わい
わいがや倶楽部

たぶん、サイトで初めての、
連載時代小説。

第六回
不意の客

「どうでえ、商いのほうは」
  案内を乞うでもなく、いきなり灘屋の上がり[かまち]に腰を下ろして帳場に顎をしゃくったのは、みずから町廻りを買って出ている南町奉行所同心の戌井謹之助だった。
  梅雨が明けてからこっち、本格的な夏を迎えて、もう十日以上もお湿りがなかった。
  砂埃が容赦なく吹き付けるから、丁稚たちは朝から交代で荷揚げ場の石段に向かい、川沿いの犬走りから水を汲みあげては、通りに水を[]いていた。
  小さな身体に水汲みは重労働だ。
  片手に水桶を下げ、もう一方の手で柄杓[ひしゃく]のけら首を握りしめたまま門口でひと息ついていたら、ばたばたと慌ただしい雪駄の音が近づいて、邪魔な荷物をどかせるように役人が小僧を押しのけた。
  あ、あ、あ、と声を発した小僧の手から水桶が転がり落ちて、余った水が地面に流れ出す。が、役人は気にも留めない。小僧を目の端に留めるどころか、店先に積み上げられた酒樽ほどにも注意を振り向けなかった。
  それどころか、乱暴に組み合わせた膝がしらにぐいっと房付きの十手[じって]を立てかけて顎を乗せ、くすんだ地黒の顔で、もうぐるりとあたりを見回している。
  傍らには、近ごろ戌井が連れ歩く目明しが控えていた。
  うっかり両方に目が合って、見習い奉公のお千代はお[いで]なされませと辞儀をするなり、すっ飛んで逃げた。
「これはまた戌井さま」
  すかさず帳場から、二番番頭の忠三郎が駆け寄った。
    茶の用意を命じ、そつなく不意[ふい]の訪問客に向き直る。
「よう、お越しくださいました。と申しましても、夏の盛りの酒問屋は至ってのんびりしたものでございます。あいにく主人も筆頭番頭も留守をしておりますが、よろしければお上がりくださいませ」
  そうかい、なら邪魔するぜ、と戌井は大股で上がり[かまち][また]いだ。
  手代に客間への先導を命じた忠三郎は素早く帳場へと立ち寄り、なにやらさっと紙に包んで追いかける。
  一瞬だが、金銀[かね]と金銀とが触れ合うような音がした。
  その音に、急に室内へと飛び込んで、糸のように細くなっていたはずの目明しの目が、ぱっちりと見開かれた。
  この男、「鬼やんまの権次」などと二つ名で通しているものの、戌井から手札を預けられてまだ日が浅く、親分と呼ばれるには年季も貫録もまるで足りない。呼びかけるほうさえ気恥しさがつきまとうほどの軽さだ。
  それでも戌井の手下[てか]だけあって、金銀の音色にだけは、めっぽう耳ざとい。
  奥へと急ぐ二番番頭の背中を、にやにやしながら広土間から目で追いかけている。
「へっへっへ、これで三軒め」
  いただきやしたよ、いただきやしたと、なにやら鼻に抜けた声で歌いはじめた。妙な節まわしに、よくよく耳を澄ましてみれば、
  ――へえ、黄金[こがね]色なら旦那の[たもと][にぶ]いほうなら、わっちの袂。気がもめるったら気がもめる、などと聴こえてくるから、妙な男である。
    いずれ紙包みの中身の行き先を案じているのだろうが、そのうち声も振りも大きくなって、
「あっちかえ、こっちかえ」
  旦那のもどりを待つ以外にすることもないから、右へ、左へ、ありもしない振袖をひるがえしては、鬼やんまの両の指が娘のように舞っていた。

