わい
わいがや倶楽部

たぶん、サイトで初めての、
連載時代小説。

第三十七回
最終章

  近くの浜辺で[ささや]く声があった。
「旦那、踏み込まねえんで」
  上ずった声は、鬼やんまの権次のものだ。
  が、黒の巻羽織の上から、首筋を布地でぐるぐる巻きにした同心戌井謹之助は、成り行きを凝視したまま動く気配すら見せない。
  権次はいまだに、この町廻りが好きな同心のことがよくわからない。
  知っているのは、上役からどう咎められようと、他人[ひと]からどう後ろ指を指されようと、しらっとして気にも留めない戌井のひねくれた性分だ。
  たぶんこのお人は、だれかのことを想ったり、だれかのために悩んだりした経験がないのだろう。
  剣を遣えば相当な手練[てだ]れであることは知っている。が、人の情を持ち合わせない酷薄な男だとも思っている。
  だから、役目のために身体を張るなんざ、まっぴら御免のようにも見える。
  が、それでも戌井は奉行所の役人なのだ。
  かくいう権次も、腕まくりに襷掛[たすきが]けまでして、いかにも討ち入りに出かけますといった勇んだ[]で立ちだが、言葉の勢いに反して腰はぐっと後ろに引けている。
「うるせえ男だ」
  十手ばかりが前に出て、亀のように形ばかりの出し入れをする権次の首根っこをぐいっと掴んだ戌井が、うだうだ言うねえ、と抑えつけた。
「やい、権次。こんな[ひな]びた魚[くせ]えところが、奉行所の管轄であってたまるかえ」
「はて、そうでしたかい」
  権次なりに張り詰めていた気持ちが、一気にゆるんでいく。
  もともとゆるみっ放しの顔をさらにだらしなくさせて、いまさらながらに戌井を見つめた。

「考えてもみろ。かりにおれがあの主従を打ち負かしたとしても、与力になれるわけもねえ。俸給は相変わらず三十俵のままだ。どうにも割が合わねえ」
「そりゃ、たしかに。でも旦那……」
  権次はなおも不服そうに、同心の袖を引いた。
  その手を、戌井が邪険に振り払う。
「やりたきゃ、おめえ一人でやんな。そのために手札を預けてる」
「旦那あ、そんな[むご]いことを」
  戌井が立ち上がり、着流しの裾を払った。
  権次も慌てて、足先で砂を掻き分けて脱ぎ捨てた草履を捜す。
「それとも手札を返すか」
  はあ。
  ぽかんとして、声にもならない。
[けえ]るぜ、おれは……」
「ちょ、ちょ、ちょっと旦那、待ってくださいよ」
  なんとも張り合いのないことになった。
  こうなったら、一人置いていかれるのだけはごめんだった。
  が、待ってくれと願って、わざわざ立ち止まってくれる旦那でもない。
  草履は見つかったが、気が[]いて、片方の指がしっかりおさまらない。

  なにをぐずぐずしてやがる。
  背中ごしに手先を一瞥[いちべつ]し、戌井がぶるっと肩を震わせた。
「冷えるぜ、海は」
  前方の闇に白く長い息を浮かび上がらせながら、おおう寒い、とひと言。
  大仰な身ぶりで羽織の襟を[]き合わせると、戌井は後ろも見ずに砂を蹴ってずんずん歩き出した。
「……こいつあ、いけねえな」
  戌井の背中から風に乗って、大きな舌打ちが聴こえてきた。
「かならず落としてやると決めた相手が、だんだんと好きになっていきやがるぜ」