わい
わいがや倶楽部

たぶん、サイトで初めての、
連載時代小説。

第三十三回
沈没船

  中天に、おぼろに煙る月があった。
  うれしいことに、月光に力がない。
  海上はほぼ闇で、行く手にうっすらと狭霧が立ち上っている。
  視界は極端に狭い。
  だからと言ってめざす船に行きつくまでは、龕灯[がんどう]松明[たいまつ]を照らすわけにはいかない。暗闇の海上では、わずかな明かりでさえ、それと気づかれる。
  それでなくても鉄砲洲に渡る手前には、海に面して御船手の組屋敷が待ち受けていた。
  そこは取り締まりを行う番所ではなく船手奉行の屋敷であるのだが、それでも海上に特別な注意を払う者たちが住まう場であることに変わりはない。
  千代田のお城を警備する者たちにとって、海からの侵入者は決して見逃すわけにはいかない。そのため、夜に小舟や大船で漕ぎ出すには、特別な届けが求められた。
  許可のない船での夜行が見つかれば、厳しいご詮議が待っていたから、儀助には月明かりのあいまいさがありがたかった。
  (見やがれ。ついてやがるぜ)
  大仕事をしてのけるには、上々の舞台まわしだ。
「行くぜ」
  儀助が指を立て、小声で叫んだ。
  はぐれ浪人どもを分乗させた二杯の荷船は水音もたてず、灘屋の弁才船をめざしてゆっくりと海上を南西に滑っていった。
  両方の船には、江戸湾に通じた船頭役の男が乗っている。いずれまっとうな出自[しゅつじ]の男たちではない。

  向かった先に海福丸の姿はなかった。
「もっとよく捜せ」
  儀助はここ数日、常陸から平岩酒造の酒を積んでもどった七福[しちふく]丸の船頭、甚助に灘屋の弁才船を見張らせている。
  [しら]せでは、昨日もたしかに沖合に停泊していた。
  しばらく辺りを周回してみたが、それらしき船はいなかった。
  ただし視界が極端にわるい夜には、方角を見誤ることもままあることだ。
  とにかく探し出さなければ、はじまらない。
  儀助は、沖に突き出た岬の先にまわるよう指示をした。
  向きを変えようとした、そのときだ。
  一陣の風が吹いて、突然、右手の視界のなかに、ぼうっと巨大な船体が浮かび上がってきた。
  なかに字の読める男がいて、船体の文字に目を[]らす。
「海、福、……海福丸だ。儀助兄い、いやしたぜ」
「間違いねえ」
  おぼろだが、船の[とも]に灘屋の樽廻船「海福丸」の名が大書されていた。
「行きやすか?」
「待ちねえ。もう少しだ」
  儀助は最前から、目を細めて空を仰いでいた。
  見れば、黒雲の固まりが月に近づいているようだ。
  風があり、雲の流れが速い。
「いまのうちに、しっかり船の見当を付けておくんだ」
  そう言い終えたとき、分厚い雲が一瞬で月を遮った。これまで見えていたものが見えなくなり、海上をさらに漆黒の闇が支配した。
「気づかれるんじゃねえぞ」
「言うない。おれをだれだと思ってやがる」
  手慣れた船頭役は波に逆らわず、二杯の荷船を注意深く進ませた。
  あと五[ひろ]、あと四尋と船が近づいていく。
  別の男が中腰になり、波の周期に調子を合わせるように、舷に向かって[かぎ]を放り投げた。
  数瞬、身を潜めて船上の気配を窺ったが、船からの反応はなかった。
  儀助の合図を受け、男は垂れ下がった綱に[すが]りつくや、[ましら]のようなすばしっこさで、みるみる音も立てずに上昇していった。
  [げん]側に取りすがり、すぐさま鉤の付いた縄梯子[なわばしご]が取りつけられる。
  手繰[たぐ]り寄せると、太い綱がしっかりと固定された。
  手はずどおりに事が進んでいく。
  下から一人がこれをつたい、甲板に取り付いた。
  先陣の男が、仁王立ちしている儀助を見下ろして、首を振った。
  人影はない、その合図だった。
  儀助がうなずいた。
  船上を二人が散った。
  一人は腰にぶら下げた革袋のなかの大徳利を取り出し、帆柱のほうへと向かう。そうして根元をぐるぐる巻きにした太い綱の上に、どろっとした粘りのある液体を垂らしていった。
  もう一人は船倉の入口へと向かった。そこから舳先にかけて、床板におなじものをぶちまけていった。
  液体は船の揺れにもてあそばれるように、ゆっくりと甲板を伝っていく。
  油の匂いは、風がすぐさま吹き消してくれた。
  大徳利が空になったのを見届けると、慎重に床の油を避けて二人は再び小船へともどった。
  仕上げのときである。

