君の背中に贈る言葉
ISHIZU RUI
米国東海岸の学生たちの間にはじまった伝統スタイルを
「アイビールック」 としてこの国で花ひらかせた男、
祖父・石津謙介と父・祥介の足跡を伝えていく。
石津 塁
ファッション・ディレクター
有限会社 石津事務所 代表 / 一般財団法人 日本メンズファッション協会 理事
アイビーの家に生まれて。
もう、その時代を知らない人のほうが多くなった。
いまから語ろうとするのは、60余年ほども昔の、1960年代のことである。
それまでの日本と言えば、まだどこかに敗戦後の暗い世相を引きずっており、多くの若者は着るものにさえ無頓着な時代だった。
とくに男性は、どちらかと言えば硬派であることが潔しとされ、異性の目を意識した軟派な男性は軽んじられる風潮にあった。
1951年(昭和26年)のことだ。
大阪市南区に石津商店という小さな会社が誕生する。
敗戦から6年しか経っていない混沌とした時期に生まれたこの会社が、やがて日本中の若者を熱狂させ、
その後につづく世の中の意識や文化にまで多大な影響を与えようとは、誰も想像できなかったことだろう。
ひとり、創業者である石津謙介氏をのぞいては。
3年後に氏はVANブランドを発表し、会社を有限会社ヴァンヂャケットへと改組した。
それからもしばらくは大人の紳士服を手がけていたが、変化が少なく、やがて飽きたらなくなった。
満を持して彼が提案したアイビーファッションは、当時の若者たちにとって、まぎれもなくはじめて出会った自分たちのファッションだった。
VANのロゴのもとに次々と生み出される商品群に彼らは魅了され、熱狂し、ときには心酔もし、全身にまとってはこぞって街へと繰り出した。
背景に、昭和の高度経済成長があった。
1963年に名神高速道路が開通し、翌1964年にはまず10月1日に東海道新幹線が開通し、10日後には東京オリンピックが開幕となった。
勢いはさらに、1968年の東名高速道路の開通、1970年の大阪万博EXPO70へとつづいていく。
アイビーファッションの爆発的な人気は、まさしく日本人が自信を取りもどしはじめた元気な時代と重なっていた。
米海兵隊の兵士を通じて知ったアイビーリーグと、
その伝統ファッションの存在。
石津謙介氏は1911年(明治44年)に、岡山市の老舗紙問屋「紙石津」の次男として生まれた。
地方都市と言えども、3年後には第一次世界大戦が勃発する、ややきな臭い時代でもあった。
いずれ商人として家を継ぐつもりだったのか。地元の旧制第一岡山中学を卒業してから、東京の明治大学専門部の商科へと進んだ。
スポーツが万能であるうえ、人並み外れた好奇心の持ち主でもあり、最新流行の遊びやスポーツに敏感で、
自分で学内にオートバイクラブや自動車部、航空部などを立ち上げ、ほかにもローラースケート、乗馬、水上スキーなどに興じていた。
それに、なにより服装に気を使う着道楽でもあった。
卒業後も、家業は引き継いだものの趣味でグライダーを自製して操縦したり、果ては日本軍航空兵の訓練の教官までしていたというから、
垣根なく挑戦するその姿勢には驚嘆させられる。時代を考えれば、家業が安定していたからこそ許された行動だったろう。
ご本人は21歳で結婚し、24才のときに長男の祥介氏をもうけ、3人の男児に恵まれている。
ところが氏は、子や孫に対しては「男は30才になるまで結婚するな」と言い含めていたらしい。
奔放に行動し、誰よりもやりたいことをしてきたはずの人だが、それでも足りないと感じていたのか。
世の中のさまざまをことと出会い、知り尽くし、存分に実践し、まとまるのはそれからでも遅くないんだよ、と言いたかったようだ。
先をつづけよう。
紙問屋の長男は、家業を継ぐことに二の足を踏んでいた。そこで一旦は弟の謙介氏が跡継ぎになる方向に傾いた。
ところが、世界情勢は刻々変化しており、戦争の足音が近づいていた。
もまなく原材料たるパルプが統制下に入り、仕事をつづけることさえむずかしくなり、家業をたたむことになった。
このとき、中国・天津の繊維会社「大川洋行」から誘いがかかった。
氏は決断し、1939年(14年)に妻と幼子を連れ、その天津の租界へと移り住んだ。
ここで言う租界とは、さまざまな外国人たちが居留するために設けられた特別な地域のことである。
インターナショナルな世界に身を置き他国の人とも積極的に交流することは、みずからの見聞を広め、世界の実情を知り、なにより感性を磨いていくことになる。
