わい
わいがや倶楽部

たぶん、サイトで初めての、
連載時代小説。

第三十二回
駆け引き

「そうか、金が動いたか。いよいよだな」
  朝早く権次が、同心戌井謹之助の組屋敷へ報告に来た。
  平岩屋の動きに当たりをつけて、ここ二、三日、見張らせていたものだ。
  戌井は早速に手下を連れて、八丁堀から霊岸島へと渡った。
すんなり主が出てくるかと思ったが、こんども平岩屋はもったいをつけて、なかなか姿をあらわさなかった。
  奴が奉行と内与力に不満をつのらせているのは、戌井も心得ていることだ。
  (しかしこいつ、わざわざ損なほうへと立ちまわってやがる)
  部屋に案内されるわけでもないから、玄関先で待っているしかない。
  怒鳴りつけてやりたいが、今日は黙っている。思うところがあるからだ。
  見れば、帳場の横にご大層な仏壇が据え付けられてあった。
  真新しい位牌が二つ並んでいるものの、平岩屋と親孝行は結びつかない。
  世間の商家と釣り合わせるために、急ごしらえでつくらせたものだろう。ろくな戒名ではなかったし、字に僧侶の手とも思えぬいやらしい癖があった。
  位牌の前では、三方[さんぽう]がうっすら[ほこり]を被っていた。物は新品らしい。お供えはなく、茶もなければ焼香をしたあともない。信心がないだけ、そこだけきれいすぎるのだ。
  足袋が畳を擦る音がした。
  ようやくあらわれた平岩屋は、己の尻を思いっきり仏壇に向け、平気で裾を撥ね上げた。
  いまだ一杯の茶も供されていない。
  そのくせ、主が使用人を咎める様子もない。
  坐ったはいいが、正面の平岩屋は苦虫でも噛み潰したように、なにも語らない。
  極端に冷淡を装って、いったいなにしに来たか、という態度である。
  戌井も動じない。
  沈黙に負け、一つため息をついて、ようよう主が口を開いた。
「さて、今ごろになって、なんの御用でございましょうかな」
「奴は逃げたぜ」
  織り込み済みの戌井は、知らん顔でぼそっと告げた。
「はあ」
「だからよ、おめえが親しくしてもらっていた内与力さまは、さっさとお逃げなすったと言ってるんだ。お奉行さまに届けるはずの金子[きんす]をそっくり懐に入れたまんま、役宅から姿をくらましたのだ」   平岩屋の瞼が、ぎょろりと見開かれた。
「……お奉行さまには金銀[かね]が渡らなかったと」
「最初のうちは渡していたかもしれないがな。どこかでおかしくなって、あとはふっつりのようだ。内村にそそのかされて、お奉行自身が振りかざした旗だ。容易には下ろせねえ。ところがどうも、張本人の様子がおかしい。だからこのおれを、奴の見張りに立てたというわけよ」
「…………」
「おれに言わせりゃ、こうなるのは薄々わかっていたことだ。[はな]からこっちに相談してくれてりゃ、喰い逃げされなくて済んだ」
  黙って聴いてはいるが、両膝の上に置かれていた平岩屋の指がきりきりと盛り上がって、着物ごと引きちぎりそうになっている。
  案の[じょう]、怒りがぶり返してきたようだ。
「とんだ災難だったな。あんたの願いは途中から、お奉行さまに届かなくなった。残念だが、そういうこった。だが、株仲間の一件はこれで終わったわけじゃない。いや、まだ序の口だ。それなりの掛かりはいるだろうが、まだまだ取り返しはつくぜ。すっぱり見限るのはもったいねえ」
  たしかに、株仲間創設は成った。が、中身はまったくの別物だった。言われてみれば、この男の言うとおりだったのかもしれない。とは言え、いまさら金銀を積んだところで、幕閣が一旦決めたことが覆るわけもない。
  平岩屋の返答は、つれないものだった。
「もう、結構で」
  戌井の眼がぐっと細くなった。
「おめえ、いま、なんて言った」
「ですから、もうお構いくださらなくとも、結構ですと」
「ほう、異なことを聞くぜ」
「私どもは私どもでできることを考えます。どうぞ、お気づかいくださいますな」
「ふふ……ふあっ、はっはっは」
  戌井の笑いが大きく膨らんだ。
「少々のことなら、大目に見てやろうと思ってやって来たんだが、そうかい、構わねえでくれと、そう言うんだな」
「はい」
「おめえのところに、儀助とかいう番頭がいたな」
「おりましたが、とうに関わりのない男で」
「いいのかえ。昨晩だったか、夜も更けて、首のひん曲がった小汚ねえ男がここから出ていったなあ」
  平岩屋がごくりと生唾を呑み込んだ。
  戌井は聞き洩らさなかった。
「奴はいけねえやな。なにをするにしても、あの首じゃ目立ちすぎる。しかし問題は、そのあと奴がどこに向かったかだ。知ってるかえ」
  空気が凍り付いた。
「むろん、だれよりおめえが承知だろうが、そうさな、さっき縁が切れているとか言った、その野郎の宿に向かったぜ。大事そうによ、こう、懐に手なんぞまわしてな」
  権次の報告におよその見当がついた。そこにいくらか尾ひれを付けて、半分は当てずっぽうだったが矢はみごとに的を貫いたようだ。
「なんぞ[たくら]んでやがるんだろうが、ばれたら、ひどいぜ」
    平岩屋から、一時のふてぶてしさが消えた。
儀助たちはすでに支度にかかっている。なにしろ相手の船が江戸湾に錨を下ろしているここ数日だけが勝負なのだ。
  いまさら仕切り直す猶予はない。
  (儀助めっ)
  秘密裏に進めてきたことが、なんと、同心に筒抜けである。
  連中には固く口封じをし、それなりの小判を撒いておいた。
  [つば]を吐きたいくらいだ。
  平岩屋の頭のなかが急旋回をはじめる。
  (この男、どこまで知ってやがる)
  同心の遠まわしな言い方は、常よりなにかをさぐろうとするときの便法である。儀助たちもいのちを賭けている。まさか計画の中身にまで通じているわけではないだろう。
  、捕まれば獄門首という、きわどい荒仕事でもあった。
  どうするか。

  敵にまわすと危険な男だが、そう言えばこの男、最初に目こぼしをしてもいいと暗に取引を求めていた。
  万全を期しておくに越したことはない。
  頭のなかの天秤が、かたん! と一方に振れた。
「うわっはっは……」
  平岩屋が破顔した
「なんと、戌井さまもお人がわるい。わかりました。暫時[ざんじ]お待ちください」
「そうかい。わかってくれたようで、おれもうれしいぜ」
  言いながら、戌井が上機嫌で腰を浮かせた。
「そうとなりゃ、せっかくだ。ご先祖でも拝ませてもらおうかい」
  仏壇の前に胡座[あぐら]をかき、派手に鉦を打ち鳴らした。
「おう、平岩屋。おれは鈍いほうの色の饅頭[まんじゅう]は苦手でな」
  拝みながら、暗に小判を求めている。
  おまけに横着な片手拝みである。
  (内与力さまよう、礼を言うぜ。せいぜい成仏しな)
  念じているものと思ったら、奥へ向かう当主の背中にもう一度、声を張り上げた。
「いざとなりゃ、このおれが守ってやろうじゃないか」
  最後のひと言で、戌井は小判をもう一枚、積み増した。