わい
わいがや倶楽部

たぶん、サイトで初めての、
連載時代小説。

第二十七回
予期せぬ再会

「これが、老中のお屋敷……」
  阿部豊後守忠秋の屋敷の門前に立って、灘屋主従は目を見張った。
  焼け残りの木材などは片づけられていたが、ほかはほとんど手が付けられていない。
  途中、大名小路を抜けてきた。普請は続けられていてもほぼ再建が成った屋敷が多いなかで、老中たる阿部家は際だって復興が遅れている。
  なにより当主が、世間の復興を優先していることが、一目瞭然[いちもくりょうぜん]。大名の居住地になど立ち入ることもないから、庶民は知ってはいない。
  表門が半ば崩れ落ちたまま、かろうじて立っていた。
  それでも門番はいた。
  丹蔵が用人への取り次ぎを頼み、市右衛門とともに脇の潜り戸から入ろうとした。が、警護の士が止めた。
「灘屋どのには大門からお入りいただくよう、ご用人さまから申し付かっております。もっともいまは、名ばかり大門ではござるが」
  門番が笑った。
  阿部忠秋は永く老中の職にあるが、本来は[おし]藩六万石の大名である。
  そして大名家の大門は、当主、上使、格上の大名家をのぞいて通行できないのが決まりだった。
  主従は再々辞退したが、よほどきつく命じられていたのだろう、門番は頑として首を縦に振らなかった。

  阿部家から灘屋に下り酒の注文が入ったのは、二日前だった。
  それ自体は、いつものことであった。
  しかし阿部家からの使いは、主人みずから筆頭番頭同道のうえでお出まし願いたい、との口上を述べて帰った。
  大名屋敷の表門は、大火とは関係なく、もともと日中は開け放たれている。
  四斗樽を二つ積んだ荷車を勝手口に向かわせて、あたりに人影がないことを確かめてから、二人は素早く門をくぐった。
  踏み入れて臨時の式台[しきだい]へと進むうちに、大名家には不似合いの、子どもたちの歓声が聴こえてきた。屋敷内を走りまわっても、きっと叱られないのに違いない
  丹蔵が溜息をつくように、小声でつぶやいた。
「執政衆が阿部さまのようなお方ばかりだと、いい国になりましょうが」
  阿部には長子がいたが、夭折[ようせつ]した。
  その後、子は[さず]かっていない。
  寂しさもあって以前から、かれは毎年のように市中に捨て置かれた子を屋敷に引き取って養育していた。
  捨てられた子が男子なら、しばらく様子を見て家臣や下僕の列に加えるか、どこかの武家や寺社、商家にも紹介した。
  女子ならば、性格に応じて奥向きの用を務めさせたり、[くりや]を手伝わせたりして育て、成長すればしかるべき相手を見つけて嫁に出してやった。
  そんな噂がいつしか江戸の町に広まり、養いきれなくなった親が泣く泣く屋敷の前に子どもを置いていくようになった。
  家老たちは当主の気まぐれに音をあげて、翻意[ほんい]を迫った。
  しかし主は、聞く耳を持たない。
「捨てたくてわが子を捨てる親はいない。それもこれも、わしらの[まつりごと]が至らぬからじゃ。どこかで穴埋めをするのは至極当然のことじゃ」
「ですが、御前[ごぜん]。日々の[つい]えがばかになりませぬ」
  家臣は何度となく食い下がったが、
「わしが遊興を控えて、浮かせた金で育てておる。そなたたちに 迷惑はかけておらん」
  取り付く島もない。
  おまけに子どもたちが誤って庭の枝を折ろうと、飛んだ木刀が障子を突き破ろうとも、阿部はまったく意に介さない。それどころか、咎める家臣をなだめるほうにまわる。
  かれらの成長を眺めているだけで、真底、たのしそうなのだ。

