インタビュー&リポート

MIYAO YOSHIKAZU

宮尾 佳和 氏

アニメーションディレクター・BARNSTORM DESIGN LABO代表


イントロダクション

眩しいばかりのオレンジ色をチームカラーとする、JリーグAC長野パルセイロは、J2昇格にむけ、地域と一体となって戦っています。 そして、そのチームの公式キャラクタ-「ライオー」の生みの親が、宮尾さんです。
キャラクターの登場は、地域が一体となれるいいきっかけを与えてくれました。ここを起点として広がった交流はさまざまで、 今では町の文化や魅力にまで目を向けた広範囲の地域活性化にもつながっています。
作品づくりを通して宮尾さんがつかんだ大切なもの、そして作品にかけた熱い思いを聴いてみました。

宮尾 佳和 氏 プロフィール

長野市出身。武蔵野美術大学(視覚伝達デザイン科)卒業後、(株)NHKアートデザイン部に入社。
テレビグラフィックデザイナーを経てアニメスタジオに入社し、1年半後にフリーランスとなる。
現在はBARNSTORM DESIGN LABO代表として、アニメーション監督の他、CMの演出、さまざまな企画の立案、デザインの提案を行う。 またOCA専門学校講師など、幅広い分野で活動している。

<代表作> ●劇場版イナズマイレブン・TVアニメイナズマイレブン ― 監督
●JリーグAC長野パルセイロ公式キャラクタ- ― デザイン監修・プランニング


-絵はいつからはじめられたのですか。

まだ幼い頃からですね。
通っていた幼稚園に観音様の像があって、観音様を描いた思い出が残っています。
そのころから、もう落書き少年でしたね。

-当時、影響されたアニメなどはありますか。

幼少期だった70年代はヤマトやハイジなどの国民的アニメが放送されていて、すべてが刺激的でした。
機動戦士ガンダムのような、世界観に奥行きのある作品が出始めた時期で、作品の世界観を作ることも含めて、その世界に惹かれていきましたね。
中学時代、更埴市(現千曲市)のなかに、東京で放送 されているテレビアニメが唯一映る場所があり、わざわざバレーボール部の活動が終わってから行ったりと、わりと身近にアニメがありました。
アニメブームの始まりに育っていなければ、きっといまの職業にはついてなかったでしょうね。

リベルタス千曲FC公式マスコット「将軍リーベ」。
長野県千曲市・将軍塚の森将軍から大和タケルとシルエットを「ねずみ大根」のねずみをイメージ。頭の王冠に坂城町の刀剣と千曲の森、アンズの花も。

For 九州。熊本地震を応援。

-“将来、アニメ・漫画の世界をにいこう”と考えていましたか。

体を動かすことも好きでしたので、小学校時代は少年野球をして余った時間で絵を描いたり、中学時代はバレー部をしながらイラストクラブにも入っていました。ただ高校では、自分のスポーツレベルでは通用しないなと感じたので、冷静に見切りをつけ、将来「絵」で何かを成していく方向を選択しました。なので、長野南高時代は漫画研究同好会で部長を務め、年4回の連載漫画作成と、商業誌の漫画賞に応募をしていました。
2年生のとき雑誌の“少年サンデー”に応募して3次まで行ったんですが、結局は落ちて、来年こそはと考えていました。
ところが3年生のときの、全クラス対抗のスポーツクラスマッチでバレーボールに出場したとき、体調が悪かったのに優勝してしまい、無理がたたって2カ月も入院してしまったんですよ。
じつは大事な投稿作品に挑んでいる最中で、入院中も続きを描いていましたが、これ以上無理をしたらまずい状況だったので、投稿は諦めました。美術の大学をめざすことに決めていたので、進学のための時間を優先することで、おのずと漫画の夢は諦めざるを得ませんでした。

