教育を受けてきた方々ではない。ハローワークやふつうの求人媒体を通して集まった仲間たちである。それでもずっと一緒に日々患者さんのケアを行い、お互いが成功体験を積みあげていくことで、意識は共有できている。
「訪問治療でできることはこんなにもあるのか。なら、もっとがんばろう」
おなじ思いを繰り返してきた、誰よりも心強い人たちなのである。

田代医師はかつて朝倉先生と出会い、師と仰ぐようになり、そのひたむきな姿勢に心を打たれてひたすら後ろ姿を追いかけてきた。いま、もしここで、同じことが現チームのなかに芽生えてくれたら、それ以上の喜びはないだろう。

尊敬する理事長と。

試練が多く待つ外へとは向かわず、大学に残って教授への道をひた走る。それが医者の権威ある王道だとすれば、田代医師たちの向かうところは王道からはどんどん離れていく。
ただ、患者の側から見れば、自らを捨てて患者に立ち向かってくれる本気の医者たちが、どんどん自分たちのほうに近づいてきてくれることを意味する。

それこそが最も社会から支持されるべき道だと思えて仕方がない。


文:瀧 春樹

●ひなた在宅クリニックホームページ https://hinata-clinic.net/