君の背中に贈る言葉
SUZUKI HIROYUKI

元ヤクザの牧師さん 鈴木 啓之 氏
シロアムキリスト協会 牧師 (千葉・札幌)人生やりなおし道場 理事長
/ふるさと志絆塾 塾長 / 平成駆け込み寺 主宰 / 府中刑務所 教誨師
大丈夫だよ。君に何があったとしても。
およそ人間と言えるような生き方ではなかった。
自分さえよければ、たとえ妻や子がどれほど犠牲になろうが、どうでもよかった。
当時の鈴木さんには、ふつうの人なら備わっているはずのものが決定的に欠けていた。代わりに、あってはならない前科や入れ墨があり、両の小指の先はとうにない。みずから望んで歩んできた道が、結果として体のあちこちに刻まれている。
都合が悪くなれば、捨てる。場合によっては、逃げる。
人をおもんばかる気持ちなどかけらもなく、どう周りを利用してやろうかということばかり考えていた。それが当然だと思っていた。
ヤクザなんだから。
若手の有望な賭博師として、それなりに有頂天の日々もあった。が、一つ狂いだすと怖い世界であった。あげく、たくさんの追手から命を狙われる羽目に陥った。
逃亡者となってからは、夜半に聴こえる靴音におびえ、洩れ聞こえてくる関西訛りに背筋を凍らせる自分がいた。ここまで来てしまった自分にやり直せるはずもない。もう助からない、そう思っていた。
そんな暗闇の過去を持つ自分が、あるとき奇跡の声に呼びもどされ、さまざまな曲折を経て、いまは平穏に暮らせている。赦される理由など、どこにもなかった自分が。
だから誰かが、もしもぎりぎりの絶望の淵に立たされているのなら、人はいつだってやり直せるんだと、話してみたい。はからずも牧師になって、実際に、笑顔を失ったたくさんの人々を手助けしてきた。
なにより自分こそが、その当事者だったから。

シロアムキリスト協会
ふと迷いこんだ小径は、深い闇へとつづいていた。
どこにでもいる、ふつうの、ひょうきんな子どもだった。
裕福な家庭ではなかったが、周りもそうだったから、気にもかけていなかった。中学生のころは泳ぎが得意で、クロールなら大阪市の大会で3本の指に入るほどだった。が、残念ながら、途中で体の成長が止まった。
男子はさほどでもなかったが、女子はほとんどがオリンピックをめざすような有望な選手が集まっていた。
男子といえども選手層は厚く、他の選手たちとの上背と体格の差はどんどん開いていった。そもそもストロークが違う。あれほど得意だったプールで、勝てなくなった。練習に明け暮れたが、以降はついに表彰台に立てなかった。
自分を支えてくれていたものが、なくなった。
高校に入ったが、部活のない高校生は時間を持て余す。通学の途中で中学時代の友だちと何度か出くわし、そのうち友だちの友だちも加わって、なじみの喫茶店でたむろするようになった。
みんな、金がなかった。誰かが持っているだろうと勝手に思い込んでいたのだが、ないとわかって途方に暮れた時、だれかが言い出した。
ジャンケンで負けた者が金を工面しよう、と。
とりあえず賛成はしたが、親に頼める筋合いもなく、高校生に別のいい方法があるわけでもない。しぜんに手を染めたのが、カツアゲと称される恐喝だった。
最初にたまたま相手が怖がってくれて、うまくいった。そのうちにオレもオレもと、自慢するように連中がテーブルに金を置くようになった。
そんな毎日が長く続くわけもない。いずれは露見することだった。
高校1年の夏、100数件の暴行と恐喝容疑で6人全員が警察に捕まった。高校に籍を置いていた3人は更生の余地ありとして、家庭裁判所が親の保護を条件に不処分とし、在校していなかった残りの3人は鑑別所から少年院に送られた。
このとき警察は、高校には報告しないと言っていた。
知らん顔をして一旦は学校にもどったものの、不思議なことに、以前とは見える景色が違っていた。同じ学生が、まるで子どもに見えてくるのだ。
そのうち何かの行き違いで、例の事件が学校に明るみになった。表向きは自主退学だったが、学校を去らざるを得なくなった。