▲宮尾さんの作品:MIOびわこ滋賀公式マスコットキャラクター

-その後は、どうされたのですか。

主にアニメを描いていた自分には、デッサン力の壁が立ちはだかり、上京して美術専門予備校で1年留年することになります。でもその1年間で、画面構成やデッサン力をみっちり勉強することができました。自立という意味でも、自分にとって大事な1年になりました。
大学に入ってからの3年間は、将来のことは忘れて、今やれることをやろうと自由なことをしましたね。
彫刻や写真、造形作品など、いろいろなことにチャレンジして感性を磨きました。そして4年生からは、いよいよ現実を見つめての就職活動となり、NHKアートに就職をしました。テレビグラフィックデザイナーとして採用され、クローズアップ現代などの報道番組を担当しました。政治家の顔を切り絵で表現したり、キャスターが持つフリップを作成していました。もちろん映像制作もありましたよ。入社した当時はまだMacがなく、そのため手描きが多く、タイトル作成は全てそうでしたね。デザインといっても、クリエイティブな内容だけを問われる世界ではなく、とにかくスピードと正確性が求められました。泊まり業務も多く、忙しいのは当たり前でした。今まで経験したことのない苦労をしましたが、3年半サラリーマンとして働くことの厳しさを経験できたことは、自分の財産になっています。

-NHKアートでのお仕事は充実されていたように感じますが、そこから、どのようにしてアニメーションの道に進まれたのですか。

仕事をこなせるようになってきて、ふと思ったんです。“これは自分のやりたいこととは違う”と。
アニメーションでは食べていけないと誰かに言われたことがあって、それで親を安心させたくて大学もデザイン科に進み、NHKアートにも就職しました。その選択を後悔しているわけではないですが、やりたいことに正直にならなければ、楽しさもないし身にもつかない、という結論に達して退社して、アニメーションの世界に飛び込みました。
あるとき、絵の管理を含めたゲーム(全体)を作成する声がかかったんです。
「Kitty the Kool! カブキでたのしくおどってね!!」というキティちゃんを扱ったゲームで、キャラクターの描写がサンリオさんに好評価をいただき、自分の中でも自信になった作品です。
そうやって一つずつ何かを達成していくと、こんどは次の目標や具体的にやりたいことが出てくるんですよね。
それからです。“自分でやりたい作品を選び、より作品にこだわりたい”と思うようになり、27才で独立をしました。

-フリーになられ、本格的なご自身の作品づくりがはじまったのですね。

フリーなので、仕事をもらうこと自体が大変なことです。はじめは自分を知ってもらうために、デザインやイラストなど依頼があればなんでもやりました。そんななか、ガンダムシリーズの新作で“ターンエーガンダム”というテレビアニメにメカデザイナーとして携わることができたんです。幼いときに憧れた、自分の原点ともいえるアニメの仕事です。
それはもう、嬉しかったですよ。
その後、演出の経験を積んでいき、少女漫画誌“はなとゆめ”の原作付きテレビアニメで監督デビューをし、“イナズマイレブン”と“マギ シンドバッドの冒険”を手がけることになります。
デザイナーから演出家へ転身できたときです。

-監督というお仕事は、どうでしたか。

シナリオからスタートして、絵コンテなどすべてを監督していくわけですが、この職業を何かに例えるなら「千人以上のスタッフをかかえる工場長」のような感じでしょうか。
監督業は個人作業だけでは成立しない、なによりスタッフワークが大切だと感じました。
みんなをまとめるテクニックがとても重要で、いかにスタッフに気持ちよく、疑問を抱かせずに仕事をしてもらうか、なぜこれをやるのかという強い根拠や説得力など、自分のボキャブラリーが求められました。ただ自分はこれが一番苦手 だという意識があったので、当初はとても苦労しました。
原作をもらい、そこからイメージをどうもてるか、監督の創作力も問われます。
魅力を引き出し、映像にどう伝えられるか。見る人の感動を裏切らないようにするのが大変です。
誰もが『これだ!』と感じられるストライクゾーンを見つけるために、作品の格、中心、幹を間違えずに捉えることが大切で、捉えられなければ作品は作れません。

監督を務めた“劇場版イナズマイレブン”は、来場者が100万人を超える大ヒット。

イナズマイレブンの絵コンテ

“マギ シンドバッドの冒険”