謙介氏は招かれた大川洋行に入社し、いろいろなデザインを起こして成功し、深く服飾に関わっていくことになる。
30才の暮れに真珠湾攻撃があり、いよいよ戦争の火ぶたが切られた。
日本からの原材料の供給が途絶え、現地生産に切り替えたが、大川洋行は残念ながらそれから3年ほどして会社ごと売却された。
謙介氏は米海軍の軍属となり、翌年には米海兵隊に所属していたオブライアン氏の通訳を務めることになった。
氏は彼から、米国で起きているさまざまな事象を学んだ。なかでも奥深く記憶に刻まれたのが、
東海岸の学生やOBたちの間に深く根を下ろしていたアイビーファッションの存在だった。
なによりオブライアン氏自身が、通称アイビーリーグと呼ばれる米国西海岸の8つの名門私立大学の出身だった。
あくまで話のなかでの想像にすぎないが、当時の日本人から言えば彼我の差は決定的で、自由で奔放な、夢のような学生たちの日常がそこにあった。
これが運命的な出会いとなる。
将来はもっと違う世界になっているはず。
広がり始めた服飾デザイナーへの道。
日本は、国際社会からどんどんと追い詰められていた。
東京や大阪など主要都市への大空襲と、これにつづく原爆の投下を経て、ついに敗戦となった。
天津での6年間の暮らしを経て、一家はまもなく満州経由で母国に引き揚げることになった。
だが、敗戦直後の日本にもどって何ができるだろう。
ただ、氏にはほかの誰にもない、租界地でのさまざまな交流や繊維業の経験があった。
帰国した翌年の1947年(昭和22年)に、著名な実業家で貴族院議員でもあった佐々木八十八が創業した佐々木営業部(旧レナウン)に入社した。
同社は繊維と雑貨の卸商であり、戦前から高級メリヤス品の製造で国内トップの位置にあり、戦後は求められていた脱輸入、すなわち国産化に取り組んでいた。
氏は天津における大川洋行での繊維業の経験を生かし、新天地でさまざまな紳士服の企画に多彩な才能を発揮していくことになる。
36才のときには自身でメンズウエアを手がけ、高い評価を得た。在籍した最後のほうは、いまで言うマーケティングも担当していたらしい。
得たものは多かったろう。
入社して4年が経った1951年(昭和26年)のことだった。
当時の吉田茂首相が48ヵ国と講和条約を締結し、次いで米国との間に安全保障条約を結んだ。
これでようやく日本の進むべき方向が固まった。
これからは、いわば国を挙げて復興に突き進んでいく、まさに日本のターニングポイントとなった年だった。
ただ実情を言えば、ようやくラジオの民間放送が始まったばかりで、人びとの暮らしは貧しかった。
が、氏は臆することなく、ここで独立を決心をする。
食べることが何より大事で、洋服など二の次、三の次の時代に、大阪市南区につくった小さな会社、「石津商店」がそれであった。
当然ながら、さまざまな苦労が待ち構えていたに違いない。
それらを乗り越えつつ、旺盛な行動力で、氏は少しずつ商店から会社へと順調に脱皮させていった。
独立から3年がたった1954年(昭和29年)、謙介氏は「石津商店」を「有限会社ヴァンヂャケット」に改組する。
翌年には会社形態を株式会社へと転換し、古くて狭い物件だったが東京日本橋本町に東京支店も開設した。
石津商店からヴァンヂャケットへ。
さらに大人の紳士服から若者のアイビールックへ。
ヴァンヂャケットと改名した1954年(昭和29年)の6月に、時を同じくして婦人画報社(現ハースト婦人画報社)から「男の服飾」が発刊された。
婦人誌の別冊とは言え、日本最古の男性ファッション誌が誕生したのである。
つまりそれ以前は、男性ファッションなどまったくビジネスにならなかったということだ。
謙介氏は創刊時から参画していたようだが、初期はアイビールックではなく、氏がデザインする大人の紳士服が取り上げられていた。
やがて事業規模が大きくなるにつれ、動きが慌ただしくなっていく。
氏は堰(せき)を切ったように、たびたび海外へと視察に向かった。米国訪問の主眼はメンズファッションの潮流を肌で感じとることにあったが、それとは別に、ずっと頭から離れないことがあった。
もう、おわかりだろう。
そう、かつてオブライアン氏から聴かされて心躍らされた、東海岸のアイビーリーガーたちの日常の姿を自分の目で確かめることだった。
おなじ若者でも、当時の日本人と米国人とではすべてが異なっていた。
体格も、感性も、暮らしも、豊かさも、慣習も、その背景にある文化や歴史も。