  権次は十手を下げ渡されてからこっち、飯の種を探してずいぶんと市中のお[たな]に顔を売ってきたものの、そういえば下り酒問屋を訪ねたことはなかった。
  気温の高い夏場は発酵が進みやすいのはいいが、そのぶん雑菌も繁殖しやすく、冬場の寒の時期ほど酒の味はよろしくない。
  上方から出来たばかりの新酒を積んだ船がやってくるのは木枯らしの吹くころで、夏から秋にかけてのこの時期の酒は世間で、
「萩の花盛りはよき酒なし」
  などと一段も二段も低く見られている。
  それでも目明し風情ではめったに口にできない下り酒の上等な香りが、いやがうえでも鼻孔をくすぐる。
  らちもない踊りは、さすがに長くはつづかず、しだいに権次の鼻が空を泳ぎはじめる。
  見ればよだれを垂らしそうな品のわるさだ。いまでは、すうすうはあはあ、はっきりそれとわかるほどみっともない音を立てている。
  恥ずかしいほどに正直な男である。
「こいつあ、堪らねえ」
  せめて背筋を伸ばせばいいものを、框からひょいと腰を浮かせた横着[おおちゃく]な姿勢のまま、こんどは土間の暗がりを彷徨しはじめた。 
  灘屋は一部の顧客をのぞいて[たな]売りはしていない。
  とはいえ小売り酒屋の手代たちがときには向こうから仕入れに来るし、名ある料理屋の主人や板長たちも[]き酒に詰めかけるから、つねに上等の酒の用意がなされている。
  権次の鼻先が、酒の在処[ありか]へと向かう。
「香りの主は、こっち、かえ」
  人気[ひとけ]がないと見て、とうとう我慢がならなくなったのだろう。例の中腰のまま、猪みたいに頭から暖簾に突っ込んだ。
  途端、ゴツンと激しい音が返ってきた。
  権次のでこぼこ頭と、向こうから進んできた小頭とが、暖簾を挟んでみごとに鉢合わせたのだった。
「ぐわっ。な、な、なんて[かて]え頭をしてやがる……」
  不意を突かれた権次は頭を抱えたままずるずる後ろに下がってへたり込み、呼吸を整えたあとあらためて前を見て、へっ、と拍子抜けしたようにつぶやいた。
「なんでえ、子どもじゃねえか」
  ところが、へたり込んでいる権次のまわりを、こんどは子どものほうが半円を描くようにしてゆっくり旋回しはじめた。
  濃紺のお仕着[しき]せに、首から茶色の前掛けを垂らした、丁稚の伍吉だった。
「へええ」
  丁稚がまじまじと目明しを見つめている。
「な、なんでえ、おめえ。おれの顔になんぞ付いてるかえ」
  伍吉は答えるでもなく両手に[ほうき][]を握ったまま、食い入るようにして権次から目を離さない。
「おいおい、なんでえ。見りゃまだ餓鬼[がき]のようだが、おめえ、ずいぶんといい図体をしてやがるな」
「それより、おじさん」
「お、おじさん……ってか。この鬼やんまの親分をつかまえて、おじさんはねえだろう。それも言うなら、親分さんとか、お[あにい]さんとか……」
「おじさんの太い眉に[はえ]が止まっているよ」
  言われて権次は慌てて手で払った。蠅はなおもうるさく目のまえを旋回して、やっと通りへと逃げていった。
「あはははは、親分もお兄さんもないよ。だって、自分の眉の上に蠅がいるのもわからないんだから、おいらとあんまり変わらない」
「じょ、冗談言っちゃいけねえ。この権次さまはな、お奉行所の戌井の旦那にどうしてもと頭を下げられて御用聞きなんぞをやっちゃあいるが、これでもちょいと名の知れた髪[]い床の亭主だ」
「なら、おかみさんに食べさせてもらっているんだ。ますますおいらと変わらない」
「おめえ、いちいち言うことが[かん]にさわるね」
  口ぶりとは裏腹に、権次は怒っていない。暇つぶしにちょうどいい相手があらわれた格好だ。
「ひょっとして鬼やんまが鼻に止まっても、気がつかない?」
「ちょっ、口の減らねえ小僧だぜ。まあいい。そこに坐んねえ」
  権次は戌井の口ぐせを真似た。
  先代が思いがけずぽっくり逝って、ところてんのように押し出されてあとを継いだはいいが、とりたてて探索や捕り物に見込みがあったわけじゃない。
  他に人がいなかっただけの、親分である。
  世間の目明しのように、とことん人の弱みに付け入る悪党ではないものの、いかにも根が小者で、ただ金銀と女の匂いにだけ敏感な男だった。

