君の背中に贈る言葉

TAKAHASHI HIDEYUKI

高橋 秀行 氏

ステート・ストリート信託銀行株式会社 取締役会長


きっとそれは、チャンスに変えられる。

世界が声を失った日。
2001年9月11日の早朝、アメリカ合衆国ではボストン、ダレス、ニューアークで計4機の旅客機がほぼ同時刻にハイジャックされていた。 そして8時46分、そのうちの1機が乗客たちの絶望を乗せたままマンハッタン上空へと飛来し、ニューヨーク世界貿易センタービル北棟へと突っ込んだ。

このとき高橋秀行氏は、真向かいの高層ビルにいた。
当時勤務していた野村證券米国現地法人がそこにオフィスを構え、氏は最高執行責任者であるCOOとして、1年前から赴任していたのである。

刹那、凄まじい地響きが全身を貫いた。

館内放送は、隣のビルで火災が発生していると伝えた。が、それよりもっと、何か想像もつかないたいへんな事態が起きていることはだれにもわかった。
続いて爆音が響き、南棟の高層階から猛然と真横に火柱が吹き出した。噴煙のなかを、ガラスの破片が容赦なく人びとに襲いかかる。
「飛行機がこっちに向かっている。すぐに避難せよ」
放送は緊迫を増していた。すぐさま22階から1階へ、全員で駆け降りる。 携帯電話は使えない。基地がやられ、情報はなく、この時点ではだれもテロだとは知らされていない。

ビルを降りたところに、ハドソン湾に面してフェリー乗り場があった。
対岸はニュージャージーである。そこにもう一つ、野村證券の小さなオフィスがあった。まずはそこに移動し、連絡手段を確保すべきだと考えた。
船に乗り込んだが、その時もまだ、突っ込んだ物体が飛行機であるとはわからなかった。
そして船が岸壁を離れようとしたとき、衝撃の激しさから、先に南棟が轟音とともに崩れ落ちた。

地獄を見ていた。
対岸ではあちこちが封鎖され、行きたいところに行けない。 方法はヒッチハイクをしかなく、20~30分も押し問答をして、強引にヒスパニックの人の車に乗せてもらった。スペイン語のラジオ放送が、ペンタゴンもやられたと報じ、ここではじめてテロであったことが知らされた。

生き残った人間も、だれもが深い傷を負うことになった。
社員1,400名を10ヵ所ほどに分散させた。ニュージャージーの臨時拠点には、250人ほどしか入れない。 廊下に社員があふれていた。自宅待機でいいよとみんなに伝えるのだが、それでもみんなが出社してきた。 憶測や風聞が飛び交い、テレビではショッキングな映像を繰り返し流している。自宅に籠っていると気が狂うような気がするからだった。

炭疽菌テロも追い打ちをかけた。
「白い粉が手紙に付いていた気がする。感染したかもしれない」、「炭疽菌感染者が出た場所の近くに昨日いた。気分が悪い」等々、すべては不安と強い思い込みからくるのだが、社員が落ち着かない。 不安に駆られたあまり、ある社員の通報でFBIがやって来て、オフィスを封鎖されたこともある。
ニュージャージー州の病院から感染症の専門医に来てもらい、全社員に向けて説明会を開いた。「炭疽菌の感染力やダメージは、大腸菌より弱いです」専門医の一言で、社員の不安は急速に収まっていった。
元のビルにもどったのは、半年後のことだ。飛散したアスベストなどの危険なものを徹底して排除し、空気ダクトにもファイバースコープを入れて確認。埃やチリが残りやすい壁紙やカーペットなどはすべて張り替えた。 万全を期しての帰還だった。

いまでも思い出す光景がある。
テロから3日後のことだった。様子を見ておこうと立ち入り禁止のオフィスに特別に入れてもらった。ドアを開けた瞬間、おもわずわが目を疑った。 なんと、会議用の大きなテーブルの上に、瓦解した貿易センターの残骸と思われる 鉄の塊が居座っていた。
それからはずっと、飛行機の離発着を見るのさえつらかった。事件について人と話せるようになるには1年くらいもかかったろうか。心の傷は容易に癒えなかった。