いろいろ試してみたが、どれも続かない。
たまたま友だちの一人に、大阪でも老舗の博徒組織として知られるS組の、後に五代目となる人の甥がいた。
そしてその友だちは、「釜ヶ崎」の名で知られる西成区のあいりん地区で喫茶店をやっていた。住むところがあり飯も食えるという理由で、寝泊まりするようになった。隣に組事務所があり、博打場にも出入りするようになる。
ヤクザに対抗するには、自分がヤクザになるしかない。
大晦日の夜だった。大阪ミナミのディスコで、若いのと肩がぶつかった。
こっちから喧嘩を吹っかけて表で待っていたら、どやどやと男たちがやって来て、おもわずわが目を疑った。相手には、質の悪そうな仲間が20人ほどもいたのだ。返り討ちの、袋叩きだった。こっぴどくやられ、朦朧として意識が消えた。
嘔吐したのかもしれない。気づいたら、友だちの家のトイレの床に転がっていた。その横で友だちは、平然とシンナーを吸っていた。
体の痛みが収まるにつれ、そろそろお礼参りに行ってやろうかと考えていた。その矢先に、なんと向こうから「慰謝料を払え」と言ってきた。
殴りつけた一人がヤクザで、相手が悪かった。友だちに協力してもらって、とりあえず20万円を払った。
が、これで終わるとは限らない。いけると思ったら、とことんしゃぶりにくるのが彼らだ。
気持ちが収まらなかった。考えに考えて、ヤクザに対抗するには自分がそうなるしかない、と肚を固めた。本気だった。
S組に頭を下げて、ある組を紹介してもらった。
同じヤクザでも任侠道を掲げる博徒は本筋で、金回りもよく、同業者だけでなく町の人にも一目置かれる存在でもあった。なんとなく憧れもあった。
ところが紹介してもらったところは、博打とは無縁の組織だった。博打で稼げない組は、店からみかじめ料と称する用心棒代をひったくるなど、自分の才覚で金を集めなければならない。
18才になって間もない時期、あらゆる雑用を言いつけられる部屋住みから始めて、一から家業の掟を叩き込まれることになった。博打打ちとはまた違うヤクザの姿を見ることになる。
半年くらい経ったころ、電話番をしていて、ささいな行き違いで親分に迷惑をかけた。
親分は何も言わなかったが、兄貴分から命じられて指を詰めることになった。これが最初で、二度目と三度目はいずれも博打の借金に絡む不始末が原因だった。
鯉と金太郎を配した入れ墨を入れたのも、この頃だ。
20才の頃、組と組との抗争が烈しくなっていた。大暴れしたのが元で、警察に追われるようになった。半年ほど瀬戸内海に身をひそめ、砂利船に乗っていた。
その頃に最初の結婚をしたが、結局、別件もあって出頭することになった。
月に一度、女手一つで二人の子どもを育ててくれている女房が面会に来てくれていた。少しは冷静になって、申し訳ないという気持ちになったが、出所するとすぐに元にもどってしまった。離婚するしかなかった。26才だった。
それからは積極的に、賭場に出入りするようになる。最初は雑務の手伝いから始め、兄貴分のやっていることを見よう見まねで覚えていく。
関西では、花札ほどの大きさの札に独特の文様で数字を表した「手本引き」が本式だ。
親が出した一から六までの数字を当てる単純な勝負ながら、互いの心理の奥の奥までを探り合う究極の駆け引きがあり、最も格の高い博打とされている。
張り詰めた空気に水を差すことはご法度である。だから、客の灰皿やおしぼりを取り替えるタイミングも、勝負の流れを読む勉強になる。そして賭場が引けると、家に札を持ち帰り、寝る間も惜しんで練習に明け暮れた。
本物の博打打ちになりたい一心だった。
若手ナンバーワンの賭博師ともてはやされて。
30代も半ばを迎える頃には、その世界でそれなりに知られた賭博師になっていた。
雑誌にグラビア入りで「売り出し中の若手の博打打ち」などと紹介されたこともあって、賭場からよく声がかかった。
