名人に会いたい

NISHIJIMA YASUHISA

西嶋 靖尚 号 鳳雲 氏

宮大工 大都流 三十二代目当主


お堂やお社が完成したら、宮大工は気配すら残さず立ち去らねばならない。
そうしてはじめて、仏さまや神さまが鎮座してくださる。

人は、後の世に、どれだけのものを残していけるのだろうか。

たとえば芸術家の場合、没後五十年を経てなお作品が愛されつづけていれば本物だ、とする説がある。相当に著名な作家であっても、ほとんどはあっという間に忘れ去られて振り返られることもない、ということなのだろう。

西洋にはレオナルド・ダ・ヴィンチのような巨人がいて、この国ならば葛飾北斎や松尾芭蕉らの名が思い浮かぶ。百年、千年単位で後世に事績を残していくことは、さほどに至難のことである。

ところが、どうだろう。
ひとたび木造建築の世界に目を向ければ、現存する世界最古の木造建造物とされる奈良法隆寺を筆頭に、はるかな時を超えて生き続けているものがたくさんある。

それらの歴史的な意味、美術的な価値、あるいは人びとの心の拠り所として果たしてきた功績の大きさは、かの巨人たちの仕事に匹敵するものだろう。
にもかかわらず、それらを手がけた多くの名人たちは、ほぼ例外なく、歴史のなかに記憶されることのなかった無名氏たちなのである。

堂宮大工・大都流の神髄もそこにある。
三十一代を務めた先代の西嶋勉は、こう言い残している。
「わしら大工はな、決して崇められるような立派な大工になったらいかんのじゃ。堂宇が完成し施主様の手に渡る時には、その姿を消し去らねばならんのや。それが神仏の堂宇に鑿を入れる使命なんじゃ」と。

日光東照宮に集められた名だたる棟梁たちが、源流となって。

いまに伝わる宮大工の源流は、江戸の草創期につながっている。
徳川家康が逝去したあと、遺命にしたがって亡骸はただちに駿河国の久能山に葬られ、後に神となり、東照大権現と名を変えて日光東照宮に祀られた。

当初の東照宮はいかにも簡素な造りであったらしいが、今日に伝わる絢爛豪華なものへと大改築を命じたのが、三代将軍の家光である。
父、二代将軍秀忠の世継ぎ争いが熾烈を極めるなか、家康のひと言によって将軍になれた家光は、とりわけ祖父家康に対する感謝と思慕の念が強かった。 寛永11年(1634年)にはみずから日光に社参し、2年後に行う家康没後21年神忌に向けての大改築を号令したのである。

このとき、上方や江戸から、名ある宮大工の棟梁たちが総勢百名ほども日光に呼び集められた。そのなかに、いまに続く大都流初代 清兵衛の姿もあったとされている。
大工たちはいずれも抜きん出た技量の持ち主ではあるが、それぞれ出身地が異なり、関わってきた仕事の内容も違っている。作法においても、工法においても、自分なりのやり方を貫いてきた者ばかりだった。

それでも、これだけの名手たちが一堂に会するなど、ないことだった。選りすぐりの男たちが目の前に居並んでいるうえ、将軍肝入りの一大事業である。だれもが目の色を変えて仕事に没頭したことだろう。

しのぎを削りながらも、棟梁たちは互いに吸収もし、みずからが信じる流儀を確立していった。そして、やがて東照宮の完成を見たのち、おのおのがそれを故郷に持ち帰って弟子を育てていくこととなった。
遠い昔には、だから百を超えるほどの流派があった。そこから長い長い歳月が流れ、正式にはいま、宮大工の系譜は七流派に分かれているという。

その一つが大都流であり、まもなく400年ほどが経つ。
歴史的に見れば、江戸時代にはこれといった大きな戦がなく、比較的平穏無事な時代とされる。が、もとより人間の社会であり、時代の在りようは千変し、万化もした。
流派継承者のなかには、武士がいたし、百姓もいた。ときには歌舞伎役者までいたという。 世の浮き沈みのなか、さまざまな人の手を通して命がけで継承されてきたのは、卓越した技能や美意識だけでなく、みずからを高みへと導く高度な人間修養の精神が流れていたからに他ならない。