  四半刻ほど待った。
  ほどなくしてあらわれた阿部豊後守忠秋は、ときに大大名をも恐れさせる老中の[ころも]をさらりと脱ぎ捨てていた。
「よう来た、よう来た」
  着座するなり阿部は、表を上げた市右衛門に目配せをし、いたずらっぽく笑って廊下に控える丹蔵を振り向いた。
「どうじゃ、丹蔵」
  平伏したままの丹蔵は、老中がいきなり自分に話しかけてこようとは思っていなかった。
「ははっ」
「そなた、わしの手から市之丞を奪い取っていきおったが、どうじゃな、そなたが見込んだとおりの男であったか」
  阿部はまだ市右衛門を、市之烝と呼んでいた。
「かまわぬ、答えよ」
  命じられて頭を上げた丹蔵の表情が、喜びに満ちていた。
  済んだことを、老中は怒ってはいない。
「御意。まこと丹蔵は、果報者に存じまする」
「そうであろ」
  老中はわが事のように喜び、高々と笑った。
「ところで丹蔵。あの折り、そちと約したことはいまも心得ておろう」
  一瞬、阿部は老中の顔にもどった。
  丹蔵は平伏したが、なにも語らなかった。
  市右衛門を引き取るさいに、阿部は丹蔵になにをか託していたのか。
「執政にできることは多いが、これはこれで、わしらが手を出せぬことも多いでな」
  忠秋がふと意味ありげな言葉を洩らしたとき、先ほど勝手口に届けたばかりの灘屋の酒が、盆に載って運ばれてきた。
  酒は夏を越すと味が落ちるから、新酒が出るまでの秋のあいだ、よい酒はない。
  ただ灘屋では、新堀川の本[だな]と向島の寮の両方に、特別仕立ての地下蔵をしつらえていた。
  船板と船釘とで巨大な二重の湯槽のようなものをつくり、内と外の板材の間に槇肌[まきはだ]といわれる樹皮を詰めて、水の浸入を防いでいた。「播州」の品質を劣化させぬための、低温保存室であった。
  酒は、大火のあとの江戸の商いを案じた兄福嶋屋正右衛門が、播磨の蔵元に対して特別に指示をして江戸に送り届けてくれたものだ。
  阿部忠秋は喜んだ。香りが高く、雑味が少ない。
「城中での仕事は片づいたが、まだまだ非常時ゆえ、これでも忙しい身でな。済まぬが長くは付き合えぬ」
  と笑いかけ、おのおのの杯が満たされたところで用件に入った。
「いつぞや南町奉行が、酒問屋の株仲間創設を具申[ぐしん]してまいったが、あのときは止めた。城中には鼻先の[]にすぐに[]らいつく、小魚もおるのでな」
  阿部が遠くを見やった。
  横顔に、かすかな疲労がのぞく。
「しかし、こたびはそうもいかなくなった」
  阿部の視線の向こうで、ししおどしがカーンと弾いた。
「江戸の町を、そっくり造り直しじゃ。金蔵がいくらあっても足りぬわ」
  済まんの、阿部が謝罪した。
「御前の思いのままに、なされますよう」
  阿部の苦衷[くちゅう]をおもんばかった市右衛門が平伏した。
「酒に限らず、株仲間はいずれ承認されることになる。ただな、この豊後守にも考えはある。町奉行めと小賢[こざか]しい商人らの思うようにはさせぬ。そのこと、承知しておいてほしい」
「世間の塗炭[とたん]の苦しみに比べれば、問屋内のことなどあまりに小さきこと。ご老中が万民のために、ご存分にお働きになられることを願っております」
  若党に酒を運ばせたあとも部屋に居残った阿部家の用人、小森甚左衛門が市右衛門の返答にいくぶん目を[うる]ませ、しきりに首を上下させていた。
「格別に酒がうまいな。ゆっくり話したいところじゃが、そうもいかぬ」
  そうよのう、と用人に視線を送った。
「市之丞よ。そなたたちのところでも、たくさんの怪我人や病人を屋敷に引き取って養生させていると聞いておる。礼を申すぞ。それに引き換えわしは、そなたの父代わりになると申し出ておきながら……あまり役に立たぬのう、この親は」
「もったいなき仰せ……」
  返す言葉を失い、二人は同時に平伏していた。

  玄関へともどる道すがら、用人の小森甚左衛門は逞しく成長した市右衛門を眩しそうに眺めては、小さな背丈のわりに大きな手で、しきりに背中を叩いた。甚左衛門が子らを可愛がるときの、昔からの癖だった。
  度々叱りつけた少年が、みごとに成人している。
  そのことが、よほどうれしかったらしい。
「あのころは、まだこんなだったがな」
  手のひらで顎のあたりを示して、何度もおなじことを繰り返した。
  会話が止まらない用人に送られて、玄関までたどりついたときだった。
  履物に足を通し、あらためて振りかえった市右衛門が、一瞬にして立ちつくした。
  いつのまにやってきたのか、甚左衛門の後ろに控えていた女性[にょしょう]が指先をそろえて、しなやかに頭を下げた。
「もしや……」 
「志野、にござります」
  阿部家で養育されていたころ、いつも市之丞のあとを追いかけていた少女は、ぷっくりとふくらんだ頬があどけなかった。
「お懐かしゅうございます、市之丞さま。いえ、いまは市右衛門さまでございました」
  ともに身寄りから離れて暮らす二人は、境遇が似ていることもあり、仲よしの兄と妹のようにいつも一緒にいた。
  あるとき、奥向きの女中たちが、志野さまの肌のきめの細やかさは尋常でない、と噂していた。そんなものかと大して気にも留めなかったが、たまたま床几[しょうぎ]に隣り合わせたときの記憶がよみがえった。
  ふと垣間見た少女は、汗を掻き掻きまだ激しく息をしていたが、そのままずっと眺めていたいほどうつくしいものとして、かりそめの兄の脳裏に深く刻まれていた。
  白桃のような……。
  透き通る白さのなかにうっすらと血が通い、かすかな桃色になって頬のあたりに浮き出ている。
(変わらないな)
  いまは奥向きの御用を務めているのだろう。
  志野はもともと清楚で、愛くるしい顔だちの娘だった。遠目には地味な小紋を身につけているのだが、むしろそれが、咲き匂う花のうつくしさを際だたせていた。
  いや、やはりお変わりになられた。
  またうつくしく、なられた。
  市右衛門は、年月が織りなしたあざやかな変化にどう対応していいのか、とまどっているように見えた。
「市右衛門さま」
  恥じらいを含んで、志野が思いきったように前に出た。
「お約束をしていただけますか。昔は怖かったご用人さまも、近ごろではすっかり人恋しくなられました。こんどはお殿さまだけではなく、ご用人さまのためにもお出かけくださいませんか。志野からもお願い申しあげます」
「…………」
  上気して、市右衛門が言葉に詰まっている。
  丹蔵が見たこともない、市右衛門のうろたえようだった。
  代わりに返事をしたのは、丹蔵だった。
「志野さま、と申されますか。いずれ、かならず。お約束いたします」
  頭にも顎にも白いものが混じりはじめた和尚の顔が、また、どちらが上でどちらが下か、わからなくなっていた。