素敵な人生の歩き方
KOBAYASHI FIDIA

日本で働き、タンザニアで孤児を育てる。
小林 フィデア さん
株式会社サンクゼール 勤務/NPO法人 ムワンガザ・ファンデーション ファウンダー
世界の孤児たちの、私は、お母さんになる。
ほんの少し前まで、近所にはかならず怖いおじさんやおばさんがいて、ちょっとでも外で悪いことでもしようものなら、まるで自分の子どものように容赦なく叱られたものだった。
昭和のころはこの国にも、忙しい若い親たちに代わって、地域の子は地域みんなで育てていこうとする暗黙の了解があったように思う。
助け合う、分かち合う、支え合う、があった。
それがだんだんと生活が豊かになり、家のなかが快適になって子どもたちは外に出なくなり、かつてはどこにでもあった町内の語らいの光景もいつしか消えていった。
それだけならまだしも、近ごろでは他人のことをあまり顧みない、自己中心的な考えや行いが幅を利かせてきているようだ。
小林フィデアさんと話していると、あらためて、私たち日本人がいつのまにかとても人に冷たくなっていることに気づかされる。
国が発展して豊かになるということは、逆に、何か大切なことを失わせていくのだろうか。
人と人が助け合うのは当たり前、の国に生まれて。
フィデアさんは、アフリカ大陸の東側にあるタンザニア連合共和国の、ソンゲア(Songea)という小さな町に生まれた。
世界一の最貧国とも言われるが、貧しく苦しいなかでも、そこはみんなが助け合い、分かち合うことが当たり前の国だった。
なかでもフィデアさんの両親は、とくにそうした気持ちの強い人だった。
父は、日本で言うJAのようなところに勤めていて、農業の勉強のためにノルウェーやスウェーデンなどによく出かけていた。
住む家があって、食べるのにそれほど困らなかったこともあるが、自分の家族よりも、まず外にいる困った人たちにすすんで手を差し伸べる人だった。実際、いつもそうしていた。
母もまた、家のなかでただ父の給料を待っている人ではなかった。
周囲には夫を亡くした女性たちがたくさんいたし、そうした人たちの支援ばかりでなく、ときには玄関先に置き去りにされた赤ん坊を保護して育ててもいた。みんなのためにパンやクッキーを焼き、グループをつくって縫う仕事を主導したりしていた。
働くことを一切いとわない人だった。

Dad & Mom

父(中央)1972年ノルウェーにて
そうした両親のもとで幼いときに洗礼を受け、幼稚園や小学校に通うころには礼拝をし、賛美歌を歌っていた。
家族や先生はもちろんだが、近所の人たちもやっちゃいけないことをたくさん教えてくれた。悪いことをしたら、嘘をついたら、すぐに「神様が見ているよ」と叱ってくれた。
母国タンザニアでは、大事なことをたくさん教わった。
たとえば、だれが相手でも、その人の顔をまっすぐに見つめて話すこともそうだ。見つめ合うことで、伝わる。台所でママが子どもに背中で答えたら、伝わらないと思う。大事なことが欠けている。
だから、友だちとケンカをしても、かならず仲直りをしてから家に帰った。明日があるから。
そうした幼いころの日々は、とても心の訓練になった。

幼いころのフィデアさん
貧困も、飢餓も、疫病も、内戦もあるが、それでも 「アフリカは一つ」 。
アフリカ大陸は広い。日本政府が承認している独立国だけで54カ国もあり、タンザニアだけでも100を優に超える部族が暮らしている。
それでも、同じ大陸の人であれば、どこかに安心感を覚え、絆を感じる。同じ大地で生きている家族や兄弟といった不思議な意識で結ばれているからだ。
アフリカ大陸には、当たり前のように、大自然がそこにある。
太陽も山も草原も樹木も巨大な岩石も、それらは人間が造ったものじゃない。神様が与えてくれたものだ。
そんなたくさんの神に守られて、みんなが生きている。身近かな自然のなかを裸足で歩くと、大地のエネルギーが付いてきてくれる。
そして彼らは一様に、そのことに誇りを持っている。
タンザニアはいろんな宗教を認めているから、キリスト教の人もイスラム教の人もヒンズー教の人も仏教の人も、そして少数だが無宗教の人もいる。
それでも人は、何かあったら、かならず空を見上げる。
壮大な大地や宇宙といった自然に対する畏敬ともいうべきものが、おそらくはアフリカの人たちの身体のなかに棲みついているのだろう。
大自然と神のもとに抱かれ、心は私たちの想像以上に豊かなのである。事象ばかりにとらわれて、じつは私たちは、アフリカのことをよく知らないようだ。

