名人に会いたい
SATO MASAKI

佐藤 正樹 氏
糸作家・デザイナー(佐藤繊維株式会社 代表取締役)
だれも知らない糸をつくる。
雪深い東北では、冬、農業ができない。だから、多くの人びとは、養蚕に頼ることで生きてきた。
しかし、大正から昭和へと時代が進んでいくにつれ、日本人の衣服は着物から洋服へと移っていく。つまり生糸が売れなくなっていく。さらにはレーヨンなる合成繊維まで生まれた。
世の中が、もうシルクはいらない、と言いはじめていた。
近辺で繊維業にたずさわる者のだれもが、大胆な転換を迫られていた。が、かんたんな話ではなかった。ここ山形の寒河江あたりでは、最新機械を手に入れるだけの潤沢な資金はない。
それどころか、機械を運んでくる交通手段すらなかった。
ただ、曾祖父には実業家としての才があったのだろう。将来を見据え、彼は高値で売れる羊毛に着目した。
が、農業で暮らしてきた人間が農地を捨て去ることはできない。広大な土地を背景とした牧場経営はできないが、それでも寒さに強い羊を選んで、各農家が1頭か2頭の羊を飼うくらいならできるだろう、と考えた。食料のワラだってある。
一軒単位ならわずかな量であっても、集まれば充分な量となる。
こうして曾祖父は、山形、福島、秋田の各地から羊毛を集め、紡績業へと進出した。1932年(昭和7年)、佐藤繊維の誕生であった。
曾祖父の意志を受け継いだ祖父には、紡績業が大きく成長していくとの確信があった。そのときに、昔ながらのやり方で手で糸を紡いでいては追いつかない。
彼の課題は、工業化を進めることだった。
頭のなかに、以前に倉敷で見た或る光景が浮かんだ。工場とはいえ木造家屋が当たり前の時代に、すでにそこでは石造りの蔵のなかで効率よい糸づくりをしていたのである。
運よく、廃業しようする醸造元が見つかった。酒蔵を譲ってもらうことにして、解体し、寒河江に移築した。こうして着々と準備を進めていった。


山形県寒河江市にある佐藤繊維。
四代目にあたる佐藤正樹さんが東京での勉学を終え、父の後継として故郷にもどった24年前は、先人たちが敷いてくれたレールにのって、生産量においてピークを迎えていた。
言い換えれば、長く続いてきた順風が、終わりを迎えようとしていた時期だった。安い人件費を背景とした海外製品が大量に入ってきていたからだ。
機械の高速化、大型化、自動化が求められたが、すべてを入れ替えるなど、到底できない相談だった。
当時450社あった山形のニット工業組合も、どんどん消えていった。いまや23社を数えるのみである。時代の波に、あらがうべくもなかった。
19年前のことだ。苦闘を続けるなか、イタリアで開催される糸の展示会「ピッテイ・フィラティ」を訪ねた。
日本では相変わらず、いかに安くつくるかが第一であり、売れるものがあれば、我も我もとそこをめざしていく。
ところがヨーロッパの人たちは、売れるものだけをひたすら追いかけるのではなく、自分たちがほんとうにつくりたい糸を自由につくっていた。
そのおもしろさに衝撃を受けるとともに、いまのままでは永遠に勝てないことを知らされた。
まったく違う戦いをしよう。腹をくくった。
やがて糸の原料を求めて、オーストラリアやペルーへと足を運ぶ。それから数年後に向かった南アフリカで、ようやくアンゴラヤギの毛「モヘア」に出会う。
吸湿性に優れ、なめらかで、光沢に優れていた。
そこで佐藤さんがひらめいたのは、不可能とされていた「世界一細いモヘアづくり」に挑むことだった。もとより最新の機械を買うゆとりなどない。
手元にあるものを使って、黙々と挑戦する日々が続く。世界にはきっと、それを欲しいと思う人が必ずいてくれるはずだ。ただ、その一念だった。

アンゴラヤギ
それから9年後の、2007年7月。
厳しい審査ののち、イタリアでのおなじ展示会への出展が決まる。名もない、しかも初参加の会社だから、地下の、だれも来ないような隅っこの部屋があてがわれた。
ふつうに展示していては、だれもやってこないような場所だ。あえてブースを暗くして、あたかも内で何か特別なイベントが催されているような雰囲気を演出した。
暗くて糸が見えないという意見があったが、人を呼ぶことが先決だった。幸いにも、たまたまそのブースを、ファッション界の重鎮が訪れた。
このときに出展したのは、1gで26~27mまでしか伸ばせないアンゴラヤギの「モヘア」を、52mまで細く伸ばした革新的なものだった。
ほかにも、わざとバランスの取れていないものを出展した。いずれも従来の常識からは遠くかけ離れたものだった。
数時間経つと、重鎮のおかげだろうか、多くの人がやってくるようになった。なかにはヨーロッパを代表する高級ブランドの担当者も混じっていた。
2009年1月に、アメリカのオバマ大統領の就任式があり、さらにノーベル平和賞の授賞式が続いた。
ミシェル大統領夫人は、公式の場はオートクチュールとの慣例を破り、どちらの場にもニットのカーディガンで出席した。驚くことが起きていた。
夫人が身に付けていたものは、まぎれもなく、佐藤繊維の奇跡の糸で編んだものだった。ニュースはたちまち世界を駆けめぐった。
狂ってんじゃないの?そう囁かれたこともある。
無理もない。失敗続きの人生であったし、やることが破天荒だったせいもある。それでも間違っていたとは思わない。
何故なら、たとえ失敗しても、溢れるような想いをもって挑戦した結果が失敗なら、人はこんどこそ、成功するためにはどうすればいいかを考え続けるもの―そのことが身に沁みついているからだ。
いまも残念に思うのは、世界の頂点に日本のブランドが入っていないことだ。だから、ヨーロッパができなかったものを、自分たちでつくってみたい。日本というこの国で、自分たちの文化をつくってみたい。
この国ではほぼ全員が、おなじ方角へと向かって歩いていく。なかに一人、背を向けて、別の方向へと歩きだす男がいる。
自分の気持ちに忠実に、まっすぐに歩く。上を向いて歩く。
こんな日本人と出会えたことを、喜びたい。
文:瀧 春樹
佐藤繊維が運営する「GEA SHOP」




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元は石造りの酒蔵にモダンデザインを加えた建物。昔の紡績機をディスプレイツールとした店内は、古き良き物とモダンがミックスされた空間。