座っているだけでまとまった金をくれる。今夜はヘタなイカサマはできないと、客同士が思ってくれることで博打場に一本筋が通るから、という理由である。有頂天のなかにいた。
博打場には2通りあって、いつも開いている常盆(じょうぼん)があり、別に、こちらから客に声をかけて集める手配博打がある。
賭場では、一夜にして数億という金が盆の上を飛び交う。
自分が賭場を開く場合は、かなりの高額の資金を用意して、そのうえで途中で金が尽きたり、なかには金を持たないで来る客もいるから、盆を回す資金としてさらに同額ほどを都合しなければならない。
その見せ金をつくるのに、賭博師専門に金を貸す連中がいる。ひと晩の利子が1割である。だから、負けるときには借金がどんどん膨れあがっていく。それがプロの賭博である。
鈴木さんには弱点とも言えるものがあった。
博打打ちは、たとえ一回の勝負で1千万円すろうとも、頬をぴくりともさせず、「いい遊びをさせてもらいました」と笑って立ち去るのが鑑(かがみ)だ。
もとよりプロは、イカサマの技に通じている。大負けをして、なんで使わなかったのだと烈しく詰め寄られたこともある。格好をつけて言うなら、博打打ちとしての美学のようなものだったろう。
甘いと言えば甘い。きれい事の世界じゃないのに。
大きな借金ができていた。
2度目の懲役からもどって10日ほどが経ったころ、兄貴分に誘われるままコリアンクラブに呑みに行った。そこで、かけがえのない女性と出会う。
親兄弟の生活を助けるために日本に働きに来ていた韓国人女性で、ひと目見て心を奪われた。
それからというもの、ある月は35回も店に通った。持ち前の強引さもあって、なんとか夫婦のような関係になった。
しかし、博打打ちの浮き沈みは激しい。元からあった借金はますます膨らんでいた。
せっかく惚れこんだ女性に出会えたのに、日々の諍いが彼女にはつらすぎて、結局別れて暮らすようになった。別れてみて、気がついた。街へ出ても、どこかで彼女の面影を探している自分がいた。
その頃はよく東京へと出かけていた。
あるとき、赤坂のコリアンクラブの女性に「教会に行こう」と誘われた。あとで知ったことだが、韓国の人にはキリスト教の信者が多い。日本に来てやむなく夜の街で働いている彼女たちには、心を痛めることが多い。
それだけに、神の救いと癒しを求める気持ちがいっそう強くなる。
連れていかれた新宿の教会は正面に十字架があるだけで、あちこちで誰彼がただ祈っていた。一瞬にして、思った。
「こんなとこ、1秒たりと、わしのいるところやないわ」。
大阪に帰ると、別れた人に会いたい気持ちが募った。
運よく再会にこぎつけたが、彼女にはもう二度といっしょに暮らす気などなかった。ところがそれでは、こっちがおさまらない。
その日のうちにこっそり彼女の家を突き止めて、強引に転がりこんだ。 相手の意思などどうでもいいのである。激しく拒絶され罵倒されたが、かたくなに居座って、ともかくも2度目の同棲生活が始まった。
最初の奇跡が起こり、そして3度目の結婚。
彼女からは何度も教会に行こうと誘われたが、理由をつけて逃げていた。
そんな折だ。彼女が仕事場の階段で転げ落ち、膝の皿を割ってしまった。全治3カ月と診断され、歩けず、仕事にも行けなくなった。
ヒモのような生活をしていながら、それでも亭主まがいの男は、怪我人をいたわろうともしない。
「外国の神さんはいらん。その神さんが、お前に金でもくれるんか? 一度でも飯を食わせてくれたことが、あるんかい?」。悪態ばかりを突いていた。
入院の日が決まったが、彼女は応じない。
それどころか、病院ではなく教会へと出向いて、着くなりその場で仮ギブスをバリバリと破り、松葉杖を放り出して祈りはじめたという。友人に支えられ、杖を突いて、ようよう歩いていったのが、帰ってきたら本当に治っていた。
帰宅してからの彼女は、一度も「痛い」と言わない。ふつうに立ち働いて、若い衆の面倒まで見ている。キリスト教に対する考えが少し変わったけれど、彼女を見て、こいつはイカレテル、と思っていた。
