わい
わいがや倶楽部

たぶん、サイトで初めての、
連載時代小説。

第三十四回
汐見亭の珍客

  芝浜から東海道をいくぶん上ったところに、いつの頃からか「芝浦」と呼ばれてきた海岸線に面した片側町がある。
  だらだら坂がつづく山側には無数の寺が、これでもかというほど互いの塀を隣接させて連なっている。その寺町一帯と、坂下の海岸に沿った東海道とのわずかな間に、細長くつづく町屋があった。
  下高輪北町、である。
  足を伸ばせばすぐに東海道の入口、高輪の大木戸だから、見送りの人たちと最後の別れを惜しむ旅人たちとで混みあう旅籠が並ぶ。そんななかに、料理屋を兼ね、いくぶん趣向を凝らした宿屋が数軒あった。
  いずれの宿も、売りは月見だ。
  旅人のほかは地元の漁師くらいとしか出会わない、どこにでもある寂しい海辺町なのだが、一方で江戸でも指折りの月見の名所として知られており、上弦の月の欠けたところがだんだんと満ちていって八月十五日に仲秋の名月となると、浜辺は空を見上げてそぞろ歩きをする大勢の風流人でにぎわった。
  また翌月の九月十三夜には、こんどは晩秋の名月があらわれる。
  両日の宿屋と料理屋は、眺めのいい部屋からすぐに埋まっていくのだが、しかし今夜の「汐見亭」の客は、そうした粋人とは程遠かった。

  沖合に火の手が上がるにはまだしばらく間がある、夕刻近くのことだった。
  [おと]ないを入れたのは、親子ほども歳の離れた男女の二人連れだ。
  これから商用で上方に向かうという二人は、帳面に近江屋清兵衛と記入し、房州で塩問屋をしている父娘だと胸を反らせた。
  この時期の月は晴れていたとしても半欠けで、あいにく今日の空ははっきりしない。
  なのに二人は着くなり、江戸湾をすっかり見通せる部屋をと望んだから、これからさんざん海を眺めながら旅をつづけるのだし、房州の塩問屋で近江屋という屋号もいかにも辻褄[つじつま]が合わないが、仲居は聞かないことにして主に注文を通した。
  海っぺりの家は一年中潮風にさらされて建物の傷みが早く、そうそう金をかけた普請はできない。それでも客は、案内してすぐに海側の窓を開け放ち、こいつはいい部屋じゃないかと、わざとらしい世辞を言った。
  気に入ってくれたようだから、仲居はいくらかのお追従[ついしよう]を交えてせっせと夕飯の世話をしたが、一向に心付けをくれる気配もなく、日が暮れるとさっさと床の準備をして下った。
  (ありゃ本物の塩問屋だよ。しょっぱいねえ)
  下から愚痴が洩れてきたが、二階の客はなんの反応も示さなかった。

「お父っつあん、ぼつぼつじゃないのかえ」
  細く開けた障子戸と、その向こうの雨戸のすき間を覗いていたおまさが、小声で振り返った。
「儀助はさあ、夜の四つ(午後十時)に集まると言ったんだろ。なら、そろそろじゃないか。待たせてくれるよ」
  顔いっぱいに散らばるあばた面の下で、男はでっぷりと腹と腰を膨らませ、娘と名乗った女は一見若女房のような身づくろいだが、どうして、並々ならぬきつい癇性[かんしょう]が表に出ていた。
  東海道の宿はとりわけ朝が早いから、すでに寝静まっている。起きているのは、二階の客だけだった。
  角行灯[あんどん]が半ば、男ものの丹前で覆われている。
  そこからこぼれてくる薄明りのなかで、父と娘がぼそぼそと会話を交わしていた。
  平岩屋徳右衛門とその娘、常陸屋のおまさだった。
「待つんだ。そのうちに火の手が上がる、そうなりゃ奴らもお[しめ]えだ。きっと江戸にはいられなくなる」
  一瞬の[]があって、下ぶくれの頬を上に向け、鼻に抜けるいつもの甘ったるさで、おまさがぽつりとつぶやいた。
「惜しいねえ」
「なんだ。いま、遅いねえと言ったのか。まあ、待て」
  聞き違えた父に、娘は言い返す気もしない。
  大仰に首を振って、おまさは倒れるように布団にかぶさった。
  深夜の古家にドドンという音が響いて、すかさず階下から、静かにしておくれよね、と[とが]った声が返ってきた。
「なにが親娘だよ。ちっ」
  あとにつづいたのは、さっきの仲居だろう。
「おいっ」
  平岩屋がきつい視線を娘に投げかけた。
  めだつことはするな、そう言いたかったのだろう。

