名人に会いたい
KIKUCHI ASAMI

菊池 朝美 さん
パイプ職人・作家 /株式会社 柘製作所 製作部
手のひらが、話しかけてくる。
その女の子は、工作が好きだった。
時間が来ると、いつも無心になって手を動かしていた。親もそれと気づいたのだろう、幼稚園のころからずっと工作教室に通わせてくれた。
やがて学校に上がるようになると、授業がぜんぶそうだったらいいのに、と思うようになっていた。
いつだったか、作ったものが或る教科書出版会社の眼に止まり、作品を写真に撮らせてほしいと訪ねて来られたことがある。
そのまま掲載されたかどうかはわからないが、なんとなく自分には工作が向いているのかな、と感じていた。
大学は多摩美術大学に進んだ。
自分なりに考えて環境デザインを専攻したが、入ってみると設計とか図面とかの勉強が多く、違ったかなあ、彫刻をやればよかったかなあ、と思うこともあった。
ただ、卒業制作だけは何を作ろうと自由だったから、やりたいことができる、と心が浮き立った。
小さな木のオブジェを作ろうと思った。
銘木屋さんを訪ねて、削ったらきれいそうな木をいくつか選んだ。喜び勇んでそれらを持ち帰り、暇を見つけては削り、磨いていった。
やがて木の塊りが輪郭を現わしてくると、木片をポケットに忍ばせ、電車のなかでも手のひらに転がしては撫でていた。
視覚だけでなく、掌(たなごころ)全体を使って自分が心地よい形をさぐっていく。彼女の鋭敏な感覚は、このときすでにポケットのなかで豊かに醸成されつつあったのだろう。
その木片を、みずから「テアソビ(手遊び)」と名づけた。
ただ、そのままアートの世界に進むことはなかった。
色彩やデザインが身近に感じられるアパレルや美容の仕事も好きだったから、何年か、別の世界で働いていた。
が、人生には思わぬところに転機が待っているものだ。
彼女がつくった小さな木片のなかに、特別な才能を見出した2人の人物がいた。

菊池さんの卒業制作「テアソビ」
パイプの達人たちが見出した、若き才能。
柘(つげ)製作所という、世界でも有数のパイプメーカーがある。
その総帥である柘恭三郎氏はあるとき、当時多摩美術大学で指導をしておられた知人の平山教授から、卒業生がおもしろいものを作ったから見てほしい、と頼まれた。
実際には、彼女が卒業してもう数年が経っていた。
教授は彼女の作品を忘れていなかった。その才能がこのまま埋もれてしまうことを、どこかで惜しむ気持ちがあったのだろう。
柘氏はパイプの世界ではTSUGEブランドの総帥として名高く、CIPC国際パイプクラブ委員会副会長などの国際的な要職にも就いている第一人者だった。
ただ、教授から聴かされた話だけではさほどイメージが湧かなかった。が、あるとき現物を前にして、激しく揺れた。
それは銘木でも何でもない、学割で買ったという日本原産の和材でできていて、何ら化粧も施されていないものだった。
手持ぶさたをただ手で受け止めるだけの、まったく用途を持たない木の塊りが、しかしなんと饒舌で、躍動感にあふれていたことか。工業製品では決してたどり着けない領域が、そこにあった。
氏はふと、河原に行ってはいろんな形の石ころに心を躍らせ、一心に拾い集めていた子どものころを思い出した。彼女の作品には、人間が何かをコレクションしようとすることの原点が集約されているように思えた。
この若い女性は、天賦の才をもっている。彼女によって導き出された造形は、一つとして同じシェイプ、同じ木目のものがない、パイプの世界に通じるものだった。
しばらくして柘氏は、以前から交流があった寺田倉庫株式会社の当時の中野善壽社長から、或る相談を受けた。
同社は、ただスペースを貸して品物をお預かりする倉庫業から、蓄積されてきた保管技術とITとを融合させて、モノ自体が持つ価値そのものをお預かりする、文化創造企業へと歩み出していこうとする時期にあった。
たとえば、たいせつな絵画などを専門にお預かりするギャラリー形式の倉庫であったり、
温度と湿度管理を徹底してビンテージ物のワインをお預かりする高度なワインセラーなどを具体化しようとしておられ、
社長からは最初のアートギャラリーのオープンに向けて、何か特別な記念品をつくってくれないか、との要望が寄せられた。
さて何がいいだろうと思いめぐらすうち、柘氏の頭のなかにふいに菊池朝美さんのテアソビが浮かんだ。
むろん、菊池さんに職人としての経験はない。ましてや柘製作所の社員でもない。本人にしても、どうしよう、出来るのだろうか、不安はあった。しかしその仕事は、なにより彼女自身が手がけてみたい仕事だった。
そこから数カ月、作業に没頭する日が始まった。
柘製作所のなかに仕事場を用意していただいて、美容の仕事をつづけながら、一日も休むことなく通いつめた。最終的には3つか4つのシェイプにしぼり、150個くらいのオブジェを仕上げた。
途中で、私、ここで働くことになるかもしれない、そう思いはじめていた。