日本で展開する場合の最大の課題は何か。どう展開すれば成功するのか。
季節を変えて、幾度となく米国や欧州に渡り、帰国しては想を練った。
迎えた1958年(昭和33年)。
謙介氏はついに旧態依然とした紳士服の世界に別れを告げようと、徐々にアイビールックへの路線転換を図っていった。
日本の若者に向けて大胆なアレンジを行い、そこで確かな手応えを得ると、その後はカジュアルからフォーマルまで多数のアイテムを次々と繰り出していった。
あとは一気呵成だった。
本人もそこまでとは予想していなかっただろうが、とにかく若者たちの反響がすごかった。前例のない社会現象が起きていた。
メディアと一体となった革新的なキャンペーンから、街にアイビールックがあふれ出す。
話は前後するが、石津商店がヴァンヂャケット社に変わるころ、長男の祥介氏は父と同じ明治大学へと進学するも、その後、同大学を中退する。
そして一転、桑沢デザイン研究所からセツ・モードセミナーへと進み、急速にファッションへの造詣を深めていった。
卒業後は、学生時代からアルバイトでお世話になっていた婦人画報社に入社した。
男性ファッション誌の部署に入り、創刊初期の「男の服飾」から、やがて「MEN'S CLUB」へと発展していく過程で経験を重ね、人脈を膨らませていった。
こうして1960年(昭和35年)、祥介氏はようやく父のヴァンヂャケット社に入社した。
それからまもなく、アイビーファッションとメディアとが連動した画期的なキャンペーンが登場し、VANによる怒涛の快進撃が始まっていく。
すでに街には、アイビールックの若者たちが出没しはじめていた。
祥介氏が父のもとに集結して3年が経ったころ、古巣の雑誌MEN'S CLUBのなかで、街をさっそうと歩く若者たちを撮影し、
そのファッションにコメントをつけて誌面上に掲載する「街のアイビーリーガース」コーナーがスタートした。
これが、当たった。
運よく掲載された若者たちは学校の内外で一躍ヒーローとなってもてはやされたから、みんながこぞってVANのロゴ入り紙袋とMEN'S CLUBを小脇に抱えて街へと繰り出し、
撮影班に出会うことを願ってわけもなく徘徊しはじめたのである。
翌1964年(昭和39年)4月には、平凡出版から男性週刊誌「平凡パンチ」が創刊される。
表紙には大橋歩氏によるアイビールックの若者たちがイラストで描かれていた。一部50円、62万部だったものが、1年半後には100万部を突破した。
メディアと現実の街の若者たちとが一体になったキャンペーンは大成功だった。
この年である、ヴァンヂャケット社は売り上げの急拡大と社員の急増により、港区北青山に完成したばかりのAYビルに本社を移転した。
屋上にはVANの文字が誇らしく掲げられ、オリンピック開催に沸く青山という新しい土地の角に、白いビルがまぶしく映えた。
ここから青山通りは一気におしゃれな街へと変貌していく。
あまりに急激すぎた成長のあとに、突然にやって来た、大きすぎる挫折。
祥介氏の長男、塁(るい)氏が誕生したのは1969年(昭和44年)である。
このときヴァンヂャケット社はまさに急成長の階段を駆け上がろうとしており、ちょっと前まで売上げ1億円だった会社が、
1974年に年商300億円、翌年にはついに史上最高額の450億円を記録する。
周囲は羨望と驚きをもって眺めていた。
本当は、このときに立ち止まるべきだったかもしれない。じつは最高額を記録しながらも、その裏で、大幅に利益を減少させていたからだ。
それだけではない。世界は第4次中東戦争に端を発したオイルショックの影響を受け、この国の消費にも陰りが出てきていたのである。
この頃から、ある総合商社と資金面も含む業務提携が始まった。
それが一方の強みともなったのだが、両社ともに、前例のない急成長を遂げたことで冷静さを欠いていたのかもしれない。
商社主導の拡大路線で人員も含めて会社の規模が一気に膨れあがると、それにともなって出ていくお金も膨大なものになる。
謙介氏はすでに会長に退いていた。
いつしか在庫が積み上がっていた。
急ぎ供給を抑えても、膨大な経費は変わらずのしかかってくる。このとき同社が選んだ結果が、バーゲンセールだった。
顧客にとっては、憧れだったVANが安くなる。一時は喜ばれたが、がっかりした客も多かった。
膨らみすぎた会社は大量の在庫を抱えて、みるみる急降下していった。
当時近くにいた人はこう証言した。「あのとき石津家は戦意を喪失し、見渡せないほどの社員の数に途方に暮れていたのではないか」と。
