名人に会いたい

KOGANEI HIROYUKI

おなじダイヤモンドに生まれたのだから、
いちばんきれいにして送り出してあげたい。

黄金井 弘行 氏

ダイヤモンド・デザイナー カット&研磨技術者(創作ダイヤモンド こころ 主宰 株式会社タスコ 代表取締役)


30億年前の地球からの贈り物――ダイヤモンドとの出会い。

これから社会に立ち向かう、若者特有の心の揺れだったろうか。
どこかに将来への不安を抱えながら、すこしでも早く、世の中のことを身につけたいとの思いが強くあった。期待を膨らませて大学に入ったが、そこは自分が思い描いていたものと違っていた。勉強がおもしろくない。響いてこないのだ。何かをしたい。だれもやっていないようなことを、始めてみたい。心の揺れは、どんどん大きくなっていった。
そんな時だった。ある知人から、日本にはまだ馴染みの薄い、ダイヤモンドを研磨する本格的な工場があることを知らされた。興味が湧いた。考え進むうちに、胸が躍り出した。これかもしれない。いや、きっとこれだ。2年通った大学を、黄金井氏は惜しげもなく捨てた。

会社は、1888年に南アフリカ共和国に誕生した業界最大手のデビアス社と、大手商社の住友商事とが共同出資して設立したオリエンタルダイヤモンド工業(現・オリエンタルダイヤモンド)で、大船にあった。同社は日本で最初のサイトホルダー、すなわちダイヤの原石を採掘会社から直接購入できる権利を持ち、デザインから加工までを一手に扱う、まさに草分けともいえる存在だった。

そもそもダイヤモンドは、原石を切断し、丸の形に削り出し、そこからカットしていく。歴史そのものがない日本に高度な技術はなく、最高峰とされたベルギーから技術者を招いていた。
配属されたのは、その大船工場の検査室だった。
当時の技術系の職場がどこもそうした傾向にあったように、ここでも「技術は感覚で覚えるもの」との職人的な考えが支配していた。とは言え、扱うものは微細で、高価な上にも高価なダイヤモンドである。おまけに原石はみんな違う形をしているし、職人の感覚や技術は一人一人違う。個人の領域だけに頼っていては、効率は悪いし、なにより安定した品質を確保できない。
工場は大きなジレンマを抱えていた。

約30年前、オリエンタルダイヤモンド工業勤務の様子。 大きな石をてに

約30年前、オリエンタルダイヤモンド工業勤務の様子。 石の検査

研磨を劇的に変えるアプローチはないか。

すでに走り出しているものの流れを変えるのは、容易ではない。
のちに2代目工場長となる矢野晴也さんには、それが見えていたのだろう。若い黄金井氏の耳に告げた。
「日本はまだダイヤの研磨を始めたばかり。これからはデータ化を勉強しなさい」と。
矢野さんはそれからも、いつも疑問を数学で返してくれた。理論的支柱ともいうべき方で、思えば黄金井氏が進むべき道を決定づけた人だった。それでもすぐに、はいわかりました、とはいかない。当時は電卓もない。どこかにはあるのだろうが、高価すぎて手が届かない。できることは、いやになるほど分厚い関数表を前に、いまではすっかり見かけなくなった計算尺を用いて、ひたすら紙の上に計算していくことだった。立体の三角関数やダイヤのもつ屈折率の計算など、日々、猛勉強がつづく。文科系の出身であり、もともと数学にはうとかった。夢中になれたのは、なにより、自分が世の中の先駆けになれるかもしれないという、ほとばしる想いだったろう。

高価な原石を加工するのだから、歩留まりがものを言う。当時のやり方では、57%がロスになっていた。
1カラットの原石が、完成品では0.43カラットになってしまうのだ。もっと効率よく、そしてもっと美しい形があるはずだった。
幸い会社は、原石を扱っていた。一つ一つをおろそかにはできないが、これと思えばテストできる恵まれた環境があった。一つとして同じもののない原石を相手に、こちらから何ミリ、逆からは何ミリ詰める、と割り出していく。一心不乱にやったが、それでも経験浅い若者が弾き出した指標を年長の技術者たちが素直に受け入れるわけもなかった。
ところが、無理にも進めていくうちに、変化が起こった。10%の誤差が当たり前であったものが、1%にまで縮小していた。57%も捨てられていたものが、50%に減った。真円が正しくつくられるようになって、あとの作業までがみるみる変わっていったのだ。

