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第三十五回
七福丸の最期
沖にゆらめく異様な炎と、そこから一直線に延びてくる光の筋さえなければ、鉄砲州のあたりはごくごくありふれた、いつもの静かな漁村の光景がひろがっていた。
おだやかな波がくりかえし打ち寄せる浜辺には、うつ伏せにされた漁船が並んでいる。
魚が腐ったような強い臭いのなかで、しかしこの夜は、船の腹に腰を下ろし、儀助たちの船が浜にもどりつくのを待ち構える怪しげな一団があった。
儀助たちの始末を平岩屋から依頼された、平蔵以下の面々だ。
しかしかれらも、まさか、儀助たちが誤って雇い主の船に火を付けたとは思っていない。
平岩屋はわずかな
「さて、どっちに向かいやがる」
船を出した鉄砲洲のあたりには、町屋がつづいている。
儀助たちが乗る船は、人目を避けるためだろうが、おもいのほか西南の方角に向かっていた。
「奴らが戻りの船を着けるとしたら、浜御殿から西、新堀川から高輪の大木戸までの間だ。おそらくは芝浜あたりだろう」
平蔵が断じた。
海に面した高輪あたりは、夜の暗さが半端じゃないが、奴らを始末するには格好の場所だ。
「先生方、急ぎやすぜ」
平蔵らにしたがって、五人の腕利きの浪人が駆けた。
儀助は途中まで、完璧に仕事をやりおおせたと確信していた。
が、最後のところでみごとに
敵を片付けるどころか、味方の船を燃やしてしまったのだ。平岩屋はどうあっても、この失態を赦さないだろう。
しかも捕まれば、間違いなく死罪だ。
儀助は荷船にうずくまって、いまは逃げ延びることだけを考えていた。
思いとは裏腹に、船は
海から臨む岸辺は、海上の炎に照らされて、ぼんやりと背後に連なる寺々の屋根を描き出している。手前にうっすら白く見えているのが、芝浜の砂地だろう。
気になるのは、おなじ船にいる浪人たちの出方だ。
さっきから一人が、しきりに舌打ちを繰り返している。
儀助は険悪な空気を感じていた。
そうはさせられない。
生き延びることが先決だった。
刻一刻、めざす浜が近づいている。
肚を決めるときだった。
案じたとおり、下船するなり、浪人二人が儀助を挟んだ。
「後金を払ってもらおうか」
片方が迫ってきた。
三吉は背を向け、聴こえぬふりをして耳をそばだてている。
「首尾がどうだったかは知らない。が、おれたちは約束しただけの仕事はしてのけた」
さっきまでの味方が、こんどは殺意を含んだ敵に変わろうとしていた。
浪人者二人と同時に対するのは、場慣れした儀助にしても分がわるい。
時を稼ぎ、隙を見て、どこかで順に始末するしかなかった。
「
「どこならある」
「女の
儀助は練っていた。
お柳に託した四十両だけは、なにがあっても渡せない。
「夜の浜は、この冷えだ。
浪人の一人が冷たく鼻でせせら笑った。
「なら、仲良くいっしょに待ってやろう」
こいつらは、どこまでも食らいついてくるに違いない。
どうしてくれるか。
悪だくみに
しかし海から大川に漕ぎ入ろうとすれば、河口に向かって解き放たれた大河の奔流をまともに受けて、どうあっても船体が激しく揺れる。
熟練の船頭でさえ、一番気を抜けない難所なのだ。
やるとすれば……。
そのときをおいて他にない。
大波に翻弄されている船のなかでは、一度に斬りかかることができないし、そもそも剣術自体が役に立たない。ついさっきも、船端に取りすがろうとした水主を追い払うのに、浪人はかなり難渋していた。おそらく、立ってもいられないだろう。
荷船には、つねに予備の
そいつで、じたばたする奴らの足もとを力まかせに払えば、ひとたまりもなく河口の渦に呑み込まれていくことだろう。
いずれ沖へと流されて、あとかたもなく消える。
儀助は、
「いいだろう」
言い終わるや沖で、ひときわ高く、天に向かって火柱が舞い上がった。
つづいてゴオーッ!と、沈みゆく七福丸の断末魔の叫びが届いてきた。
襟を掻き合わせて、三吉がおもわず耳を覆う。
時が止まったかのようだった。
轟音が消え、それからゆっくりと船は、沈んでいった。
この世の終わりを見たようだった。