翌年、同社はついに赤字に転落。約400億円の負債を抱えて経営破綻した。そして2年後には、申請していた会社更生法が認められずに破産する。
頂点からわずか4年。アパレル業界として、史上最大の倒産とされた。
幼い塁さんがそのことを知らされたのは、祖父からでも、父からでもなかった。
小学3年生の一学期の始業式の日に、それは同級生から告げられた。親から教えられたのだろうが、子どもはときに残酷なものである。
倒産がどういうことか深くわからないまでも、塁さんにとっては厳しい宣告だったに違いない。
祖父はすぐさま、失職した大勢の社員の再就職に奔走した。
相当な難航を覚悟していたが、思いのほかスムーズに進み、ほとんどの人の再就職がかなった。
社員のなかにはファッション部門だけでなく、流通や広告クリエイティブ、カメラマン、店舗設計など、多彩なスタッフがいた。
成功も失敗も前例のないレベルのものだったから、その経験を自社にも生かしてほしい、と思う経営者がたくさんいたのだろう。
「お坊ちゃんだったのは、あのときまでですよ」
と、塁氏は回想する。ほどなく引っ越しを強いられるが、もともと祖父も父も家とか土地とかに執着のない人だった。
振り返れば石津家はほとんどが借家暮らしで、VANの代表であった時も、倒産してから移り住んだ駅から遠い家も、さほど落差はなかったという。
世間の見栄とか虚栄心とかに惑わされず、いつも別の景色を見ていた方たちなのだろう。
それでも、多方面に迷惑をかけたことは間違いない。
生きる目標を失ってはならないが、表立った行動は控えなくてはならない。
ようやく再出発の形を整えたのが、それから5年も経った1983年(昭和58年)のことだった。
石津事務所を構え、謙介氏と祥介氏の父子は服飾評論家あるいはフリーのファッションデザイナーとして歩いていくことを決めた。
以降は、衣・食・住にわたるライフスタイルを積極的に提案していくのだが、自分たちで製品を作って在庫を持つ仕事は極力しなかった。
血がそうさせたのか。VANの栄光と失敗を知らぬまま、ファッションの世界へ。
塁氏は、学校は好きだったが、勉強はあまり好きではなかった。
祖父に似たのか、いずれ好きなことをしようと思っていたし、父たちもそれを容認した。
倒産劇から10年、世はバブルの様相を呈しており、石津家もいくらか生活を取りもどせていた。
塁氏は日本の大学に行く代わりに、その時間と費用を海外に向けたいと思っていた。
やはりファッションに興味があり、不思議にそれ以外の選択肢はなかった。
塁氏は高校を中退して外国語専門学校に通い、その後渡米して2年間、ニューヨークのインターナショナルスクールに通った。
塁氏は1991年(平成3年)になってようやく帰国する。
当初は日本の大手アパレル企業での丁稚奉公も考えたが、この国はバブル崩壊の直後でもあり、どこも厳しい状況にあった。
そこで、以前にVANから独立してできた、中小アパレル企業の株式会社SCENEにお世話になることになった。
最初の3年間で、直営小売販売業務と、提携ブランドだったカナダのアパレル「CLUB MONACO」の立ち上げなどにも携わることができた。
あとの7年間は、企画/生産スタッフとしてモノづくりに参画した。
服づくりの現場はこの数10年で大きく変わっている。
スーツは別として、型紙というものがなくなって、すべてデータに置き換わった。
ただ、そのころはまだ多くの工程で技術者としての個人の知見や感覚や技が介在していた。
最後の時代だったかもしれない。塁氏もそこで、先人たちの知と技と吸収し、みずからを磨いた。
祖父の存在はと言えば、そうした仕事場でよく出会う先生だった。
石津謙介個人として仕事をしており、展示会とかによく来ては担当者たちを前にアドバイスをしていた。
32才になって、SCENEでの10年に区切りをつけ、はじめて石津事務所に入ったが、それもわずかな期間だった。
祖父が趣味のようにやっていた代官山のオーダースーツの店を同社に貸していたのだが、塁氏が退社するとともにその店を返却してこられた。
それならそこで石津事務所の新規事業として何かやろうということになり、しぜんと塁氏に白羽の矢が立った。
2001年(平成12年)に立ち上げた日本製の革小物の店「Diral ディラル」がそれだ。
その頃、自分たちがやりたいことをやるなら、やはり小売りだ、と思っていた。
後輩に革の職人がいて、1個から作れて在庫なしの少量生産とした。
