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第二十九回
儀助の謀略
「やい。もう二、三合、付けねえか」
「なんだよ、居候のくせして、偉そうに」
隣の部屋で鼻先にしわを寄せたのは、女郎上がりのお
洗い髪を後ろに束ね、帯は腰の低いところにあって、
「そういつまでも腰を据えられていたんじゃ、そのうち旦那に見つかっちまうよ。おまえさん、明日は出て行っとくれよ」
「心配するない。お
儀助が卑屈な笑いを浮かべて、手駒である三吉に向き直った。
「へ」
と斜めに見上げたのは、悪だくみの常連である三吉だ。
先日は平蔵に雇われ、今日は儀介にくっついている。
事情を知らない者にはただ首を傾けているようにも見えるが、いつかの夜に怖ろしく腕っぷしの強い爺いに締め上げられて以来、あいにく首はずっと左に
道で出くわして、おもわずうっと口を被う者も多い。
儀助は自信たっぷりに、
「灘屋を叩きつぶす妙案がある」
手下を見据えた。
「このままじゃおれの
ひとわたり、聴かせてみせた。
「いい話しじゃねえですか。しかし兄い、なんでまた百五十両なんて半端な高なんで」
「考えてもみろい。あの平岩屋だ。二百両と言やあ、百両と言いやがる。だから、三百両と吹っかけるのよ。野郎の
そこへ、だらしなく着物を引きずる音がして、
「置いとくよ」
目の前に、熱い酒が無造作に置かれた。
ちろりから湯気が上がっている。
儀助は、盆から離そうとしたお柳の手に触れた。
「やめとくれよ。まだ外は陽が高いんだからね」
女が
「ちっ、しょうがねえなあ」
見ていた三吉が眉根を寄せた。
儀助とは古い付き合いだが、
久々に呼び出されて来てみたが、人前でことさら自分を
そりゃ、いいだろうよ。
江戸は女の数が極端に少ないから、女がいる男は哀れなほどに少ない。
だから女は、いねえよりいたほうがずっといいのだが、わざわざいねえ者に見せつけることもないだろう。三吉にも、
(なあに、
という思いがある。
三吉の手がこそこそと、畳表をむしっていた。
翌日のことだった。
「あんたに、買ってほしいものがある」
前触れもなく平岩屋徳右衛門の前に姿をあらわしたのは、このところ寄りつきもしなかった儀助である。
「どっから入ってきやがった」
平岩屋の応対はつれない。
「ごあいさつじゃねえか」
いきなり
「……ここも見慣れねえ
「当たり前だ。おめえのような男を飼っていても、
「言ってくれるぜ」
待っても、座れのひと言は出てきそうもない。
そのくせ、立ったまま儀助が見下ろしてくるのを快く思っていない。
平岩屋は、あっちの方角を向いたままだ。
「で、昔の番頭が、ご主人さまになにを売るつもりだ」
「そうさな」
儀助はかまわず座り込んだ。
「おれを見限るのは勝手だ。しかしな、あいつはいけねえ。平蔵は命知らずの野郎だが、惜しいことに血のめぐりがわるい。わるすぎて、後先が見えねえ」
「知ってたのか」
「おめえさんとは昨日今日の付き合いじゃない。こっそり三吉まで引っ張り出しやがって。曲がったまんまの奴の首を見ねえ。ひでえ失態だ」
儀助は両手で己が首を捻って、三吉を真似た。
「暗闇で伊丹屋なんぞを襲ってどうするつもりだ。襲うのは勝手だが、そんなのは気晴らしにもなりゃしねえ」
「つぶさなきゃならないのは、ほかにいる。そう言いたいんだろう」
おまさに指摘されてから、平岩屋もそう考えるようになった。
「おまえなら、どうすると言うんだ」
「そのことよ」
懐に仕舞っていた毛むくじゃらの腕を出し、もう一方の手でさすりはじめた。気色のわるいものが目の前をうるさく動く。
「
儀助が問うた。
「上方にある本家に、
「握られているかどうかはどうでもいいが、上方とは百里以上の距離があるってことだ」
「そんなことはわかっている」
「いや、わかっちゃいねえ」
儀助はかまわず、ずずっと膝を詰めた。
詰め寄られた主は、露骨にあばた面をしかめて見せた。
儀助の息が、正面から襲ってきたからだ。
「もそっと離れないか」
「そう邪険にするない。これでも昔はあっちこっちの溜まり場で、夜通しこうして膝を突き合わせていた仲じゃねえか」
儀助はほんの少し
見たくもない下帯が露わになった。
布とか紙とかはやたら値が張るから、たとえ
徳右衛門が目を背けた。
昔の徳造ならともかく、いまは蔵元の主であり酒問屋の主でもあるのだ。なにかと対等ぶった物言いをする儀助が気に入らないし、相当にうっとうしい。
嫌だと思えば、どんどん嫌になっていくのが人間である。
が、儀助は頓着しない。
「どこまで、もったいをつけてやがる」
一旦はそっぽを向いて出て行った番頭に、いつまでも仲間
「言うことがあるなら、さっさと言え。でなきゃ……」
徳右衛門がだれかを呼ぼうとした。
「わかったぜ。わかりやすく言おう」
儀助も空気を察したようだ。
「下り酒は、陸路じゃとても運べねえ。
平岩屋の目が光った。
きつい視線を相手に送ってから、黙り込んだ。
「もいっぺんだけ、言いますぜ」
儀助が追いかける。
「下り酒はどこも、上方から船で荷を運んでくる。船を失えば、荷も失う。昔の河内屋を思い起こせばいい。しかも灘屋の海福丸は本家の持ち船だ。それだけで一体、双方がいくらの損失をこうむるか、弾いてみねえな。船だけでも、造るとなりゃ千両近い金銀がかかる。商いを立て直すのは容易じゃねえし、立ち直れるとも思えねえ。本家は江戸を引き払えと言うだろうさ」
一気にまくしたてたところで、ぐいと下から徳右衛門を見上げた。
決断を迫っている。
「それにだ。燃え上がる火に
「わかった……」
平岩屋が腕組みを解いて、うなずいた。
「おまえにしては上々の思案だ。が、海の上であろうと、火付けとなりゃ
「なきゃ言わねえ。そのかわり、三百両を用立ててもらう」
やっぱりな、平岩屋の腹が揺れ出した。
「吹っかけたもんだ」
「こっちはな、何人もの命知らずが身体を張るんだ。とても二人や三人でしてのけられるヤマじゃねえ」
「わかった。七十五両だ。半分の半分、まずは七十五両出そう」
「なんだとう」
「まあ待て。それは前金だ。うまくいけば、あとでおなじだけの額を出す。いくら大金を手にしても、首と足が付いてなけりゃ吉原の大階段は上れない道理だ。やり遂げてから、堂々と取りにくればいい」
「根っからしわい男だ」
寸の間、思案してから、儀助はしぶしぶうなずいた。
「いいだろう」
立ち去ろうとした儀助の背に、平岩屋が念を押す。
「儀助、忘れるんじゃない。おまえはもうとっくに平岩屋の番頭ではない。しばらく前から、なんの縁もない男だから、そのつもりで働くんだ」
なにかの拍子に平岩屋の名が出たときのための、用心だった。
それに、金を払う相手は極力、少ないほうがいい。儀助が無事にやりおおせたなら、こんどは儀助と平蔵とを戦わせればいい。どっちの死体が転がっていようと、平岩屋とは
また忙しくなるな。
平岩屋の目の奥で、めらめらと炎が燃え盛った。