インタビュー&リポート
FOGLIA YOSHIDA MARI

フォリア吉田真理 さん
彫金作家
イントロダクション
なにを一心に作っておられるのでしょう。
フィレンツェの旧市街、通りから見えるその姿に足が止まります。
今回はフィレンツェの旧市街に、工房を兼ねたショップ「M.G.」を構える彫金作家のフォリア吉田真理さんにインタビューさせていただきました。
MとG、つまり真理さんと夫のジュリアーノさんのイニシャルが刻まれた素敵な空間はまさにふたりのハーモニーによって生まれました。
工房では「打ち出し」と呼ばれるフィレンツェの伝統技法を用いて、シルバージュエリーが作られています。
打ち出しとは銀たがねを金槌で打ち付けて銀板に立体的な模様を成形する技法で、イタリアでは15世紀から16世紀にかけて発展してきたものです。
ジュリアーノさんは、14才からこの道一筋のマエストロです。そして真理さんは、古くからの伝統を今に生かそうと奮闘を続けています。
フォリア吉田真理さん プロフィール
彫金作家
横浜市生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、赤坂宝石彫金学院に学ぶ。ジュエリー販売を経験ののち渡伊。
フィレンツェのビーノ・ビーニ校およびぺルセオ校で学びつつ、ジュリアーノ・フォリアに師事。
2010年に“フィレンツェ・モードの若手職人10選”に選ばれる。2012年春、夫・ジュリアーノと共にM.G.を創設。現在、同社の代表。
工作好きだった少女。
よそいきの服はすべて自分で縫い、家具の絵付けまでするとにかく手仕事が好きな母でした。
そんな母の影響をまっすぐに受けて育ち、3,4才のころには母の横で針を持たせてもらい、幼稚園では紙とハサミそしてのりを渡されればそれだけでご機嫌で遊んでいる子どもでした。
彼女にとっての遊びとは、“つくる” こと。
いつも友だちに向かって、何かつくろうよと声をかけては遊んでいました。
小学5年生のときに友人と、火のついた煙草の模型作りで競ったことがありました。
木の丸箸を使って本物そっくりにつくったそれは大人顔負けの出来栄えで、得意満面にそれを見せて友人に「俺の負けだ」と言わせたほどでした。
また、誕生日プレゼントが電動ノコギリだったことに友人が驚いたのは、有名な話です。
父の仕事の関係でメキシコとドイツで生活をしたこともありました。
自宅にはメキシコの木で作られた家具や牛皮の絨毯そして工芸品の壺などがあり、
子どもながらに少し変わった家だなと感じていました。
思えば、幼少期からモノづくりの世界のなかにいたようです。

就職活動で悩み、旅をした“タンザニア”。
誰もが真理さんのことを、美大に進むだろうと思っていました。しかし、
ものづくりが大好きであってもそれを学習したいとまでは思っていなかった彼女は、文学部へと進みました。
さまざまなことを学びながらも作る活動も活発に行っていた学生生活は、とても充実していました。
ところが就職活動を前に、ぴたりと足が止まりました。
初めて自分の正直な気持ちと向き合うことになったのです。
「自分はこの先どう生きたいのか。好きなことをやったらいいのか、それとも…」
大学進学時にはなかった葛藤でした。悩んだ結果、彼女は大胆な行動に出ます。
答えを求めにナイル川の源であるタンザニアに行くことを決めたのです。
「人類の源と呼ばれるそこに行ったら、きっと何か見えてくるだろう」そう考えてのことでした。
しかしそこは政治情勢が混乱しており、決めた直後にも米国大使館が爆破されるテロが。
親の反対もあってやむなく一人旅は断念し、ツアーに参加することにしました。
生物学の先生や野生動物の写真家など5名の参加者でしたが、貴重な彼らとの出会いも忘れられません。
現地で目にしたのは、シンプルに生きる野生動物の姿でした。大事な狩り以外は、体力を温存させ生きています。
その姿に「これでいいんだ!」と思えたのです。
今の自分はやることが多すぎて、逆にやりたいことを見失っている。
彼らのようにシンプルに大事なことだけのために力を使って生きたらいい。
そうだ、大好きなものづくりの道で生きようと決意をしました。

フィレンツェ職人展との出会い。
ジュエリー作家をめざして大学卒業後に専門学校に進学し、そこで3年学んだけれど、それだけでは満足がいかず留学を考えるようになりました。
もともと彫金の伝統技法「洋彫り」にとても興味があり、西洋に強い憧れを抱いていたこともありました。
そんな時、フィレンツェの職人たちが集まる「フィレンツェの宮殿の職人たち展」が東京で開催されました。
伝統的な職人の工芸を守り続けることを目的として、それまでは、フィレンツェのイタリア名門貴族コルシーニ家の庭園で開催されていたものです。
それを初めて日本で開催しようという企画でした。
開催を知った彼女は興奮し、毎日そこに通ったと言います。