戦争で散るはずの命が救われ、その帰り道に先代が見たもの。

後に大都流三十一代を継ぐ先代の西嶋勉(号 臥龍)は、昭和5年(1930年)に生まれ、昭和19年(1944年)の暮れに海軍少年飛行兵として奈良航空隊に入隊した。
すでに日本軍は各地で玉砕を続け、戦局は抜き差しならないところに差しかかっていた。屈強な青壮年男子たちは軍隊と軍需工場に駆り出され、あてにできる戦力は志願兵や学生くらいしか残っていなかったのである。
年が明けるといよいよ敗色が濃厚となり、敵の日本本土上陸がすぐそこに迫っていた。
15才の勉はこのとき、魚雷もろとも敵艦にぶつかっていく特攻要員として、回天特別攻撃隊である横須賀の菊水隊に出向いた。すでにそこには、本来なら乗り込んでいたはずの肝心の飛行機すら見当たらなかった。
もはや大空ではなく、海中の敵に突き進むしか道はなかったのである。もちろん人間魚雷に脱出装置は用意されていない。ひとたび出撃すれば、そこが死地となる。
ああ、自分はこれに乗っていくんだ。
魚雷を眺めながら、少年は命令が下る日を待っていた。

しかし、すぐに訪れた結末は、予想もしないものだった。
わずか一週間後に、突如、終戦となったのである。日本は戦争に敗れ、人びとは泣き崩れ、やがて脱力した。これからをどうやって生きていくのか、だれもわからなかった。
故郷に帰ろうと、勉が東海道を西に向かっているときだった。
車窓の向こうで山が燃え、名古屋城までが炎上していた。あまりにも哀しい光景を目に焼き付けながら、勉は誓った。平和になったら、いつかかならず、自分はこういうものを造りたい、と。
帰郷した西嶋勉は昭和20年(1945年)12月、大都流三十代の三枝栄之助師のもとに入弟した。
弟子入りはしたものの、日本中が今日一日を食べることに必死だったから、宮大工の仕事などそうそうあるはずもない。 日々の修行と言えば、親方の田畑の手入れや大勢の弟子たちの食事の世話など、大工修業とはおよそかけ離れたものだった。
それでも時が経つとともに、人びとのなかにだんだんと再び立ち上がろうとする気概が生まれていく。夢を追って、必死でしがみついていく勉がいた。

大都流三十一代 西嶋 勉(号 臥龍)氏

当主がこの世を去る瞬間に、次の当主を指名するのが大都流。

大都流には、当主がこの世を去るその直前に、後継を指名する定めがある。
師の三枝栄之助はそれと察して、昭和24年(1949年)のある日、枕辺に弟子全員を招集させた。西嶋勉は最高位の弟子ではあったが、15人もの弟弟子たちとともに控えていた。

師が死に臨んで告げた名前は、意外なものだった。居並ぶ高技の弟子たちの誰彼ではなく、西嶋勉を次なる指導者に指名したのである。
そうして翌日、師は計ったように旅立っていった。

師は生前、わざわざ勉を呼びつけていた。火鉢を前に、師は弟子にこう語りかけた。
「勉よ。宮大工にとって一番大切なものは、なんじゃと思う。技も必要だし、頭もいるわな。それでもな、それ以上に大切なものがあるんじゃ」。
人並み優れた技能と知見を要求される宮大工には、しかし、それよりもっと大事なものがある。一生かけて己を磨くことを本分とする大都流の神髄を、その日、師は改めて勉に語っていたのだ。
たくさんの弟子のなかで、だれが最もそれを体現しうるか。師は、その先もずっと続いていく長い旅路を見通していたのだろう。

こうして西嶋勉は、昭和24年末をもって年期奉公とお礼奉公とを終え、秘伝を授受され、大都流三十一代を継承した。
そして翌年4月には独立し、師が指し示した答えを見つけるべく、すぐに全国行脚の修行へと旅立った。

四国では、四国随一と言われた数寄屋造り棟梁の神納政蔵師に教えを乞うた。
城郭建築技術については、柴原豪斎師から学んだ。
「昭和の大修理」と言われる姫路城解体復元工事では、主任工事技師であった文部技官の加藤得二氏に築城体験と技術の指導を受けた。
また彫刻については、彫刻師の橋本瑞雲師から、基本となる「七條流彫刻法」の秘法を授かった。