ただ、目の前に積み上がった借金は、どうにもならないところまで来ていた。
どうせ行くなら、神さんに博打の力をもらおうかと思いついたのがきっかけで、仕方なく教会に行くようになった。
そんなある日、女性の牧師が、大きな問題を抱えているのなら毎朝5時に教会にいらっしゃいと告げた。何だとう? ヤクザのこのオレを捕まえて、毎朝5時に来いと言うのか。「このオバハン、何言うとんねん」だった。
が、考えてみれば、借金取りから追いまわされてもいたし、会費やお布施を取られるわけでもない。いろんな人が祈りに来ているが、神さんに第一に助けてもらわないといけないのは自分だった。
ある日、牧師さんが訪ねてきて、あなたたちは結婚するといいと言った。
鈴木さんにとっては渡りに船の話だったけれど、牧師さんの突然の提案に驚いたのは彼女のほうだった。相手はヤクザ者で、博打打ちで、おまけにとんでもない借金がある。
ただ、一方で、借金さえ返せればこの人はヤクザから足を洗えるかもしれない、との想いがあった。その一念で、彼女は承諾した。
不思議なのは、結婚してすぐに子を授かったこと。もう一つの不思議が、2億円ほどもあった借金が、半年の間にみるみる消えていったことだ。
ほんとうは、喜ぶべきことだった。
ところが、なまじ事態が好転したことから、男のほうにまたぞろ驕りが頭をもたげてきた。まもなく教会からも遠ざかり、家にも帰らなくなった。
また賭場を開帳できる喜びが勝り、鈴木さんは再びヤクザの道にどっぷりと浸かっていく。

親分衆から預かった金がもとで、リンチに遭い、そして逃亡。
組に迷惑をかけてはいけないと、以前にこちらからお願いして破門状を出してもらっていた。
今はだから、いわゆるフリーランスの賭博師という立場だ。そんななか、とても可愛がってくれた親分がおり、賭博の資金も出してくれていた。
破門中の身であり正式に盃をもらうことはできないが、行く行くはという暗黙の了解があった。
ところが、この稼業ではその親分の長男にもあたる若頭、通称カシラからも、他の組との抗争資金をつくるという名目で金を預かっていた。
ヤクザの世界で、親分は絶対無比の存在である。
いくら親分から金を出してやると言われても、辞退をするのが筋であり、そういう意味では明らかに掟破りを犯していた。売り出し中の賭博師として、どこかに自分だけは別だという思い上がりがあったのだ。
そいつが、ついにカシラにバレた。
事務所に呼び出され、ひたすら土下座するその首筋から背に、延々2時間も、容赦なく靴のつま先やかかとが飛んできた。目をかけてもらっていただけに、よけいに裏切られた思いが強かったのだろう。
「組がお前にまかせた五千万、耳を揃えて持ってこい!」。
しかも今日中に、ということだった。とても出来る話ではない。しかし、非があるのは明らかにこちらで、出来なければ確実に殺される。終わりの時を迎えることになる。
半死半生の状態になって、意識が朦朧としていた。
よくは覚えていないが、きっと「何とかします」とでも言ったに違いない。しばらくして、2人の組員に両脇を抱えられ、外へと出た。
最初に訪ねたのは、数千万の借金があった、ある親分のところだった。見張りの2人は外の車で待っているから、当然、鈴木は金の工面に向かったものと思っている。
だが実際は、ひたすら親分に詫びていた。こんなことになってもうお金は返せない、申しわけありません、と。
2番目に向かった親分のところでも同じことをした。
そして3軒目、そこがゴールだった。
マンション玄関のインターフォンで名乗って表のドアを開けてもらい、エレベータのほうに歩いていたとき、階上からひょいと顔を出した若い衆が、「親分は留守でっせ」と告げた。
そうか。いよいよこれで終わりか。
このまま表の車にもどれば、良くて半殺し。実際は、それすら無理かもしれない。
絶望にふと脇に目をやると、駐車場に出るドアがあって、その向こうに2mくらいの塀が見えた。瞬間に思った。今だ。
今、逃げるしか、もうない!