  儀助が懐に仕舞っていた懐炉[かいろ]を、浪人に渡した。
  海福丸に背を向けた浪人が懐炉を手で囲い、口をすぼめて息を吹きかける。と、灰の下からまっ赤に[]きた小さな火種があらわれた。
  もう一つの船でも、おなじことが行われていた。
  油をしみこませた矢の先を、[おお]い隠していた小さな火種に近づけた。一瞬のうちに、ぼうと大きな火の輪が、闇のなかで二重三重にひろがった。
  炎ごと、弓矢自慢がきりきりと弓を引き絞る。
  矢はほぼ同時に放たれた。
  中天に大きな弧を描いて、矢は帆柱の近くに突き立った。さらにすぐさま二の矢があとを追った。こんどは船倉の近くだ。
  火は怖ろしいほどの勢いで、一気に燃え上がった。

「兄い、うまくいきやしたぜ」
  激しく息を吐きながら、興奮で手下の語尾が上ずっていた。
  なかには口を開けない者もいる。
  みんなが大仕事に酔っていた。
「…………」
「元は[さむらい]と言ったって、なにほどのこともねえや」
  だれかがそうつぶやいた。
  そのとき、船上に絶叫が走り、無数の黒々とした影が一斉に甲板へと飛び出してきた。
  着ていた半纏を脱いで火を消そうとする者がいて、舷から桶を垂らして海の水を汲んで消火しようとする者も幾人かいた。
  しかし、水主[かこ]たちの決死の消火は長くは続かなかった。
  流れ来た油に足を取られて、多くは自由を失って転んだ。そして転んだ炎は、さらなる炎を船上に撒き散らす。
  時をおかずしてかれらは、身をもって油が撒かれたことを知るところとなった。
  怒号と絶叫が飛び交い、炎と影とが交錯した。
  水主たちが逃がれる先は、一つしかなかった。
  だれかが、海中へと身を投じた。
  遅れじと、次々と人が海に飛び込む。
  漆黒の海面から首を突き出して、船から離れようと懸命に泳ぎはじめる。
  どうせ沈むしかない船だが、沈むさいの大きな渦に巻き込まれたら、いのちがない。
  このとき泳ぎはじめた一人の水夫が、海上に照らし出された儀助たちの船にはじめて気がついた。船上からは炎が逆光となって、船を捉えることができなかったのだ。
  仲間を呼び、必死の形相でこっちの船へと向かってくる。
「急げ。ずらかるんだ」
  荷船とはいえ、幾人もの男が同時にしがみつけば、ひとたまりもないだろう。
  一人がみるみる二人三人となって、ともに海の藻屑[もくず]にされてしまうだろう。
  船頭が急いで船を引き離そうとした。
  そのときだ。
  グァオー。
  頭上にすさまじい、この世のものとも思えぬ獣の雄叫びが響いた。

  炎にあぶられて、一人の男がぐわっと両眼を見開いている。
  振り返った儀助が、一瞬にして硬直した。
  信じられぬものを見ていた。
  見違えることはない。
「甚助っ」
  燃えさかる船上で断末魔の叫びをあげているのは、海福丸を見張らせていた平岩屋配下の船頭だった。
  いるはずのない男が、船にいる。
  []われのない恐怖心が、儀助の背筋に貼り付いてきた。
「なぜだ、甚助。……なぜおまえが、そこにいる」
  屈強な船頭の身体は火焔に抱きつかれて、立っているのが不思議でもあった。
  すぐに右へ左へと揺れたのち、こちらをまっすぐに見据えたまま、真下の海へと転落していった。

  儀助は混乱していた。
  そのとき、三吉が指を示して怒鳴った。
「兄い、あれを!」
  よく見ると、炎にあぶり出された船体の文字、海福丸の「海」の字が、水主たち数人が撒いた海の水によって流れ落ち出している。
  そして、その下にもう一つ、元からあったような文字がぼんやりと滲み出てきた。
「変だぞ」
「…………」
「下の字を。しっかり読め」
「し、しち、七……七福丸だ!」
  それは平岩屋が仕立てた弁才船の名、そのものであった。
  儀助の顔からみるみる血が引いた。
  船は、海福丸ではなかった。
「ぎええっー」
  三吉の腰が抜けている。
  儀助は瞬時に、すべてを悟った。
  と同時に、がたがたと全身が小刻みに震え出した。

  これだけの火災だ。
  陸地[おか]ではもう、大騒ぎが始まっているはずだった。
「は、浜へ、浜へ急げ。捕まったら、命はない」
  このとき、足もとがぐらりと大きく傾いた。
  まっ先に海中へと飛び込み、そこからまっしぐらに泳いできた水主の一片手が、船の[とも]を掴んだのだ。
  船頭を押しのけた浪人が、揺れる船のなかで狂ったように刀を一閃させた。
  一度目は艫を斬りつけ、二度目で獲物を捉えた。
  男は恨みのこもった目を浪人に投げつけたまま、ずるずると海に沈み、手首だけが艫に残った。
「おい、浜辺の松明を避けて、もっと西に着けるんだ。着く前におめえたち、よく水をかぶっておけ。もしも捕まったら、船から逃げ出してきた水主[かこ]だと言え」
  儀助は声を[]らしていた。
  それでも震えが止まる気配はなかった。