  帳場の右手奥の座敷では、二番番頭の忠三郎がひと癖もふた癖もある同心と向かい合っていた。
「今日はまた戌井さま、なにか格別な御用でも」
「そういちいち戌井、戌井と[]えねえでくれ。おれは犬が嫌えなんだ。ところでな、格別に用があるってもんでもねえんだが、おめえたち下り酒の仲間内のことで、ちと聞きてえことがある」
「はい。もちろん、なんなりとお答えいたします。ですが、ご同業のこととなりますと、やはり私どもよりもっと身代[しんだい]の大きい……」
「なんでえ……なんなりと答えると、いま言ったばかりじゃねえか。それともなにかあ、おめえは奉行所のおれに、伊丹屋や摂津屋あたりに出向いて聞き直してこいと、そう指図[さしず]しているのかえ」
  戌井が口を尖らせた。
「抜かしやがるぜ」
「こ、これは申し訳もございません。毛頭、そのような」
  一旦は逃げたはずのお千代がおそるおそる茶を運んできたら、南町の同心が派手にあぐらをかき、目の前で灘屋の二番番頭がしきりに頭を下げていた。
  縁あって行儀見習いに来た娘だが、戌井を怖がるのも無理はない。まだ十二歳の子どもなのだ。
  ついにひと言も発せず、さっさと茶を供したら、逃げるようにして立ち去った。
  片の頬に苦笑いを浮かべて、戌井は音を立てて茶を[すす]った。
  熱いものが苦手なくせに、熱い茶を好む。
  茶はお吸物ではないのだが、口をすぼめて茶碗の縁からずずずっと派手に吸いあげたら、いかにも熱そうに、こんどはそれを巻いた舌に転がしてころころと音を立てた。
  かねて町奉行が言い当てたように、この男には他人[ひと]によく思われようという気などさらさらない。忠三郎が口を利くのははじめてだが、相当扱いにくい男のようだった。
  戌井が忠三郎に向き直った。
「まあいい。ところでおめえ、名はなんて言う」
「はい、忠三郎で」
  戌井の声は低く、野太い。
  やっとうの気合で鍛えた迫力のあるものだ。
「おい、忠三郎。はっきり言おう。下り酒問屋の河内屋のことで、おめえ、なんぞ耳にしちゃいねえか」
「河内屋さんがどうかなさいましたか」
「ちょっ。二年前に河内屋の荷を積んだ船が難破したとき、上方の酒を融通[ゆうずう]してやったのは灘屋だと聞いているぜ」
「さようでした。困ったときは相身互いだと、うちの筆頭番頭が申しまして」
「で、その後、河内屋の商いは立ち直ったのか」
「そうしたことは、私どもではなんともわかりかねます。おそらくはしっかりと……」
  手をひらひらさせて、耳をよこせ、と戌井が忠三郎を招き寄せた。
「妙な噂を耳にしてな……河内屋のここんところにな、[とど]めを刺そうとする奴がいるらしい」
  戌井は忠三郎の心の臓のあたりを[こぶし]で突いて、ぐりぐりさせた。
「まさか、そのようなことが……」
「あるから言ってんだ。なきゃあ、こんな海のそばまでだれが足を伸ばす」
「わかりました。で、どのように致せばよろしいので」
「なんぞ動きがあったら、すぐに知らせろ。南茅場町の大番屋にでも言い置いてくれれば、日を見ておれがやってくる。いいか、間違っても呉服橋なんぞに駆けつけるんじゃねえぞ。いいな、かならず、このおれに知らせるんだ」
  念を押すなり、刀を手にしてすっと立ち上がった。あっという間で、忠三郎が口を挟む余地もない。
  もとより袂に触れる間もなかった。

  鬼やんまの権次は土間で、まだ丁稚の伍吉としゃべっていた。
  すっかり調子が上がっている。
「この権次お兄さんの手柄話をな、一から聞かせるとなりゃ、とても半日やそこらじゃ語りきれねえ」
  膝をぽんぽんと叩いたところに、奥から旦那がもどってきた。
「おい、権次お兄さん」
  草履を突っかけながら、同心は振り返りもせず目明しに[たず]ねた。
「いつおれが、手下[てか]になってくれと、おめえに頭を下げた?」
「へ?」
  途端[とたん]、権次はおもわず口に手をやり、みるみる背中が伸びた。
「ですよねえ、旦那」
  一旦は伸びあがった背骨が、すぐに前へと極端に折れ曲がり、
「へえ、そりゃもちろん、あっしのほうからぜひにもと旦那にお[ねげ]えして、こうしてやっと十手[じって]を……」
  伍吉が呆気にとられている。
  戌井にぺこぺこしながらも権次は横目づかいに伍吉を見やり、にんまり、片目をつぶってみせた。