すがるような気持ちでノブを回すと、すっとドアが開いた。上から若い衆の声が降ってきた。「鈴木さん、あんたどこ行きまんねん? そっちは駐車場……」
塀をよじ登るほうが先だった。
いずれすぐに、手配がまわるだろう。
逃亡したあとで、実際に大阪の主要駅や空港、幹線道路には、組に関係する者たち総動員されて張り込んでいた。もし北に逃げていたら、網に掛かっていただろう。しかし、意表をついて南に逃げたことで生き延びることになる。
堺から和歌山、そこから名古屋に出て、東京にたどり着いた。
あとから思えば、1才の子どもを抱えて、そのあと妻がどれだけ恐ろしい思いをしたかは容易に想像がつく。女房でありながら行先すら知らされていない屈辱に、暗澹としたことだろう。
しかしその時は、家族の心配よりも自分の身を案じていた。
それどころではない。ひどいことに、なんと別の女性を連れて逃げていたのだ。どこまで卑怯な男だったのだろう。
みすみす鈴木さんを逃がしてしまった2人は、あれからすぐに指を詰めたと、風の便りに知った。どこを向いても、赦される所業ではなかった。
置き去られた妻は、にもかかわらず、ずっと行方知れずの夫の無事を神に祈り続けていた。

あえて人込みにまぎれるように、新宿で身を隠していた日々。
人目を避けて暮らすには、よほど遠くのだれも知らないような町に行くか、あるいはいっそ都会の雑踏のなかに身を置いて、人込みにまぎれて生きるかである。
ようようたどりついた新宿の街は、連絡網はあっても関西のヤクザとは意外に疎遠で、隠れるには都合のよい所だった。
ただ、そうは言ってもすぐに通報が行くだろうから、その筋に顔を出すことはできなかった。
鈴木さんには、飯の種を探すことに動物的な勘があった。
類は類を呼び、偶然知り合った仲間の縁で、気づいたときには競馬や競輪のノミ屋をして生活費を稼いでいた。食うには食える。ただそんな生活が、じりじりと自分を責めあげていく。
帰る場所はなく、連れてきた女性も去って、話す人がいない。みずから捨てたのだと頭でわかっていても、先のない人生はやりきれなかった。東京に逃げてそろそろ9カ月。35才になっていた。
自分はもう、やり直すこともできない。
こんなに生き恥をさらすくらいなら、死んだほうがいい。何度もこめかみに拳銃を当てた。が、引き金を引こうとして、引けない。何なんだ、自分は潔く死ぬこともできないのか。何て情けない男だ。
自己嫌悪がますます激しくなっていった。
そのうちに、近くを猫が通っただけでもビクッとする。カラスが泣いただけで震えあがる。遠くの靴音におもわず耳をふさいでいる。
だれかの影に追われるうち、恐怖で頭が割れそうになり、心臓が不整脈を打ちはじめた。病院を転々とするが、どうにもならない。
「おれは呪い殺されるんだ」。家のなかを転げまわったあげく、無意識のうちに、とうとう神のひざ下に駆け込んでいた。
新宿の歌舞伎町にあった韓国人牧師の教会だった。
この辺りは夜に働いている人が多く、24時間教会のドアは開かれている。もはや鈴木さんに恥も外聞もなかった。大声で泣き叫びながら祈り続け、丸2日間をそこで過ごした。
3日目にミサがあった。祭壇に立って牧師は、「神様は、あなたは尊いと言っている」と告げる。そんな馬鹿な。自分は生きていてはならない人間なのである。いまさら赦されるわけがない。