それから、5年。
全国修行を終えてようやく帰郷すると、そこからはただまっすぐに、身命を賭してさまざまな社寺堂宮建築や文化財の修復へと打ち込んでいった。
その姿は、「ただ形を成そうとするものなどではなく、ひたすら高みを追い求め、大自然と一体にならんとする一念をもって修行に邁進していた」と伝えられる。

大都流の法被

宮大工という作法を通じて、一生かけて己を磨き、自分を探しつづけよ。

先代西嶋勉は、自身だけでなく、息子にも徹底して厳しい生き方を要求した。
中学を卒業する前、後に三十二代を継ぐ子の靖尚(やすひさ)は高校に進みたいと願っていた。が、父は子の前にど-んと大きな大工道具を据え、子がいくら必死に訴えても、頭を縦に振ろうとしなかった。
何度も同じことが繰り返されたあと、不憫に思った母が必死に応援してくれ、最後にようやく父が折れた。

高校を卒業する間近かになって、また父に呼ばれた。
こんども、目の前に新しい大工道具が据えられていた。子は、できれば大学に進みたいと願っていたが、ろくな成績ではない。父も、こんどこそは、の思いだったろう。<

考えた末に、父の一番の弱みを突いた。すなわち、姫路城の昭和の大修理を指揮し、父がさまざま築城技術を教わった加藤得二先生を頼ったのである。

先生は、京都の大学に行かせればいい、と父を説いてくれた。
理由は、「酒を飲んで倒れても、京都ならお寺で寝れるから」というものだった。まさかそれで父が納得したわけでもあるまいが、加藤先生の援軍は絶大だった。靖尚は京都造形芸術大学の、一歩譲って短期大学に入学した。

昭和54年(1979年)に卒業すると、若い靖尚は40日間をかけてヨーロッパの建築と芸術を見て回った。建築は技術にとらわれがちだが、芸術は自由で、それぞれの世界観が見えた。後へとつながる、いい勉強になった。
帰国後はすぐに、大工修業に入る。加藤先生を師事し、大都流三十一代の父に入弟した。
師と弟子になれば、父と子の関係は吹っ飛ぶ。訳もなく、ただ叱る、ただ怒る。何の説明もない。友だちと会うのさえ、わけを説明しなければならなかった。 が、返ってくる答えはひと言、「仕事せい」である。体調が悪く、横になりたいときも、「元気だろ。仕事せい」で終わった。

父からすれば、中学のあともいっぱい自由にさせてやった思いがあったのかもしれない。時々は反発を募らせたりもしたが、いま思えば、そうした日々のやりとりのなかに、限りなく大切なことが多く含まれていた。

平成15年(2003年)の3月だった。
先代西嶋勉は枕辺に、弟子たちを呼んだ。そのなかには秘伝書を伝授された6人の高弟がいたが、師は下から2番目の西嶋靖尚を大都流三十二代の後継に指名し、二日後に旅立っていった。

西嶋工務店の仕事は、白鷺城で知られるかの名城、姫路城の大修理をもって語られることが多い。わかりやすいからである。
事実、平成の大修理では当代も加わって、木工事の一式を請け負って取り仕切っている。平成27年(2015年)3月の完成まで、約5年にも及んだ大仕事だった。

国宝 姫路城 大天守(世界遺産)

世界遺産の仕事は、だれにでもできることではない。
おまけにすべて人力の作業であり、昨今の気候変動などを思えば、現場ではさまざまな困難が待っていただろう。
ふつうの感覚で言えば、存分に誇っていい、最高レベルの仕事なのである。にもかかわらず、こちらから問わなければ、西嶋棟梁から姫路城大修理の話はいつまで待っても出てこなかった。
そもそも大都流を貫く考えは、一般の想像とは遠くかけ離れたところにある。
後世に残る大仕事を成し遂げながら、それでも「宮大工そのものが終点ではないし、それが目的地でもない」と言い切る。
大都流は、各人が自問自答を繰り返しながら、一生かけて自分自身を見つける旅をしていくものであり、すなわち「宮大工という作法を通じて、己を磨き、自分を探していくところにこそ大都流の本分がある」ということだ。