出会いがあり、結婚をし、そして想像もしなかった国、日本へ。
はじめて出会った日本人が、運命の人となった。
小林一成さんは青年海外協力隊の一員としてはるばるタンザニアにやって来ていた。
日本のことは、小学校でいろいろ学んでいた。工業も農業も進んでいて、日本人はクルマをいっぱい持っている人、そんな印象があった。
タンザニアの言語は、主体はスワヒリ語で、次が英語である。
これから渡航する人のための青年海外協力隊の訓練所は当時、長野県と福島県、さらに言語を学ぶところが東京広尾にもあった。
タンザニアに派遣されることになった小林さんは70日間にわたり、長野県の駒ヶ根訓練所と広尾とでこれから向かう先の言語や文化、風習などを学んだ。32才だった。
小林さんはタンザニアで、現地のTV局の仕事に就いた。20代のころから、旧ソ連邦や東欧の国々、さらにはインドやタイにも撮影旅行をした経験があった。ムービーが好きで、カメラを回して自分で番組をつくり、映像のつくり方や編集の仕方などを現地の人に指導していた。
それだけなら、何も起こらなかったかもしれない。

結婚式でのワンショット。たくさんの人が祝福に駆けつけた。
彼は、不幸にしてマラリアに罹った現地の人たちを助ける活動もしていた。またフィデアさんは、高校卒業後の1年間の兵役を経て、心身障害児養護施設の教員となっていた。
ともに、人のために身を投げ出して働くことを惜しまなかった。自然や人間に対する温かいまなざしで、二人は共通していた。
タンザニア人が外国で生きることは、特別なことではない。
みんなが自由に生きようとするから、運とか出会いさえあれば、海外に嫁ぐ女性はいっぱいいた。実際、フィデアさんの兄弟姉妹も、いまはヨーロッパやアメリカ、日本などで暮らしている。
それでも自分が日本人と結婚をして、日本で暮らすことになろうとは思ってもみなかった。
長野県のリンゴ農家の長男である小林さんの母は、二人の結婚にすごく反対した。生きてきた国も言葉も文化も、まるで違う。しかも住んでいるところは田舎で、仕事は農業である。
ネガティブなことばかりが立ちはだかっていた。
はじめての日本で出会った、さまざまな喜びと苦しみと。
1996年だった。
フィデアさんは小林さんとの結婚を決意し、日本に向かうことになった。すでにエアチケットも取っていた。ところが、結婚の1週間前になって突然、フィデアさんの父が脳梗塞で亡くなった。
すべてのことは、神の御心のもとにある。すでに二人の結婚に対する祝福は終わっていたから、現実を享受しなければならなかった。
父は人に尽くし、神様に愛された人だった。
大きな哀しみを背負いつつ、フィデアさんは一成さんとともにアフリカを発った。
灼熱の太陽が照りつけるタンザニアから、冬は一面が雪におおわれる長野県へ。頼れる人が隣にいるとは言え、どれほど心細いことだったろう。
いまでこそ、彼は私のためにアフリカまで来てくれたんだ、と思えるようになったが、ここまで来るのにはさまざまな葛藤があった。あらゆることが戸惑いの対象だった。一歩外に出れば、あからさまな差別も経験した。

そんなとき、いつも彼女を救ってくれたもう一人の人がいた。
一成さんの父、義父の平治さんだった。
「一成が好きだったら、それでいい」
義父はフィデアさんのつらさを想い、やさしく、そして一生懸命に日本語を教えた。
「兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川 夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷……」
彼のあとについて、子どものように歌う。詞の意味を教えられて、遠い国を想う。義父は笑顔が素敵で、温かくて、いっしょにいるだけでたのしかった。
「ふるさと」も「赤とんぼ」も、心の歌だった。
その義父も2003年に93才で旅立ってしまった。長女のサラちゃんが生まれる2年前で、孫の顔を見ることはなかった。
フィデアさんにとって義父は、宝物だった。話をするだけで、いまもしぜんにまぶたが熱く膨らんでくる。


りんごの収穫時季を前に。
祖国の哀しい子どもたちのために、自分は何ができるのだろう。
2年ほどは自宅の農業を手伝っていたが、1998年にフィデアさんは知人の紹介で働きに出るようになった。
仕事先は長野県北部の斑尾南麓に位置する三水村の、株式会社斑尾高原農場だった。それから7年後に村は牟礼村と合併して飯綱町となり、会社も「株式会社サンクゼール」と名を変えた。
いまでは小高い丘の上に、広大なワイナリーとレストラン、デリカテッセン、チャペル、ショップなどを展開しており、眼下には広大なブドウ畑と四季折々の美しい眺望が広がる。さながら、地上の楽園のようなところだ。
そしてその会社が、フィデアさんにとっても、タンザニアで生きる多くの孤児たちにとっても、かけがえのないものになっていく。
アフリカのころを思えば、日本での生活は何一つ不自由のないものだった。
翌年、姉のフローラと母レジーナを日本に招いたときのことだ。家族と話しながら、この国に嫁ぐことができた自分は恵まれていると強く感じた。恵まれているがゆえに、祖国の人たちへの想いが募った。