そう思う一方で、もしもそれが本当なら、そしてチャンスをもらえるなら、どれだけうれしいだろう、と思っている自分がいた。
ミサが終わり、先生が祭壇から降りてきた。
逃亡に疲れ果てていた鈴木さんは、どれだけ自分がひどい人間であるかを切々と訴えていた。先生が答える。「本当に悪い人間は、貴方みたいに苦しんだりしない」と。
続けて言う。神は自らの一人子イエスに、すべての人の罪を背負わせ、誰かの代わりにムチを打たれ、傷つけられ、あらかじめ重い十字架を背負わされたのだ、と説いた。
そうか、オレみたいなどうしようもない人間のために、イエス様は一身に苦難を受け止めていてくださったのか。このときはじめて目が見開かれた。
「もしもイエス様がオレの親分だったら、オレは残りの一生をこの方に捧げてみたい」。ほとばしる心の叫びがあった。

最愛の娘。

娘とのしあわせな時間殿
逃亡の果てに、舞い降りた神の声。
その晩も教会に泊まったが、信じがたいことに、自分のなかに感謝の気持ちが宿っていた。心から安心しきってすやすやと眠ることができた。
そして翌朝、神の声が降ってきた。
「貴方には、行かなければならないところがある」。すぐさま脳裏に浮かんだのは、捨てたはずの妻と子の姿だった。
しかし、神様には赦されても、家族が自分を赦してくれるわけもない。
家の周りには今でも組員が見張っているだろう。そんなところへ、のこのこ戻っていくのは自殺行為である。妻にしろ、ヤクザが見張っているような家にはもういないかもしれない。途中で見つかって殺されることもある。
やめておけ。もう一人の自分がそう叫んでいた。
ところがどうしたことか、意に反して自分の体はまっすぐに東京駅へと向かい、新幹線に飛び乗っていた。無我夢中だった。1990年がようやく終わろうとする、暮れの12月だった。
大阪に着いて、まずは用心のため、家の近くのビジネスホテルに入った。
心を鎮め、意を決してロビーの公衆電話へと向かう。しかし、指が動かない。
何度やっても、最後の番号に来た時に指が止まる。あと一つのボタンを押すことができないのだ。そのたびにじゃらじゃらと落ちてくるコイン。およそ2時間もそうしていた。
そうしてやっと、もうどうなってもいいと覚悟を決め、最後のボタンを押した。
呼び出し音が鳴るまでのほんの数秒の間。またも、出ないでくれ!との思いがよぎる。
と、向こうから「もしもし」と声がした。聞きなれた声だった。
ああ、居たんだ。妻は居てくれたんだ。頭が真っ白になり、そこからの言葉が出てこない。無言のままに立ち尽くしていたら、妻が気づいた。
「貴方? 貴方ですね。ねえ、貴方なんでしょう?」
声が出ない。唸るように、ああ、とだけ呟いた。
「貴方、命を狙われているんでしょう? 私たちは大丈夫だから、帰りたくなったらいつでも帰ってきて。いつまでも待っていますから」。
なぜ、罵倒しない。なぜ、やさしい言葉を掛けてくれる。
たまらなくなって、そのまま家へと向かった。見張りのことは頭から消えていた。そして家に入った瞬間、すべてを知らされる。妻は見る影もなく痩せ細っていた。彼女は断食までして、神に祈ってくれていたのだ。
年が明けた91年1月、東京駅で2人を出迎えた。
それから鈴木さんは、昼は工事現場で働きながら、夜は神学校に通うようになる。そうして初めて、汗を流してお金を稼ぐありがたみを知ることになる。
同時にさまざまなキリスト教の活動を進めているときのことだ。キリスト教関係のテレビの番組に出ないかという打診があった。