バンドに明け暮れた大学時代。当時19歳。

氏は1956年1月に、東京世田谷の経堂に生まれた。
早稲田大学に在籍していたころはバンド活動に明け暮れて、いざ卒業するさいになって慌てた。自由に就職先を選べる成績ではなかった。
当時の学生の間で敬遠されていた最も人が定着しない業種の一つに、証券会社があった。あるときゼミの先輩が「ボーナスが高いぞ。25、6才でBMWが買えるぞ」と囁いた。これで、野村證券への入社が決まった。

最初の赴任地は、千葉の船橋支店だった。連日、小さい会社や商店を飛び込みで回る。 朝から晩まで「株、買ってください」である。そのうちにいくつか、お客様ができてきた。むろん専門性を評価されてのことではない。 「毎日来て、可哀相」とか、「雨に濡れて可哀相」というのが理由だった。情けにすがっての営業だった。もとより株は、日々、変動する。 損をされるお客様もいて頭を抱え込むこともしばしばだった。そんなことも経験しながら、だんだんとそのおもしろさに魅せられていく自分がいた。

野村證券には幸い、海外の大学で学べる社内留学制度があった。勢い込んで応募したら、見事に落ちた。翌年も応募しようとしたら、上司が言った。 「もういい。これ以上、恥をかくな」そう言われて考え直してもみたが、恥をかくのはどうせ自分だと、腹を決めた。と、意外にも合格した。
留学先はオーストラリアのキャンベラにあるオーストラリア国立大学だった。1983年から2年間頑張ったが、情けないことにマスターの資格を取れず、失意のままに帰国させられると思ったら、そのままロンドンに行けと指令が出た。 日本企業の株を外国の投資家に買ってもらうことが任務だった。

1年後には、アムステルダムへと赴任することになった。そこでチームの立ち上げを任された。その2年後には、ヨーロッパの金融の中心であったルクセンブルグへの異動が決まった。 こんどは、一人で銀行法人を開設せよとの命令である。証券業務はわかるが、銀行業務は経験がない。考えに考えた末、奇策に打って出た。 競合相手であるはずのロスチャイルド銀行に「将来、きっといいことあるから」と頼み込み、まるまる1週間、朝から晩まで同銀行に詰め、この国のやり方を習得した。 その後、銀行免許の取得など当局との交渉を行い、ゼロから立ち上げを行った。約束どおりロスチャイルドとのビジネスも広げた。帰るときに30人だったスタッフが、いまでは400人に膨れあがっているという。

1986年、息子とロンドンにて。

3年余が経過した1991年の師走、9年ぶりに日本へともどった。
はじめての本社勤務である。海外では小なりとはいえ現地法人の社長の立場にあった。が、本社ではそうはいかない。満員電車に揺られ平場の机に向かう、一課長の生活が始まった。 海外経営戦略部門の企画担当ながら、実際は副社長のカバン持ちと秘書も兼ねていた。
1995年になると、こんどはドイツのフランクフルトにある野村銀行の社長を任される。さらに2年後の1997年には、再びロンドンへと赴任。欧州全体の株式部門の部門長となった。
そして2000年の春、冒頭にあるニューヨークに赴任した。このころ、まだ若かったが、本社の取締役にもなった。ようやく帰国できたのは、2007年のことだった。

社会人になって通算21年間を海外で暮らし、19回も転居を重ねてきた。個人的には、こんどこそ、比較的穏やかな暮らしが待っているはずだった。
が、またしても未曾有の出来事に直面する。
氏はその時、リサーチのグローバルヘッドを担当していた。2008年のリーマンショックを受けて、米国大手の証券会社リーマンブラザースの欧州とアジアの業務を野村證券が買収。 結果として、世界中で600名を超えるエコノミスト、アナリストを擁する強力な部隊が誕生し、そこを任されていた。
このリサーチ部隊は、証券会社リサーチ部門でつねに1位を独占し、海外の投資家からも高く評価されていたものだ。

