
目次
第八回
向島の寮
灘屋が扱う酒は年々増えていた。
主力は市右衛門の兄、正右衛門が安芸の三原で営む蔵元、福嶋屋からの下り酒である。
酒造場も酒蔵も瀬戸内の海沿いにあり、海に注ぐ沼田川の源流にブナの原生林をもつ貴重な清水が、ことのほかよい酒を醸し出してくれた。
ほかにわずかだが、大坂の伊丹からも、鴻池村の木綿屋庄左衛門が造る評判の「男山」や名酒とされる「七ツ梅」も取り寄せていた。
ただ、江戸にて急速に高まる下り酒の需要を考えたとき、下り酒醸造地として筆頭の地位にある伊丹にしろ、次につづく池田にしろ、海からはいささか遠かった。つまり回漕の便と利とを考えれば、海寄りの酒処から買い求めるほうがよかったのだ。
それゆえ丹蔵たちは、早くから播磨に着目してきた。
なかでも、伊丹の雑喉屋文右衛門が寛永年間(1624―43)に西宮に移り住んではじめた諸白、のちの灘の生一本がとくに有望と思われた。
播磨は、夙川の伏流水と六甲山系の花崗岩を通って降りてくる真水に、わずかに海水が混じりあった独特の水源を有していた。醸造技術に長けていると評判の雑喉屋がわざわざ移り住んだだけあって、醸される酒の質は高い。
しかもここでは精米に水車を用いて、酒造りの効率を上げていた。
灘屋にとってありがたいのは、播磨は兄のいる安芸の三原から瀬戸内を大坂へと回漕する途上にあったことだ。平清盛が拓いた兵庫の湊は喫水の深い天然の良港で、江戸へ廻漕するのにいったんは陸路で大坂へと運ばなければならない伊丹や池田より、二、三日も早く着いた。難渋しながら陸上をたどる、馬や人足たちの費用もかからない。
なにより、輸送の便が抜きん出ていた。
灘屋では酒造米から想を得てこれを「播州」と命名し、江戸で納めた相手先から喝采を博していた。
すでに酒専用の樽廻船が、菱垣廻船に取って代わっていた。
はるばる江戸湾へとたどりついた播州は、品川沖ではしけに積み替えられて新堀川を遡上し、灘屋の船着場にて手代たちによっててきぱきと仕分けされる。
やがて、待ちかねた大名家や旗本家、商家、料理屋、さらには浅草の「山屋」や「大和屋」、品川の「りう谷屋」などの主だった小売り酒屋のもとへと運ばれていく。
次の便船が到着するまでの取り置きの酒は、新堀川沿いに建つ二つの外蔵と屋敷内の三つの内蔵、さらに隅田川を上った別の蔵にも分散された。
つねに火災の危険が付きまとう江戸で、一度にすべてを失うわけにはいかないからだ。
それが、灘屋の向島の寮であった。
広い敷地を利用して三戸前の酒蔵をもつ向島の寮には、寮番の才蔵がおり、仲也が補佐役を任じていた。
昼日中、彼らが江戸店に顔を出すことはない。
大川左岸に広がる向島一帯は、見わたすかぎりに田と畑がつづいている。
空の青と、瑞穂の緑がうつくしい。そこかしこに小さな雑木林を背にして、農家が点在していた。
灘屋の寮では、曳船川から引いた水路のそばに三戸前の白壁蔵が建ち並び、母屋はやはり後ろの雑木林と竹林とで、秋の野分きなどの強風から守られていた。
前は一面の田んぼで、遠くの侵入者もひと目で判別できるようになっている。
カーン。
カキーン。
蔵の一つで、一刻ばかりも固い木と木が撃ちあう烈しい音がつづいていた。
厚い土壁をもつ蔵のなかゆえ、音が外に漏れることはない。
汗まみれの仲也の撃ち込みを才蔵が交わし、ときに芯で弾き返し、ときに柳のごとく滑らせていく。型稽古はあくまで稽古にすぎぬとする才蔵だから、実戦そのもの、一見なんでもありの攻撃と防御の応酬であった。
才蔵の得物より二寸は長い樫の棒で、ときおり仲也が膝がしらを狙うが、才蔵の身体の軸はどうあってもぶれることがない。
間合いが離れたとき、ふと、才蔵が構えを解いた。
「どうなされました、才蔵さま」
「今朝はこの辺りにしておこう」
仲也がたちまち、威儀を正した。
鍛錬の始まりと終わり、師弟の呼吸は見事に合っている。
「仲也、今日あたり、新堀河岸から清四郎がやって来そうな気がする」
「お報せがありましたか」
「いや、そうではない。いつもの、ひらめきだ」
「泊まっていかれましょうや」
「おそらくな」
「では後ほど、畑にまいって夕餉の菜を整えてまいります」
「そうじゃな。ここには酒は売るほどにあるでな。夜ごと下り酒が添い寝してくれておるのじゃから、これほどの果報者はおるまい。人付き合いなどの面倒なことは免ぜられ、こうして好きなことだけをして暮らせておる。それでもな、市右衛門さまたちの手紙をたずさえてやってくる清四郎を囲んで一献酌み交わすのは、無上のたのしみじゃ。なあ、仲也」
師のいかにもうれしそうな横顔を眺め、弟子はぜひともそうあってほしいと願った。
果たして清四郎は、正午前に寮の門をくぐった。
「待ちかねたぞ、清四郎!」
あぜ道を横切ってくる姿を遠くから認めていた才蔵は、清四郎が一歩足を踏み入れたところで古武士のように大音声を張り上げた。
「才蔵さま」
「よう来た。若は、お元気か」
「はい、息災にございます」
「丹蔵どのも、か」
「はい、みなさまお変わりなく」
「お会いしたいのう」
そのときちょうど脇の枝折戸を開けて、仲也が両手にざるを抱えてもどった。
大ざるが、根に土をつけたままの野菜で溢れそうになっている。
畑にうずくまっていた仲也も、とうに清四郎の姿を見つけていたようだ。
「清四郎さま、お久しぶりです。しばらく常陸に行っておられたとか。常陸といえば、武芸の神様をお祀りする鹿島神宮のおわすところ。あとで話をお聞かせください」
やさしく相槌をうった清四郎は、手土産に持参した包みを振った。
軽く塩をすり込んだ鴨肉は、才蔵たちの大の好物である。
ところで仲也、と清四郎がまじまじと相手を見つめた。
「たいそう腕の張りが見事だが、よほどに励んでいると見える。あとで私にも手合わせを願えるか。才蔵どののもとで日々精進しておられるゆえ、もはや歯が立たぬかもしれぬがな」
清四郎から、商人言葉が消えている。
「滅相もない。清四郎さま、さ、ひとまずは奥へ」
才蔵はとうに、母屋に消えていた。
念のため、清四郎は後ろを振り返った。
見通せるかぎり、人の気配はない。
清四郎はいつも、要所要所に繋留させてもらっている小舟を乗り継いで、向島にやってきていた。
新堀河岸の店を出てしばらく、目の隅に映じていた目明しの姿はとうになかった。
田んぼの向こうで、鬼やんまの舌打ちが聴こえるようだった。