個人の考えと企業の考えは、一致できる。

30代の後半、どうにも行き詰っている自分がいた。原石が値上がりすると、ロスを減らすことばかりが優先されるようになった。企業としては止むを得ないことだが、おもしろくない方に進んでいた。
自分が考える技術の方向やデザインについて、理解してくれる人がいなかった。すでに家族がいたが、うつ病のようになっている自分がいた。いいものを手がけたい。きれいなものをつくりたい。40才を過ぎたとき、やみがたい思いで役員に直訴した。
結果、リカット部門が新設され、20人くらいのスタッフを抱えることになった。会社は、ルースと呼ばれる裸石を大量に買い付けていた。それらを一つ一つ、つぶさに見ていった。
なかには傷ものもある。Aの角度、Bの角度、さまざまな角度から見ていけば、どこに傷があるかがわかる。
市販の顕微鏡に改良を重ねて、それらを突き止めていく。小数点3桁、0.001ミリの世界である。
傷があるから価格を下げるのではなく、いいところを伸ばしてむしろグレードを上げて送り出す。ここではじめて、より多くの利益を確保したい会社の考えと、きれいなものをつくりたい思いとを一致させる方法があることに、気づかされた。
まもなく、同社でカットされたダイヤモンドは「世界最高の輝き」とまで言われるようになった。そして1997年、黄金井氏は退社し、あらたな挑戦を始めることになった。

創作ダイヤモンドこころの工房にて

人がそうであるように、石にも、その石が最も似合うカットがある。

ダイヤモンドはずっと、58面体のラウンド・ブリリアントカットが最も美しい、とされてきた。確かに美しく、完成されている。しかし、生まれてからすでに100年以上の年月が経つ。先を行っていたはずの世界の技術者たちは、58面体に安住し、その先を歩もうとはしなかった。進歩を捨ててきたのだ。

そうじゃない。黄金井さんは、首を振る。
美しさの追求において、氏は立ち止まらない。独立後はより自由な翼を手に入れ、いままで以上に新しいデザインや実験的なカットに挑戦するようになった。
たとえば、ある個人の顧客のオファーでつくった1010面体の作品は、「世界で最多の面を持つダイヤモンド」としてギネスブックに認定された。
2015年末に氏が銀座で発表した101面体の「向日葵」は、ダイヤは無色透明が良いとされてきたこれまでの常識をくつがえす、金色の輝きを放っていた。あまり評価されてこなかった黄色がかった石を用いて、見事にその美しさを表現して見せた。
また、NHKのBS-hi「アインシュタインの眼」に出演したときには、自らの研磨技術を惜しむことなくオープンにしてみせた。真似のできない技術があるからこそ、すべてを出し尽くせるのだろう。
いま厚木の工房では、数人の若い技術者たちが黙々と仕事に打ち込んでいる。なかに、黄金井氏の次男の姿も混じる。いまや世界に先んじる日本のデザインと研磨技術が、あらたな輝きを見つめて、歩き出している。

ヒロ・コガネイ コレクション

向日葵/色合いを活かし、煌びやかに溢れ出る輝きを

心/あたたかい気持ち、優しさを秘めたこころのカタチ

昴/降り注ぐような星、昴の輝きと細やかなスペクトルを放ちます

太陽/まぶしく溢れる光をダイヤモンドの輝きに

桜/和の心、奥ゆかしさをデザインに込めました

虹/色のスペクトルが輝き、溢れだすデザイン

クロス/1辺の長いクロスで、決意を現す力強さを表現したデザイン

日輪/1年=365日を365面でデザイン、澄みきった透明感のある輝き

桃/1モチーフに秘められた花言葉を、やわらかなデザイン

ラウンドブリリアントカット/
定番なのに見たことのない輝きのラウンドブリリアントカット


取材:瀧 春樹

創作ダイヤモンド こころ

ウェブサイト:http://www.sd-cocoro.com/

株式会社タスコ 〒243-0014 神奈川県厚木市旭町5-43-1 三橋パークビル 1F