名人に会いたい

IKEDA TADASHI

池田 匡志[ただし]

奈良団扇・奈良扇子製造本舗 池田含香堂[がんこうどう] 六代目当主


いにしえの奈良の都の涼風が、今によみがえる。

世は、移り変わる。
そのなかで、はかなくも消え去っていったものは多い。

この国は、世界がうらやむほどの優れた伝統工芸を有していたはずだった。が、いまに残るそれらの製作現場では、いちだんと高齢化が進んで深刻な後継者難に直面し、多くの場面でまさに存続の危機に立たされている現実がある。

言うまでもなく、一つの工芸品は熟練されたさまざまな人の手によって支えられている。どれかが欠けても成り立たないものがほとんどであるにもかかわらず、特段の手が差し伸べられることもないまま、その人がいなくなれば終わるという、ぎりぎりのところにまで来てしまっているからだ。
もとより、いちど滅びれば、それを取りもどすのは至難のこととなる。

ところが、である。
かの奈良の地で、それとはまったく逆の、思いがけないことが起きていた。
江戸中期にいったんは滅びたはずの伝統技術を、強い想いをもって明治期にみごとに復活させ、相次ぐ苦難のなかで、さらにそのバトンをいまに受け継いできた人たちがいたのだ。

これは、奈良の三条通りに奈良団扇の看板を掲げる池田含香堂の若き六代目当主、池田匡志さんとその母、俊美さん母子の軌跡である。

奈良に生まれた日本最古の団扇は、深い眠りのなかにいた。

話は、平城京のころにまでさかのぼる。
世界遺産である奈良の春日大社は、西暦768年に創建され、昨年で1250年の節目を迎えた。日本最古のあおぐ団扇(うちわ)とされる奈良団扇は、その春日大社の禰宜がつくった禰宜団扇(ねぎうちわ)が原型とされる。

もっとも、当初のそれは風を送って「あおぐ」というよりは、神職としての高い位を表すものとして神事のさいに用いられ、ときに顔を隠したり、虫を払ったりしていたようだ。
「うちは」という言葉は、まさに虫を打ち払うところから生まれたと言う。

やがて奈良団扇は貴賤を問わず、広く人びとが日常生活で用いるようになっていく。技能の向上とともに洗練されていき、江戸時代の初期か、あるいはその手前のころには、特有の「透かし彫り」が完成していたようだ。

ところが奈良団扇は、細密を極める製法ゆえに、続かなかった。
扇面に模様を彫る透かし彫りには、高度に熟練された技術だけでなく、完成までに年単位の長い時間と苦労がつきまとう。まして団扇そのものが、暮らしのなかで優先度が高かったとは言えない。
手にすれば優美で、軽やかで、機能的であっても、製法上の困難さもあってしだいに作り手がいなくなり、ついに江戸中期には途絶えてしまう。そこから奈良団扇は、ついぞ目覚めることのない、長い長い眠りへと入っていくのである。

時空を超えて、会うべくして人は人と出会う。

江戸後期に池田含香堂を興した初代の詳細はよくわからない。
春日大社とのご縁は続いていたようだが、団扇づくりだけでみんなが暮らせたとも思えない。当時のことから考えられるのは、作ったものはすべて売り切るという職人の生き方だ。
彼はそのとおりに、あとに何も遺さない人だった。

ところが明治期の二代目栄三郎の代になって、神様はじつに洒落た悪戯をする。数百年という途方もない長い歳月をはさんで、ついに、いにしえの職人たちと栄三郎とを引き合わせたのである。

栄三郎は、とうの昔に滅びたはずの透かし彫りの文献と道具、型紙などの一式を、奈良市内で発見する。
おなじ奈良の地で団扇を作っていれば、透かし彫りの存在は当然知っていただろう。その痕跡を必死で探していたかもしれない。そのうえで、つねづね技能の向上を願い、人一倍の探求心を抱き続けなければ、わざわざ向こうからやっては来ない。
道具のほうからすれば、無限の眠りから呼び覚ましてくれた、栄三郎は恩人でもあった。
偶然だけでは片づけられない、邂逅があった。

ただ、発見はしたけれど、それらをどう用いて、どう作りあげていくのかを教えてくれる人はいない。
この道具は、そもそも何のためにあるのか。なぜ、この形状をしているのか。どうしてここだけがすり減り、あるいは変色しているのか。さまざまな疑問が湧き、そのつど一つ一つ格闘していかなければならない。

その末に栄三郎は、1893(明治26)年、米国シカゴで開催された萬国博覧会に、復元なった奈良団扇を出展する。
団扇そのものを、一気に日本を代表する伝統工芸品にまで押し上げた人でもあった。

一つ、触れておきたいことがある。
いまでこそ池田含香堂は日本で唯一の奈良団扇の店となってしまったが、戦前には、近隣だけでも同様の職人の家が七、八軒もあったという。
その事実から想像されるのは、自分たちが発見し復活させたものを、池田含香堂の人たちは独り我がものとはせず、道具も技術もすべてをオープンにして、みずから指導していったのではないか。
ともに奈良に生きる職人の、澄みきった心の内が見えてくる。