だから、どんな仕事も、ことさらそれを誇ったりはしない。
「実績を前に打ち出して仕事をするのは傲慢であり、宮大工の作法を通じて己の心を磨く大都流の流儀に反する。どんな作事であれ、相手がだれであれ、誠心誠意を尽くして修行をさせていただく」。

完成すれば、あらゆる気配を消し、ただちにそこから消え去る。その代わり、神仏にお入りいただくまでは、柱一本、垂木一本に精魂を込める。
そこには、頑ななほどの自制心がある。

弟子は、自分の子ども。だれよりも厳しく、だれよりも体を張って守り育てる。

いまも、たくさんの子どもたちが西嶋工務店の門を叩く。
一応は入社という形だが、入弟が許されれば全員が弟子、つまりは我が子となって住み込み修行となる。徒弟だから、生半可な気持ちでは務まらないし、相当な覚悟を伴う。
逃げ帰るところがあると思えば、心はふらつく。修行に打込めない。だから、親御さんにも、そのことをしっかりと胸に刻んでいただく。たとえ指を折っても、皆さんではなく、私が治す。そう宣言し、約束してもらうためである。

寮生の部屋が、10ほどもある。日夜、宮大工という「行」をもって修行をし、大工道とともに人間としての心の鍛錬を学ぶ。
しかし、その道ははるかに遠い。
最初の試験に合格するまでに、最短でも5年以上はかかる。合格すれば「棟梁」となり、匠明、すなわち大都流の法被を授かる。ここでやっと、第一段階としての一人前になれる。

仕事をしていれば不条理なことで叱られることもある。
そのとき、もうやめたいと思う一方で、引き留めようとする力が働く。もちろん、入弟してくる子どもにはさまざまな背景があって、それぞれ中身は異なる。
たとえば、苦労をしてきた母に家を建ててやりたいと思っている子がいる。その子に、問う。家を建てるなら、宮大工でなくてもできる。なぜ、宮大工になりたいのか。自分の本心はどこにあるのか。
想いが本物であれば、炎天下でも酷寒でも、たとえ殴られようが蹴られようが、きっとその子は突き抜けられる。母をしあわせにしたいのなら、それを追い続けて、今日をがんばる。
そのことを仕事のなかで教えていく。

いまの時代は、先に表面をつくろうとするから、何かあったら、すぐにぺしゃんこになる。だから師は、「初一念をはっきりしなさい。そして、それを続けなさい」と言い続ける。
それに気づいた子は、結果として成就する。

法被を授与されてから、およそ20年ほどが経ったころのことである。
日夜の研鑽を経て、ついに試される日がやってくる。
師と弟子は衣をあらため、お堂のなかで対峙する。師はそこで、容赦のない問答を浴びせかける。堂宮大工とは神仏の御座をしつらえる者であり、対峙の場で師は、神仏の代理を務めることになるからだ。

この弟子は、果たして宮大工が体得しているべき領域に到達しているのかどうか。
長い問答の末、一定の悟りと覚悟を身につけたと判断された者だけが晴れて秘伝書を授かり、「宮大工」として認められることになる。ざっと言って、およそ50人に1人くらいの難関で、早い人でも四半世紀以上の時が流れる。
それより前、秘伝書を作成するために師は、精進潔斎をして御堂に籠る。時代の経過で、先代のときから修正すべき個所も出てくる。そこに自分の一言一句を加えていく。 技術論ばかりではない。宇宙のなかで生かしてもらっている自分とはどういうものなのか。多くは大都流の世界観が綴られている。 師直筆の秘伝書をもらった者は、翌日から次の生がはじまる。が、日常は何も変わらない。当たり前のように、また大工仕事を続けていく。終わりはない。
いくつかある宮大工の流派のなかで、大都流はいまも頑なに徒弟制度を守り続けている。さまざまなところに、徒弟でなければできない領域があるからだ。
伝承の基本は、口伝である。本物を求めるがゆえに、大都流は近代化に背を向ける。

宮大工の重要な仕事に、彫刻がある。
寺社の各所に施される彫りもので、龍や鳳凰などを鑿だけで彫りあげていくのだが、まずは師がフリーハンドで実寸大の平面図を描く。それをもとに熟練した弟子から粗彫りを務め、順次、中彫り、仕上げへと移っていく。

