わい
わいがや倶楽部

たぶん、サイトで初めての、
連載時代小説。

第三十一回
暗夜の尾行

  暮れ六つ半(午後七時)に、平岩屋の潜り戸が開いた。
  首すじは[あか]じみて、もうずっと湯に[]かっていないと言っている。
  その傾げたままの汚い首がひょいと木戸から突き出て、きょろきょろとあたりを見まわした。
  だれもいないと見切ってから、とんとんとんと軽やかに通りに出てきた三吉は、膨らんだ懐に手を差し入れてにんまりした。
  向かいの大看板の陰に潜んでいた清四郎が、目を凝らした。
  大事そうに懐に仕舞っているのは、たっぷりの金子[きんす]だろう。どうやらこいつが、儀助とのつなぎ役のようだ。
  追おうとして、一瞬止まった。
  もう一人、立ち上がった男がいたからだ。
  尻っ端折りして十手を手にしている、どことなく頼りなげな目明しだった。
  追う者と追われる者の間に突然邪魔者が入り込んだが、三吉の行く手を見て、清四郎は舟を使うと直感した。
  清四郎はいつそうなってもいいように、自前の舟を用意していたから、頬かぶりして川端で待ち構えることにした。
  猪牙舟の船足は速い。案の定、それが役に立った。
  目明しが橋の上で、地団駄を踏んでいた。
  行き先は大川を横切った本所にある、儀助の女の宿だった。

「おうよ、待ってたぜ」
  いつにないつくり笑いを浮かべて、儀助は三吉を玄関まで出迎えた。
  金包みを受け取った儀助は、自分が敷いていた座布団を足の指でずらして前に置き、あぐらを掻くなり金子を数えはじめた。
  三吉は三吉で、これからそれがどう振り分けられるのか、一枚たりと見逃すまいとじっと小判の行方を追っている。
  そのうち三吉の曲がった首が曲がったまんま、だんだんと小判のほうへと引き寄せられていった。
「こう、もっと退[]がらねえか」
  目の前の[はえ]を追い払うように手で[さえぎ]ったが、相手はほんの申しわけ程度に上半身を反らせてみせただけで、身体の位置はまったく動いていない。
  儀助は首に巻いていた手拭いをほどいて金銀[かね]をくるみ、座布団の端に放り出した。
「おう、三吉。これを奴らに届けてやんな」
「ひえっ。た、たった三十五枚じゃねえですか。それっぽっちで」
  ぽかーんと口を開けて、見上げている。
「この野郎、数えてやがったな。抜かすんじゃねえ。おまえの取り分も入れて、五両ずつ七人、しめて三十五両だ」
「あっしも五両で」
「いいから口を閉じな。虫が入るぜ。おまえには、仕事のあとで色を付けてやる」
「先にいただけねえんで」
「しつっこい野郎だ。このおれが[]け合ってんだ。あとで必ず、渡してやる」
  三吉に引導[いんどう]を渡して、儀助は女を振り返った。
「残りはお柳、おめえに預けておく」
「うれしいねえ、手切れ金かえ」
「なにをこきやがる。土間に降りて、さっさと酒でも温めてきな」
  お柳は上機嫌だ。
「あいよ」
  腰を振りつつ素直に土間へと向かい、燗付けの支度をはじめた。
  三吉はなおも未練たらしくそこいらをうろうろしていたが、やがて、
「なんだね、おまえ。まだいたのかえ」
  最後は女の鼻歌に追われて出ていった。
  たかが女郎上がりだが、いまは金づるの儀助のいい女だ。
  女の尻を眺めて鼻をすすり上げるのが、せいぜいだった。

「待ちねえ、三公」
  儀助が呼び止めた。
  勘違いをして両手を差し出した三吉に、念を押した。
「明後日の夜四つ(午後十時)、鉄砲州の明石町の浜に集合だ。近くには御船手の組屋敷がある。うっかりご詮議でも受けたら面倒だから、みんなで突先[とっさき]まで忍んで行くんだ。忘れず伝えるんだぞ。手はずどおり、油と松明[たいまつ]を忘れるな。それと、きっと遅れるな、とな」
  それきり、儀助は奥へ、三吉は通りへと出た。
  一拍おいて、見越しの松の陰と塀の外とで二つの人影が立ち上がった。
  舟に乗り継いで三吉を追ってきた清四郎は、期せずしてお柳の家で儀助を見張っていた仲也と合流することになった。
  二人は無言のまま儀助の最後の口上を復唱し、巧みに舟を操って大川を横切り、たちまち新堀川沿いの灘屋へと帰り着いた。
  灘屋では、一日分の余裕が生まれたことを喜んだ。
  丹蔵を輪の中心として、周到な手はずが組み上げられていった。