1893(明治26)年、米国シカゴ開催の万国博覧会に出展された、その当時の奈良扇子。

池田含香堂二代目 池田 栄三郎 氏

突然の不幸にも、立ちつくすことなく歩き出した母の姿。

三代目の好太郎は昭和皇后陛下にお買い上げいただく栄誉にあずかり、叙勲もした。しかし戦時中は、ゆすりか嫌がらせか、男たちが踏み込んできて軍に協力せよと迫ったことさえある。
団扇づくりの命とも言える型紙や道具、象牙や金箔でできた貴重な作品などをふとんの間に隠して、家族で必死で守り抜いた。

四代目の繁も奈良県伝統的工芸士に指定され、評価が高かった。まもなく匡志さんの父である五代目の稔も加わり、父と子が二人して店を守っていく。
父は精緻なものをつくるのが好きで、お店で販売する品物とは別に、一個人としての作品を分けて製作していた。もともとものづくりや機械いじりが好きで、家業と離れたところでも発明工夫展などに積極的にアイデアを出していくような人だった。
父が作ったものはどれも、きれいだった。
祖父と父とが柱となり、それを家族みんなで助ける、おだやかな日々があった。

が、平和な暮らしはある日、いきなり暗転する。
すでに池田含香堂を背負っていた父が、何の予兆もなく、あっけなく急逝したのだ。心臓の病いだった。小学2年生だった匡志さんは怖くて、詳しいことを聴けなかった。

苦しみは、なおも続く。
涙も乾かぬころ、こんどは祖父が病いに侵され、闘病を余儀なくされてしまった。夫に先立たれて途方に暮れていた母は、どんなに心細かったことだろう。
母は、団扇づくりにはまったくの素人だった。店番と、力の要らないわずかなことしか手伝ってこなかったのである。

それでも、2人の子どもを抱えて悲しんでいる時間はなかった。
志なかばで倒れた夫の気持ちは痛いほどわかる。日本全国で一軒しかない奈良団扇を、ここで途絶えさせてはならない。
ただただ、その想いだった。
そして母は、当人たちがやるやらないは別として、子どもたちが成人した時の選択肢として、団扇づくりの火は点しておこうと決心した。

奈良団扇の制作には、男仕事と女仕事がある。
おなじ姿勢を長時間続けるのは、女性にとって体力的にきつい。
女手一つですべてをやるのは無理だと、祖父母は反対した。
それでも母の意志は強かった。
それからというもの、祖父の指導と祖父の弟の協力を得て、母は団扇づくりに没頭していく。
昼は父の姿となって懸命に働き、夜になってようやく母の姿にもどる暮らしを黙々と続けていた。

池田含香堂五代目 池田 稔 氏

中学3年のころ、本気で団扇づくりをやりたいと思いはじめた。

そんな母の背中を見ながらも、匡志さんはスポーツに没頭していた。一方で、親には言わなかったけれど、家を継いで助けたいという気持ちが膨らんでいた。
匡志さんには兄がいた。その兄は父に似て、機械工学の道に進みたい希望を持っているのを知っていた。
高校に進学しようとするとき、兄と相談をし、自分が継ぎたいと伝えた。まだ大人には遠い年齢だった。

大学を出て、ようやく23才で六代目を継いだ。
伝統工芸の世界では、おそらく最年少だったに違いない。それでも、父が他の分野の工芸士たちとの繋がりをたいせつにしていたから、父と同世代の先輩たちがみんなやさしく声を掛けてくださった。
春日大社をはじめ、格式ある奈良ホテル、さらには県の方々など、さまざまな方が応援してくださって、六代目の旅が始まった。

小さいときから作業場で見聞きしてきた音のリズム、動きのリズムは身体に染みている。が、いざ職人となってみれば、足りないことばかりだと知らされた。
あらためて父をはじめとする先人たちの仕事を眺め、人と交わり、歴史に学び、ひたすら勉強と技術の向上に努めた。

父と幼き日の匡志氏

1年がめぐって、ようやく1本の奈良団扇が出来あがる。

団扇をかざすと、神の使いである鹿が戯れ、背景には藤の花の下で春日大社の灯篭が揺れていたり、季節の花々が咲き乱れていたりする。
また、正倉院にある文様や、北の玄武、南の朱雀、東の白虎、西の青龍などの四神、ときには百人一首の歌などが、まるで絵巻物を見るように浮かび上がってくる。

目を見張るべきは、ほかにもある。
なにより団扇としての機能に優れていることだ。
手にした人は、まずその軽さに驚くだろう。一般的な団扇の竹骨は20本から30本ほどだが、奈良団扇はおよそ70本ほどもある。当然重くなるはずなのに重量は20g弱と、一回り小さいプラスティック製のものと比べても3分の2ほどでしかない。
竹骨の数を多くして丈夫にしながらも、骨の一本一本をかぎりなく細く薄く加工していくことで、風を送るための柔らかなしなりを生んでいるからだ。だから、手にやさしい。