迷った。昔のヤクザ仲間が、偶然その番組を観ることもある。誰かが観て、彼らに伝えることだってある。
逃げだした組織のほかにも、何億という借金を残したままのところがあった。彼らはまだ血眼になって探しているかもしれない。そんなときに公共の電波に乗れば、わざわざ自分の居場所を教えていることになる。
どうするか。答えは出ず、祈るしかなかった。
しかし、神はこう答えた。「恐れないで、語りつづけなさい」と。

放送のあと、案の定、彼らはやってきた。
朝、マンションの玄関ブザーと電話とが同時に鳴った。ドアの前に若い衆を向かわせ、本人は車のなかから電話を掛けていた。もう逃げられないぞ、という合図である。
聞き覚えのある声だった。
いよいよ殺されるとの恐怖と、家族を守ろうとの意識から、おもわずそばにあった出刃包丁を掴んでいた。ふだん、「神は愛です」と説いている人間が、とっさのこととは言え刃物を握っていたのである。
そのとき、すかさず聖書の言葉が反響した。
「恐れるな」
神は再びそう叱った。
そうだった。自分はそのつもりでテレビに出演したのではなかったか。その場に包丁を置き、ドアを開けたら、悪鬼の形相をして男たちが乗り込んできた。大声で喚き散らし、子どもが泣き叫んだ。
その時、自分の口から思いもかけない言葉が出た。
「静かにしてください」。
以前なら嘘をついて誤魔化して、なんとかその場を逃れようとしただろう。しかし自分は一度は死んで、神のおかげで二度目の人生を歩かせてもらっていた。
ありのままの自分を、正直に、彼に見てもらおうと思った。
「貴方から借りているお金の何千分の一だけど、今の私に返せるお金はこれだけしかない。代わりに、祈らせてもらえないか? 貴方のために、一生、祈り続けることを約束します。それで勘弁してもらえないか?」
切々と訴えていた。
彼にしてみれば、鈴木だって多少は金を儲けて、そこそこに暮らしていると思っていたのだろう。
なのに、探し当てたところはエレベーターもない古ぼけた下駄履きマンションで、めざす相手は仕事に出かけるために地下足袋を履いていた。
彼は、瞬時に悟ったようだった。外へ出ようと言い、妻に向かって「何も心配せんでええからな」とやさしく告げた。
彼は結局、そのまま帰っていった。最後には子どものポケットに2万円を突っ込んで。
そして鈴木さんはそれ以降、月にほんのわずか、自分で払える3万円くらいずつ、お金を送っている。
最後にお伝えしたいこと。
鈴木牧師によって、あきらめていた人生を取りもどした人は多い。
借金苦から一度は自殺を図った人、覚せい剤に手を出して抜け出せないでいた人、たくさんの人間を踏み台にして生きてきた元ヤクザの人など。みんな、自分では立ち直れるとも思っていなかった人たちだ。
生きにくい時代なのだろう。だから筆者から、申しあげておきたい。
もしもあなたのまわりに、生きることに希望を見いだせない人や、いっそ地球から消えてしまいたいとさえ思っている人がいれば、どうか伝えてほしい。
そうする前に一度だけ、鈴木牧師の門を叩いてほしい。笑顔を取り戻す機会だけは、どうか捨てないでほしい。
何があっても、大丈夫だよ。やりなおせるよ。牧師はそう言ってくれている。
文:瀧 春樹
● 鈴木啓之牧師への連絡先 シロアムキリスト教会: http://www.siloamchristchurch.jp/