イタリア各地から18名の工芸家が集まり、その技や作品が披露されました。
なかでも印象に残ったのはジュエリー職人のパオロ・ペンコさんの“糸鋸”と、ジュリアーノ・フォリオさんの“打ち出し”でした。
熱心に通ったことで、彼らとの距離も自然に縮まり、誰よりも側で彼らの技術を見ることができました。
芸術と呼ばれる技もさることながら、生き生きとした彼らの姿に感動をしました。
そんなフィレンツェのモノづくりの空気に「これだ。」と思い、迷いなくフィレンツェに留学することを決めたのです。
そして2003年にビーノ・ビーニ校に留学をし、サンマリノ共和国の貨幣原板も作ったマエストロでもあるビーノ・ビーノ氏に学ぶことになりました。
彼は活発な作家としても有名で授業は実践に近く、とても古い技術も教えてくれます。
留学はとても順調でした。そんなある日、フィレンツェで行われたある展覧会で運命的な再会を果たします。日本で開催された「フィレンツェの職人展」に来日していたジュリアーノさんでした。やがて彼女は彼の工房へ通うようになり、ふたりの距離も自然に縮まってあらたなお付き合いが始まりました。
留学生活もそろそろ終わりを迎えるころでした。ジュエリーフェアにて日本人企業の方と出会ってご縁ができ、その企業から内定をいただくことになりました。
充実した日々を過ごし、やりたいこともあったけれど、ここで就職をしたいとまでは思っていなかったという彼女は、2004年7月、こうしてイタリアを離れます。

ビーノ・ビーニ校の卒業証書
大好きな父との別れ。
タイのバンコクにあるジュエリー工場で働くことが決まり、新しいチャレンジを心待ちにしていたときでした。悲しい知らせが届いたのです。それは余命半年という父の癌宣告。愛する家族の悲報に頭が真っ白になりました。
バンコク勤務から東京オフィスでのジュエリーデザイナーに移動させてもらえたことで、家族みんなで父を支えることができました。会社の方にはとても感謝をしています。
父と一緒に過ごせた時間は、たった9ヶ月でしたが、家族は本当に濃密な時間を過ごしました。
夕飯後、居間のテーブルで必死にお客様のデザイン画を描く私をじっと見つめてくれていた父を思い出します。
幼い頃からやりたいことを自由にさせてもらっていましたが、いつでもそう優しく見守ってくれていました。
父の一周忌までの毎日、自分がこれからどのように生きたいのかと自問自答を繰り返しました。
父の死から約2年、後ろ髪を惹かれていたあの場所へ戻ることを決意します。
「自分の夢にもう少しだけ贅沢をしたい」と母に告げ、2006年フィレンツェに渡りました。
つくる、を仕事にする。
仕事にすることを強く意識して再びペルセオ校で学びながら、ジュリアーノに弟子入りをしました。
そして“売る物をつくる”という姿勢を徹底的に叩きこんでもらいました。
彼自身ずいぶんとファンタジックなデザインの物をつくったりしますが、いつも前提にあるのは「売るために物をつくる」でした。
それに学んで作業時間を厳密に把握し、なるべく早くつくれるように努力をしました。
またつねに売値を意識した作業計画を立て、技術を仕事に転換していくプロセスを身に着けていきました。


ジュリアーノさんのものづくり
2009年にふたりは30歳の年の差を乗り越えて結婚をします。
モノづくりをとても愛しているところと、我は強いですがその分素直に生きる彼に惹かれました。
翌年も嬉しい出来事は続き、彼女はフィレンツェ若手職人10選に選ばれました。
憧れていたこの町に認められた喜びと自信を手にすることができました。
そしてこの受賞を機に念願だった独立を果たし、2012年春に夫・ジュリアーノとともにM.G.を設立。
チェントロと呼ばれるフィレンツェの中心に工房を兼ねたショップをオープンしました。


『A&P YOUNG』フィレンツェ若手職人10選に選ばれる
伝統をつなぐモノづくり。
地元の人や観光客も立ち寄れる路面店を選びました。
彼は主に教会の聖杯や銀器そして壺などを制作し、彼女はアクセサリー類を担当します。打ち出しの技術ではまだ彼に及びませんが、いい意味でライバルになりました。
「打ち出し」を受け継いだことで頭のイメージがよりダイナミックに表現できるようになった、という真理さん。
巨大オブジェが好きで、それをジュエリーで表現したいと考えていた彼女にとって、この技法に出会えたのは本当に幸運なことでした。


お話をうかがっている時も「これ直せますか?」と、お店のドアが開きます。
「いろんな人が突然来ますよ。フルオーダーなど難しいリクエストもあって大変ですけどね」といいながらも楽しそう。
作品からはそんな彼女の前向きさが伝わります。
一番驚いたのが見た目からは想像できないほどの軽さと繊細な作りでした。
手に取るとすぐに分かるのですが、身に着ける人の気持ちに寄り添った優しい作品づくりに感動します。
相手の立場に立って物事を考える大切さは両親からよく言われていましたが、
より強く意識するようになったのは高校2年に経験した阪神淡路大震災だったそうです。
彼女の住んでいた西宮市は被害の多い地域でした。
毎日「人を助けられるのは人しかいない」という問いかけにうなずき、助け合い励まし合って困難を乗り越えてきました。
「どちらかといえば世の中は自分ではどうしようもない状況にいることの方が多いと思います。
だからそのことを自分なりに受け止めて前に進むことがとても大切だと思っています」と彼女は言います。


取材 山口絵美
■真理さんのホームページ http://mari-y-foglia.com