奈良団扇づくりは、なにしろ時間のかかる仕事である。春夏秋冬それぞれで、やるべきことがある。
冬の寒いころから、「紙の色染め」に取りかかる。
それ以前に、特別にお願いした伊予紙を広げ、これにニカワとミョウバンや松やになどを混ぜたドーサ液を刷毛でうすく引き、裏に色が通らないよう和紙の目を詰まらせておく。
丈夫になった紙は1年後、湿度が低く乾燥している冬の寒い時期になって、赤、白、黄、茶、水色などに染められていく。
ここまで準備することで、紙としてはようやく彫りに取りかかる準備が整うことになる。

2月から3月にかけては、竹骨を加工する作業にかかる。
竹は香川の丸亀で採れる真竹である。薄く細くするために、生の竹を油抜きせずにそのまま用いる。大きく割いてからさらに小割りして、1本の団扇で70本ほどの骨に仕上げていく。

準備が整ったところで、和紙の透かし彫りにかかる。
一度に団扇10本分、つまり表裏あわせて20枚の和紙を重ね、鋭利に尖った小刀の先を椿油で濡らしながら、真下へと直角に、細かな文字や文様を一呼吸で彫り進んでいく。気が抜けない作業である。

4月ごろから温度と湿度が高い初夏にかけては、「貼り」が待っている。
あらかじめ2種類の米粉を使って作っておいた糊を用いて、彫り終えた紙と竹骨を合わせていく。和紙は糊をつけると伸びるが、表と裏で伸び率が変わると彫りが合わなくなる。そのため、余分な水分を与えないよう、硬めの糊を叩くように伸ばし、その上に竹骨を置く。
驚かされるのは、一本ごとに竹の表と裏とが交互に配列され、しかも等間隔になるよう編まれていくことだ。

その後も、骨にそって竹べらをすべらせ、立体的な扇面をつくる「念はぎ」があり、補強と装飾を兼ねる「手元貼り」をしたあと、余分なところを裁断。周囲を丁寧に縁取りをして、やっと完成する。
最後に職人の手を離れるまでに、年単位の作業がつづく。

だから、繁忙期は一日も休みがない。
それでも匡志さんは、辛いとは思わない。好きで、たのしんでやっている。その代わり、休めるときは思いっきり仕事から遠ざかり、別の世界の違った景色を眺める。
そうすることで、ずっと好きでいられるからだ。

和紙の染め(左)/乾燥(右)

突き彫り

団扇の乾燥(左)/裁断(右)

天平と平安の、いにしえの風にあたりながら、思うこと。

池田含香堂は江戸の後期に創業している。
老舗とされるところでも、業種によってはいち早く機械を採り入れ、大量生産に転じている店もある。しかし、工芸品のように手作業で成り立つものに、機械が入り込む余地はない。
鍛錬された人の数、手の数でしか、ものは生まれない。

いまはすべてを母と二人で切り盛りしている。
お店のことも、帳簿の仕事もある。だから作れる数には限りがある。デパートなどが声を掛けてくださるが、そこまで手がまわらないのが現状だ。
ただ、願わくば、次の時代にまでそうした家内工業の悩みを続けていたくない。何とか自分の代でクリアしておきたいと願っている。

むろん、気がかりなこともある。
以前には奈良団扇の骨となる竹を加工してくれる職人さんもいたが、10年ほど前から頼めなくなり、自分たちで作るようになった。自分でやれるものは問題ない。が、先のことを考えれば、不安はつきまとう。
たとえば紙は、ずっと特別に漉いていただいてきたが、その方はもう80才を過ぎておられ、後継者も還暦を越えられた。いつまで無理を言えるかはわからない。
いろいろなところで、同様のことが起きるだろう。

六代目を継いでから6年ほどが経った。
つい先ごろ、待望の一子を授かった。どう育っていってくれるかはわからない。何人子どもに恵まれようが、母がそうであったように、自分も決して後を継げとは言わないだろう。
好きでなければ、この仕事は続かない。できれば子どもには、せめて奈良団扇が好きな子になってほしい。

奈良団扇そのものが、はるかな時を超えて、奇跡のような復活を遂げたものである。
手のひらの先に揺れる、小さな美術館のような存在だが、しかしそこには神秘の力が宿っている。その事実に思いを馳せながら、池田含香堂こそは、永く永く生き続けてほしいと願う。
切に、そう願っている。

猿沢池から望む興福寺五重塔


取材・文/瀧 春樹

伝統工芸 奈良団扇 奈良扇子 製造販売 池田含香堂

住所:奈良県奈良市角振町16(三条通り)

TEL:0742-22-3690

FAX:0742-22-7122

営業時間:AM 9:00~PM 7:00(4~8月は無休、9~3月は月曜日休み)

ウェブサイト:http://narauchiwa.com/

Facebook:https://www.facebook.com/池田含香堂-281037942083903/