しかし最初の1年から2年は鳴かず飛ばずで、自分たちの給料さえ危うかった。
そんなとき、インターネットによるEコマースが出始めた。
早々にこれに着手し、自社サイトに製品を出しながら店頭で売る、自分たちだけで完結するスタイルを通した。
まもなく急速に世のデジタル化が進むと、iPodのケースとかを検索する人たちが急増し、これにヒットした。
関連グッズが売れ、知名度も急上昇した。
10年近くが経過したころには、たった2人で年商8000万円を数えていた。
とにかく効率がよかった。が、いまのままでさらに作るのは限界に来ていた。
現状維持か、拡大かで、パートナーと意見が分かれた。
アイビーファッションとともに生きた祖父と父、その次に自分がやるべきこと。
革小物のDiralが岐路に立つ数年前、2005年(平成17年)に祖父・謙介氏が肺炎のため亡くなった。93歳だった。
父・祥介も、はや70代になっていた。そろそろ自分が引き継いでいかなければ、の思いが強くなっていた。
Diralはパートナーに託して、塁氏は2011年 (平成23年) に石津事務所にもどり、こんどは父との二人三脚をはじめた。
折から事務所は、「石津謙介生誕100年」のイベント開催を控えており、もどってからのしばらくはその準備に奔走した。
それからの仕事の基本は、VAN時代の教訓から、ライセンスビジネスを軸としてソフトだけを売っていく方向でやってきた。
モノづくりが仕事だが、製品そのものは作らない。それもコンパクトでいい。
すでに高齢の父はどこに行っても先生であり、事務所の実務はすべて息子である自分でやるようになった。
ところで筆者は、その祥介氏とご縁があった。
ほんの数人の忘年会に何年かつづけて声をかけさせていただくと、いつも気持ちよく参加してくださった。
お酒は召しあがらずコップ半分のビールが限界なのに、それどころか父・謙介氏が好んで通ったバーに案内したり、
ときには自宅にまで呼んでいただいて、飲めないご主人に代わって奥様にワインをご馳走していただいたこともあった。
いつのときも祥介氏は、人と話すことがお好きだった。
すでに高齢に差しかかっておられたが、話題も考え方も着眼点も、若い後輩たちよりよっぽど柔軟で、前向きだった。
惜しまれつつ2023年(令和5年)11月に亡くなられたが、最後まで人の意見を聞き、みずからも語り、多くの著名人とも交流があって、誰からも慕われたお方だった。
その祥介氏の人生を振り返って思い出すのが、かつてVANのロゴの下に必ず組み込まれていたブランドポリシー、
for the young and the young-at-heart{若者と、若い心を持った人びとのために}、である。
よく仰っていたのは、異性への興味を失ってはいけない、いくつになっても恋をしつづけなさい、
それこそがメンズファッションの根源にあるものだと。ヤング・アット・ハート……まさしくその生き方を体現した方だった。
アイビーにはじまった日本のメンズファッションを、どう次の世代につないでいくか。
メンズファッションはそもそも、基本に忠実である。
とくに石津ワールドは、その色が濃いと思う。塁氏からすれば、なかなか自由が利かない。少なくとも祖父や父の時代はそうだった。
もちろん、トラッドは不滅だと思う。
ただし変化は不可欠だ。
だから、フォーマルであれ、肩ひじを張らず、もっと自由にしていいんだよと、機会があるごとに若い人に伝えている。
もはやVANのような、一斉風靡をする必要もない。規模も求めない。
むしろ大きなところができないような仕事。古いものと新しいものが素敵に共存しているもの。
なにより、夢のある、おごらない仕事がしたい。
塁氏はつづける。
ラッシュを過ぎた地下鉄に乗ると、ほとんどの人がスニーカーを履いている。
どんどんカジュアルに流れて、普段が普段すぎているようにも思える。コロナ禍も過ぎたようだし、たまには革靴でもいかが、と問いかけたい。
一本の木がある。
そして、その木にはたくさんの枝と花がある。
どの花も遠くからは同じに見えるが、じつはその枝にしか咲かない、その枝だけに咲く花がある、という。
みごとに咲いて散った花、そのあとに咲いた花の隣りに、これから咲こうという花と、まだ咲くには早い堅い蕾もある。
始まりの枝。アイビーという固有の枝は、きっとどこかの人の心に咲きつづけていく。
文:瀧 春樹
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