以前に、外国の著名な建築家が訪ねて来たことがある。
その人は絵様を見て、素晴らしいデザインですねと呟いたが、棟梁はすぐさま、「デザインではありません、意匠です」と返答した。
デザインは人が考えたイメージだが、意匠は伝統のなかで描かれるもの。個の感性が立ち入る余地はない。

彫りものが龍ならば、胴体はくねくねとうねっており、鳳凰は羽ばたいている。平面図を見ただけでは、背後をどう彫るべきかがわからない。奥行きは一寸でいいのか、三寸ほども彫るのか。
つねに同じ仕事と向き合ってきた師と弟子ならば、それがわかる。まさに阿・吽(あ・うん)の呼吸で、思い描いたものが彫りあがる。
立派な棟梁は全国におられるが、唯一足りないと思うのは、社員はいるが、直系の弟子がいないことだ。

大都流の人びとが、現代の私たちに問いかけてくるもの。

大都流の薫陶を受けたなかで、もちろん、すべての人がやり終えたとは思えない。自分に嘘偽りなく生きるのは苦しいし、あるレベルに到達すれば、ここまでやったのだからと、つい自分に甘くもなる。
なんで、こんな辛い修行をしなければならないのか。もっとらくに、いい暮らしをしている人間はいっぱいいるはずだ。そう言いくるめて、途中で去っていった人も多いことだろう。

失礼を顧みずに言えば、いま大都流を背負っている方々も、今日に至るまでにはさまざまな試練と出会い、烈しく逡巡し、苦悩されてこられたに違いない。
若い人たちは、なおさらだろう。
にもかかわらず彼らは、来る日も来る日も鍛錬を重ね、いくつもの峠を乗り越えて、いまはだれにも出来ないことをしてくれている。弟子であり我が子である彼らの葛藤は、なにより西嶋棟梁自身が一番よく知っている。

問題は、苦悩のあとだ。
人間なんだから、と甘やかすか。人間だからこそ、と再び歩きはじめるか。
ところで、いまの私たちは、どこを向いて歩いているのだろう。
時代は、過去に例のないスピードで変わり続けている。コンピュータが駆使され、人工知能が登場し、より大きな利益を求めて日々新たな技術や製品が送り出され、それらはわずかな時を経てまた最新のものに取って代わられていく。
経済成長は大事かもしれないが、いまの形が永遠に続くわけもない。成長を追えば追うほど、愚直に一つのことを追い求め続けてきた日本人の特質からどんどんと離れていくように思える。
その先に、いったい、どんな生き方が待っているだろう。明日につながるものが見えないなかで、私たちは生きているようだ。

令和元年(2019年)5月に、あの霊峰、高野山に特筆すべき堂宇が完成し、落慶法要が営まれた。
正式には、高野山別格本山 清浄心院 鳳凰奏殿 永山帰堂と言う。

4年以上の工期を経て完成した護摩堂は、木造建築では日本一大きい桁外れの規模であり、国内の最上級の木材のみで造られ、千年は持つとされる。
西嶋工務店の宮大工や棟梁たち総勢36名が、まさに身命を賭した仕事だった。

高野山別格本山 清浄心院 鳳凰奏殿

高野山別格本山 清浄心院 永山帰堂

ふだん、宮大工が注目されることは、少ない。
が、彼らは無言のままに鋸を挽き、鉋をかけ、真夏であっても空調を使えない木工場で、樹の塊りを相手に一心に鑿を振るう。
そこには、修行と労働とで鍛え上げてきた本物の筋肉と、日本の精神と伝統を支えていこうとする太い覚悟がある。
問題は、この国や社会が、経済の行方ばかりに目を奪われ、愚直に頑張ろうとする人びとに正しく目を向けていない点にある。

想像もしてほしい。
精魂込めて造ったものが、数百年後も千年後も、人の一生に寄り添って続いていく。私たちが後世に遺していくべき、それより大事な仕事ってほかにあるのだろうか。
「わしら大工はな、決して崇められるような立派な大工になったらいかんのじゃ」、先代はそう言い残した。
それでも、思う。
大都流だけではない。こうした無名の名人たちが、もっと正しく評価される、そんな社会の到来を待ち望みたい。
西嶋棟梁ご自身からも強く感じたことだが、そこには、次の時代にも守り継ぐべき、日本人の背骨が見えるからである。


文:瀧 春樹

株式会社 西嶋工務店

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