2006年、プエルトリコでサープーンという魚を釣る。

2006年、クリスマスパーティで現地社員とバンド。右端が高橋氏。

野村アメリカの社員バンドのメンバーと。

NYで友人とスズキを釣る。2005年

そして、2011年3月11日。あの東日本大震災が起きた。
日本国内での株の売り買いは、65~70%が外国人投資家によるものだ。が、日本で未曾有の大災害が起きていながら、遠くにいる彼らは真実を知ることができない。地震の被害に加えて、さらに原発の問題が発生した。
日本はどうなっているんだ。チェルノブイリよりひどいのではないか。これから、どうなる。さまざまな不安と憶測が飛び交っていた。根拠のない噂が広がると、消しようがない。彼らの反応しだいでは、大暴落が起きてしまう。 いわば、国を売ることになる。
世界にどういうメッセージを発信するか。日本のナンバーワン証券会社として、何としても日本のマーケットは死守しなければならなかった。

ニューヨークの、同時多発テロ後の社会の混乱をつぶさに見て、肝に銘じていたことがあった。ありのままを伝えてもらうほうが、人は落ち着く。歪曲せずきちんと伝えるほうが、リスクを減らせる。それだった。
あらゆる手立てを使い、原子力問題を正しく評価してくれる専門家を探した。香港の部下を介して、アメリカの専門家が見つかった。部下は、世界中の投資家をつないで電話会議を行いたいと希望した。 アメリカの専門家がどう評価するかはわからない。しかし、やらなければ重大なことを隠しているのではないかと思われ、取り返しのつかない疑心暗鬼を生む。
電話会議を許可したが、話がおかしな方向に行くようなら無理やりにでも割って入って止めようと身構えていた。結果、その人は冷静に、公平に語ってくれた。それほど心配しなくていいよ、と言ってくれた。納得できる説明だった。
騒ぎはまもなく、鎮静した。

57才の役員定年を機に、乞われて現在のステート・ストリート信託銀行の会長となった。世界中の顧客から3,000兆円もの株や債券を預かって一元管理しており、その業務において世界一とされる。
日本は資源のない国であり、いまや金融資産こそが日本の資源とも言える。
将来を考えれば、この国はそれを求める国に投資してビジネスチャンスを開拓していかざるを得ない。そしていまいる信託銀行には、それらのためのベストな環境が整っている。戦略がわかりやすい。自分では大いに気に入っている。

あのとき、乗っ取られた飛行機がビルのそばをかすめ、目の前にあった109階建ての超高層ビル2つが崩れ落ちた。
一歩間違えば、死んでいたかもしれない。あれから「自分がやりたいことはちゃんとやろう」と考えるようになった。
いちいち上司にお伺いをたてて、それでイエスと言ってもらっても、失敗すれば同じことなのである。
生命にかかわること以外、ほとんどのことは大したことじゃない、と思う。
だから、むやみに驚いたり、びくびくすることもない。
自分のためになることをやって自分の価値が上がれば、それは組織の価値にもなる。
振り返れば、何度も自分の気持ちとは異なることをやらされてきた。最初は首を傾げても、「これって、ほんとうは好きなことかもしれない」そう考えを切り替えたら、大抵はうまくいった。 前を向く強い意志さえあれば、何だってチャンスに変わってくれる。真実、そう思う。

金融機関の会長と言えば、多くの人が、近寄りがたい重々しい人物を連想することだろう。しかし氏は、そうしたイメージからはほど遠い。 長い海外暮らしでも、音楽好きを集めてはバンドを組み、チームの呼吸を育んできた。いまでも暇さえあれば、楽器を担いで演奏に出かけていく。
この人に、垣根は見えない。世界中で戦ってきたゆえなのか。金融界のトップにも、こんなにやわらかな、いまも青年のような志を持続している方がいる。ノーネクタイが似合う会長に、終始、さわやかな衝撃を受けていた。


文:瀧 春樹