サンクゼールの丘より。眼下は素敵な景色が広がる。
タンザニアでは、エイズ孤児や貧困から捨てられた身寄りのない子どもたちが増えていた。そうした人たちに、こんどは自分がお返しをしたい。
この国で自分が果たすべきことが見えた。
母はタンザニアに帰国後、自宅を孤児院として開放し、「NGO ソンゲア女性と子どもの支援団体」を設立し、姉は渡米してシアトルを拠点に支援者を募り、2002年に「NPO法人 ムワンガザ・ファンデーション」を立ち上げた。
ムワンガザとは、スワヒリ語で「光」を表す。子どもたちがひとしく希望の光を失うことなく生きていける未来を願ったものである。
妹のアナも、母国の首都であるダルエスサラームに同名の法人を立ち上げた。タンザニアにおける孤児支援活動は、まさにフィデアたちファミリーの使命となっていった。
フィデアさんには夢があった。
母国に新しい孤児院と畑、診療所や研修施設をつくりたいと願った。そうして2005年、タンザニアに12ヘクタールの土地を購入し、そこを「祝福の村」と名づけた。最初の一歩だった。
ただ、いくら頑張ろうとも、一個人の行動には限界があり、夢がいつ実現されるのか、まるで手で空を掻くような話だった。
そこに、思いがけない手が差し伸べられた。
あるとき、フィデアさんの活動を知ったサンクゼールの久世良三社長(現会長)が、彼女に言った。
「それは一人でやることではないよ」
最高の理解者と支援者を得て、そこから夢は現実に向かって一気に走り始める。

「祝福の村」の予定図。タンザニアの広大な地に、フィデアさんは立ち上がる。
フィデアの名を冠したチャリティ商品の開発から販売へ。
社長をはじめとする多くの仲間たちの賛同を得て、会社のなかにプロジェクトチームが立ち上がる。
そして2010年、フィデアさんがプロデュースしたフィデアジャムの製造と販売が始まり、翌年にはパスタソースもラインナップに加わった。
たとえばジャムの価格には、100円の寄付金が含まれている。
これがNPO法人「ムワンガザ・ファンデーション」を通してタンザニアの孤児たちの養育と自立支援活動に寄付されるしくみである。
さらには同社が全国で展開する「サンクゼール」と、「久世福商店」の直営店に募金箱が置かれるようになった。
サンクゼール社の経営理念の一節に、「互いの違いを認め合う」とある。社会貢献を旨とし、あらゆる人びとに開かれたオープンな会社をめざし、なにより相手を尊重しあう社風を大切にしている。
フィデアさん流に言えば、まさに神に導かれた出会いだったと言えよう。

フィデアさんが働くサンクゼールの丘のレストラン。

フィデアさんとの会話はいつも楽しい。
気にかかっていたことがあった。
タンザニアでは、土地の取得後5年以内に建屋の建設を始めなければ、政府にその土地を没収されてしまうことになっている。
なんとか手に入れた土地だったが、残された時間は少なかった。
だがそれも、多くの方々の支援の広がりを得て、2011年、ついに工事着工にまでこぎつけることができた。
まずは地下100m級の井戸を掘ってWHOの基準を満たす良質の水を確保し、周囲を囲む塀を建設。翌年からはいよいよ次のステージへと入っていった。
2020年のいま、すでに2棟の孤児院が建ち、80名の孤児たちが、サンクゼールのチャリティジャムとパスタソースなどの商品と、日本からのたくさんの支援で生活できている。
それがなければ、あの子たちは生きていけなかった。
遠くまで出かけて商品を購入してくださったお客さんをはじめ、会社の理解と支援があってのことだった。

井戸を掘る様子。

レンガ造りの壁。フィデアさんもブロックを運んだ。

アフリカの大地に建てられた学校。

タンザニア伝統の“カンガ布”の柄がパッケージになった、かわいらしいジャムやパスタソース。サンクゼールや久世福商店では、これらの他にもたくさんのチャリティ商品が取り扱われている。
世界の孤児たちの、私は、お母さんになる。
日本に来てもう25年になる。日本には電気も水道もある。が、それが人生のすべてではないと思う。
だから、幾つになっても、アフリカのでこぼこ道を忘れたくはない。向こうでは裸足で歩いていた。自然の木を集めて生活していた。それがフィデアさんの原点である。なにより、人間は自然から来ているのだから。
一成さんとフィデアさんの一人娘、サラさんは今年、高校に上がる。いつかサラに、そうしたことを知ってほしい。
フィデアさんは、彼女のセンターであり、フォワードであり、ディフェンダーだと思っている。ただボールを待っているのではなく、汗を流し、苦しみ、喜びもあって、自分で向かっていって人は強くなる。その強さを与えたいと願っている。
2年前にサラを連れて、タンザニアに行った。彼女にとっては、はじめてのアフリカだった。日本との違いをつぶさに見て、感動していた。また行きたいと話す一方で、「ママ、私たちは幸せね」とつぶやいた。
サラは、こうも言った。
アフリカの子どもたちへの支援活動に対して、「いつか、ママのやっていることをやりたい」と。
その声を背中に聴きながら、待っている世界中の孤児たちのために、フィデアさんはまた思いを新たにしている。
突き上げてくるものがあるのだろう。
フィデアさんの歩みはさらに力強くなっている。