最初にして、おそらくは最後となる、師との出会い。
2012年、菊池さんは柘製作所に入社した。
幸いなことに、そこには自分の人生を決定づけるたいせつな人がいた。長きにわたり数多くの名品を生み出し、世界各国にファンを持つ福田和弘さん、その人だった。
パイプづくりには、手作業ではあるが形が決まっていて各人の流れ作業で作るファクトリーパイプがあり、一方で、原料の調達からデザイン、仕上げまでを一人の職人が作りあげるハンドメイドパイプの領域がある。
話はさかのぼるが、柘製作所では1970年代にこのフリーハンドパイプの制作を思い立ち、福田さんがその先頭に立った。
ご自身はすでに高度な技量を身に着けておられたが、当時の北欧はデザイン革命の渦中にあり、ヨーロッパの作品を取りまく雰囲気をつかみたかった。
まもなく福田さんは、ハンドメイドの神様と謳われていたデンマークの故シックステン・イヴァルソン氏に弟子入りをする。幾度となくデンマークの作業場に通いつめ、さらなる研鑽を積んでいった。
そうしたのちに柘製作所は、TSUGEブランドにメイド・イン・ジャパンの刻印を入れて、世界に打って出ることになる。以来、たくさんの方が海外から買い付けなどで訪ねて来られるようになった。
あるとき来社されたドイツ人バイヤーの奥さまが、居並んだ彼の作品を前にして「まるで生け花のようですね」と呟いた。ハンドメイドパイプはそれを待つ人のためにすぐにも出荷され、一望できる機会は少ない。
生の花もまた美しく咲く時間は短い。いまここでしか見られない光景を、彼女はそう表したのだった。
いまでは購入者の約半数を海外ユーザーが占め、押しも押されもせぬ柘製作所の国際的フラッグシップモデルとなった「IKEBANA」はこれがきっかけとなって誕生した。
福田さん自身があちこちを飛び回っていたわけじゃない。
にもかかわらず世界各国から、たくさんの外国の方がわざわざ日本にまで足を運んでくださる。ほんとうの意味で福田さんは国際人であり、下町の職人だって世界中に名を馳せることができることを身をもって示した。

師との別れと、新たな旅立ち。
福田さんは、15才から85才までの70年間にわたってパイプを作り続けた。そして菊池さんは、その方に選ばれて後継者となった。
師にとって最後の弟子は、思いがけず女性だった。しかも格段に若かった。年齢は祖父と孫娘ほどに離れている。それでも菊池さんを抜擢したのは、その天分に大きな可能性を見出していたからだろう。
日々隣にいて、菊池さんは師からたくさんのことを学んだ。
パイプ製作の基礎からフリーハンドパイプをつくるまでを、繰り返し丹念に教わってきた。
昔は怖い人だったらしい。でも、後年はやさしかった。ちょっと聞くと、すごくよく話してくれた。そんな温厚な性格が、パイプにも出ていた。
なかでも師が強調したのは、全体が美しく流れるバランスのとり方だった。シンプルな形状であればあるほど、数ミリの差でまったく印象の異なるものになってしまう。
もっとも、教わったのは技術だけではなかった。
いまも心に残る姿がある。最初の仕事で菊池さんが失敗をして穴を開けてしまったときの悲しそうな顔は、いまも忘れない。
もう一つは、いつも、ただただ楽しそうに仕事をしておられたことだ。好きなことに一心で打ち込んでいた、その背中が忘れられない。
福田さんは80才を過ぎてもなお、電車で通っておられた。
一日中座り放しで作業したうえでの通勤はさすがにつらかったに違いない。もう勘弁してくれと、昨年、退社を申し出られた。
将来、唯一無二の仕事ができたらいいな、と思う。
また、好きなことを最後までやりつづけられれば幸せだな、とも思う。師はそれをやっていたから。その師と出会えて、自分は幸運だった。最後の弟子になれて、幸運だった。

やわらかで繊細な手だから、生み出せるもの。
1本のパイプが生まれるには、途方もない時間が流れる。
木の根こぶは、年月をかけて自然が創り出したもの。これはと思えるものを選んで大きく切断し、樹液をのぞくために大きな窯で半日から丸一日も煮沸する。さらに水気を切り、そこからモノによっては2,3年以上の長い眠りに入る。
パイプは、穴あけをはじめとする内部構造については機械を用いて正確に加工される。喫煙具としての完成度の高さが求められるところである。そしてそれ以外はすべて、作り手の感性と技術に任されることになる。
木の根こぶは目が詰まっていて硬いうえ、なかには小石や砂を噛んでいるときもあるし、虫食いやひび割れもある。削るうちに大きな傷とかで模様が一変することもある。
思い通りにならないことは多い。反面、試行錯誤を経てうまく自分なりのものができたときには、言いようのない達成感が得られる。
菊池さんの手は、女性ということもあって小さい。作品もやや小ぶりなものが多い。
自身は煙草をたしなまないけれど、その掌が生み出す絶妙のバランスと仕上げが、持つ人の手にしっくりなじんでいく。
菊池さんには女性特有の根気強さと丁寧で繊細な仕事、なにより子どものころからずっと研ぎ澄ましてきた確かな手のひらという道具がある。
すでに世界各地に、菊池さんの作品を待ちこがれるファンがいる。
師はすでに去った。が、ときおり福田さんが昔つくったパイプが、修理で帰ってくる。誰かの手のひらに委ねられて数十年の時を過ごし、新品のときとはまた違った表情で帰ってくる。
師は昔の作品を通して、時々に、いまも自分を励ましてくれている。ならば、自分の作った作品は、どう変遷していくのだろう。それを考えるようになった。
パイプは、人の手のなかで100年の時を超えていく。
遠い日、誰かの手から別のたいせつな人の手へ。ひょっとしたら、まだ生まれてもいない人が使っているかもしれない。想像もつかない遠い国々の人が使っているかもしれない。
彼女のテアソビの心は、IKEBANA KIKUCHIの刻印とともに、尽きることなく人と人をつないでいく。

文:瀧 春樹