「あたいねえ……」
  いくぶん声を潜めて、またおまさが言った。
「あのな、おまさ。あたいとかあたしとか言うのを、いい加減にやめないか」
「でもさ、お父っつあんはあたいのこれのおかげで、他人[ひと]さまが貯め込んだものをがっぽり懐におさめてきたんじゃないか」
「いやな言い方をしやがる。……しかしおめえも、おかげで常陸屋の女将[おかみ]になった」
  ふん。
  父親を眼中にとどめないおまさは、思い出したように、身体をくねくねしはじめた。
  そんな程度で、あたいが喜ぶと思うか。
  わかってねえよ、このおやじは。
「あたしゃ灘屋を、ただ[つぶ]すのは惜しいと言ってるんだよ。蔵にはたっぷりの金銀[かね]が眠ってるだろ。それにさあ……」
「それに、なんだ」
「言わせるのかい」
「ああ、聞いてやる」
「なら言ってやるよ。あの市右衛門とかいう若い当主はさあ、道ですれ違っただけで、ちょいとあたいのこのあたりがさあ、どうにかなりそうになっちゃうんだよ。ねえ」
  父親の前でも、おまさはあけすけだ。
「こいつ、なんて格好をしやがる。寝言は寝ているときに言いやがれ」
  そうなんだよ、だけどさ、とつぶやいて、おまさは一旦口をつぐんだ。
  海はまだ深い眠りのなかにいる。
「金銀も男も、もっとこう、先の常陸屋みたいに、すっきり運ばないものかねえ」
「とんでもねえ女狐[めぎつね]だな。よくもそんなことを言えるぜ……お、おう、おまさ、見ろい」
「え、はじまったのかい」
  戸締りをしたように見せて、片目で[のぞ]けるていどにうすく開いていた障子戸と外側の雨戸を、平岩屋が頭二つ分に広げた。
「ひええー」
  おまさの声がかすれた。
「しっ」
「し、しかしなんだねえ、お父っつあん。こう言っちゃなんだけど、船火事てのは、そりゃあきれいなもんだねえ。あたい、ぞくぞくしてきたよ」
  下の通りをばたばたと人が走り抜けると、まもなく、怒号が飛び交ってきた。
  それで起こされたのだろう、近くの家々で、だれはばからずに窓を開け放つ音がした。
  もう声をひそめることも、戸を閉じておくこともない。
  それでも、見たこともない大きさの火の輪が浮かんでいるだけで、遠目の利く漁師たちにもそれ以外のことは見通せない。
「なんだ、ありゃ!」
「どこの船だ!」
  刻一刻、騒ぎが大きくなっていく。
  いつのまにか宿の二階の天井までが照らされてほの赤く、ゆらゆらと陽炎のように揺れはじめた。
「やったな、おまさ。これでどんと腰を据えて、お江戸で商いができるというもんだ。しかしなんだ、ああ見えて儀助の奴、なかなかやるじゃないか」
両手の親指を帯に引っ掛けて胸をそらしたまま、惚れ惚れしたように、平岩屋は視線を部屋へともどした。
[てえ]した仕事をするじゃねえかあ」
  恥ずかしく思えるほど、父徳右衛門の声は高ぶっていた。
  この、あほう。
  おまさは眉根を寄せた。
「火の手が上がったところを見れば、こんどばかりは上首尾のようだがね。しかしね、そんなに喜んでいていいのかね。ちゃんとしてのけたつもりでも、お父っつあんたちはいつも詰めが甘いんだ。相手は灘屋だよ。どこかで水が漏れているともかぎらない……」
  平岩屋は笑っている。
  本気にしない。
「そんなことがあって堪まるか。いまおまえが見ているあの炎が、なによりの証しじゃねえか。儀助はな、さすがにおれがこうと見込んで、房州から連れてきた男だけのことはある」
「ふっ、儀助かい。小汚[こぎた]ねえ男だよ。お父っつあんのいないところで、小娘だったあたいのお尻を触ってた。そんな男のどこが……」
「はっはっは、いいじゃないか。触らせてやれ。それでこそ、おまえもいい功徳[くどく]を積んだというものだ。どのみち奴は、このままじゃあいられねえんだからな……」
  平岩屋は凍ったような冷たい目線を、海に投げかけた。
「だから甘いって、言ってるんだよ」
  おまさは父親が言いも終わらぬうちに、遮った。
「平蔵あたりに、儀助は[]れないよ」
  その昔、居並ぶ商家の主たちを前に、なにを見せられても
「あら、こんなのはじめて」
  世間知らずの箱入り娘を演じたころのおまさには、そうは言っても、まだいくらかは[]娘らしい恥じらいが残っていた。
  が、そんなものはもうとっくに売り払ってしまって、四隅を突っつこうが裏返そうが、どこからも出てくる気配はなかった。