-サッカーチームのJリーグ・AC長野パルセイロの公式キャラクター「ライオー」くんも手がけられているのですね。とても躍動感がありますね。

イナズマイレブンがきっかけで、AC長野パルセイロ応援団の方から声をかけていただきました。イナズマイレブンの仕事が終わり、私も時間に余裕ができ、ちょうどその周辺の社会にも目を向けていこうと考えていたタイミングでした。
イナズマイレブンがなければライオーくんの作成はなかったわけで、感慨深い仕事になりました。
ライオーくんの誕生に関わった者として、少しだけ誕生秘話をお話ししましょうか。
当初、ライオンをモチーフにすることだけは決まっていたのですが、すでにこのジャンルでは「ジャングル大帝のレオくん」という大先輩がいます。デザインしたときに「レオくんに似てるね」と言われたらアウトなわけで、どう差別化をし、 独自の雰囲気を持ったキャラにするかを重要視しました。
あとはスポーツに関わるマスコットということで、「ゆるキャラ」の方向ではなく躍動感のあるシャープなシルエットをめざすことを考えました。トップチームに「ライオー」、レディースチームに「パルル」とそれぞれにマスコットが存在 しますが、並んだときにどちらもひけを取らない平等な存在にしたかったので、あえてパルルをライオーのお姉さんという設定にしました。

Jリーグ・AC長野パルセイロの公式キャラクター「ライオー」くん

パルセイロ・キャラ提案メモ

-ご自身の作品が、地元との懸け橋になっていると感じます。とても素敵なことですね。

ありがとうございます。キャラクターづくりを通しスポーツを応援し、地域も応援できる。ほんとうに嬉しいことで、自分の人生に深みが増した気がします。
AC長野パルセイロのホームは長野市で、私が18年間少年期を過ごした地元にあります。
東京に住んで30年目になりますが、地元との繋がりを強く考えるようになりましたね。仕事も落ち着き、こうして地元のことに目を向けられるようになったことは、幸せなことです。
これからはスポーツ選手の似顔絵を描いたり、たくさんの感動を「絵」にすることで記憶に残し、サッカーファン以外の方にもアピールしていければと思います。
ほかでは、地元のプロバスケットボールチーム「ブレイブウォリアーズ」のイベントにも似顔絵コーナーで出展し、たくさんの方に来場をいただきました。今後は似顔絵目的でも現地に足を運んでイベントに参加していただいき、いっしょに盛り上げてもらえたらうれしいです。そして、できれば「運営側」、「サポーター(ブースター)」、「一般のお客さん」の“それぞれがよい関係になるにはどうしたらよいか”という視点を忘れないことも重要です。
アニメーションの世界で培った「現場論」にも通じますが、「三方良し」でなければ継続はできないし、大きく発展するのは難しいです。もちろん、その上で楽しくないと意味がありませんよね。
また、今後の目標としては信州全体のスポーツ振興の活動も取り組んでいきたいですね。
その一環として「信州スポーツ!一刀両断」というウェブLIVE番組内で、毎週ゲストで来られるスポーツ選手の似顔絵を担当しています。全国的な展開を視野に、できる範囲ですが広げていければと考えています。
応援宜しくお願いいたします!!

パルセイロ文化祭には宮尾さんの作品が展示され、大勢の人が集まりました。

地元商店街(長野市篠ノ井)になびく応援旗。

そして地域お祭りのシンボルの大獅子マークもデザイン。

-それと、地元にツリーハウスも建設中とお聞きしました。

はい、そうなんです。人が集まれる交流の場として、長野市内の中山間地に建設中です。
今の時代、都会でも田舎でも携帯ゲームが流行って自然との接点が希薄になって来ている現状があり、こどもたちに自然の大切さを伝える道具になればとも思っています。「伝わりにくいものを伝えていく」ことを大事にしなくてはと考えています。
それで思い出すのは、大学のときに参加した“子供の工作+町づくり”がテーマのワークショップです。
現地のご年配の方々からお話を聞き取り、昔の町を絵にし、そこに布を切り貼りして大きな「布絵」をつくり、こどもの日に飾りました。それを見にきた家族の姿に、時代をつなぐ大切さを感じました。
“昔と今をつなげて未来をつくる” ずっと私が思っていたことで、町の文化や魅力に目を向けて繋げてきたいと考えています。
大勢の人が関わるとなかなか難しいところもありますが、頑張ります。

宮尾さんが描いたツリーハウスのイメージ図

少しづつですが形になってきました。

アニメやキャラクターがきっかけとなって、これまで関心がなかった方々も興味をもってくれたなら。
そして、街がもっともっと活性化できるなら。入り口は楽しい方がいいし、その入り口は多い方がいい。
それぞれが気になる入口を見つけて、新しい場所に出かけてみたら、何か発見や喜びがあるかもしれませんね。
宮尾さんの次回作に期待しています。


取材:山口絵美

● 株式会社バーンストームデザインラボ http://barnstorm-design-labo.com