わい
わいがや倶楽部

たぶん、サイトで初めての、
連載時代小説。

第二十五回
うごめく虫たち

  江戸の町が、これほどはっきりと見通せたことはなかった。
  あれも、ない。こっちも、ない。
  白のほかは、色もない。
  降り積もった雪が地上のあらゆる音を吸収して、いまや音もない。
  なにもかもが消えてしまっている。
  しかしひとたび雪が解ければ、いやがうえでも、目を見開いて向き合わねばならないことが山となって姿をあらわしてくることだろう。

  老中阿部忠秋は、臨時の本丸となった三層の富士見櫓の窓から、城下を望んでいた。
  天守が焼け落ちたあとも、ここだけはしっかりと踏みとどまった。その昔、築城の名手でもあった加藤清正が普請した堅固な要塞だ。
  民を守れなかった町。
  民を守れなかった政治。
  あまりにも絶望的な光景は、幕府の明らかな[あやま]ちを物語っていた。
  執政にある身であれば向後は一切、時の力におもねることなく、身命を賭してこの国を正しく導いていかなければならい。
  [かたわ]ら、脳裡をかすめることがあった。
  江戸の外は,、これまでとなにも変わっていない。ただ江戸だけが廃墟と化していた。
  江戸町民は、公儀自身が庶民の逃げ場を封鎖していたことに、図り知れぬ恨みと憎しみを抱いている。
  機に乗じ、民衆の声と呼応して多くの外様大名が一斉に反乱を起こせば、江戸を本拠とするいまの徳川幕府はひとたまりもない。
  権力が惜しいのではない。数多[あまた]の流血を見たのちにやっと訪れた平穏の日々を、ふたたび戦火にまみれさせてはならない。
  いかなるときも、民を守れる町をつくる。それなしでは、さまざまな犠牲の上に勝ち取った徳川幕府の存続もない。

  その思いだった。

  老中阿部忠秋と将軍家綱の補佐役である保科正之らは早速、仮の御用部屋を設けさせて深刻な議論に入った。
  江戸の再興は重要だが、再興の前にただちにやるべき目の前の仕事がいくつも横たわっていた。
  まずは飢えきった庶民のために、各所にお救い小屋を設け、一日千俵、市中六か所で七日間の炊き出しを行って[かゆ][ほどこ]した。
  火消したちに対して、浅草の幕府の米蔵にあった七千俵の米の持ち出しを許した。米を持ち出すには、あらゆるものが散乱する大路を、荷車が通れるように片づけなければならない。食糧の配布と復興のための道路を確保する、一石二鳥の策だった。
  巷にあふれた無数の死体は埋める場所とてなく、集めて江戸湾の沖に捨てて供養した。
  同時に、諸藩の大名たちに対しては帰国を促し、これから参勤してくる藩へは江戸入り無用と伝えた。
  江戸を戦場にしてはならないし、当初の予定どおりの人間が江戸入りを果たせば、たちまち米や物資、水、住まう場所が不足する。
  阿部忠秋と保科正之は、先を見越す能力において抜きん出ていた。
  むろん、かれらとて罹災者だった。
  なかでも保科は、二十七歳のときに正室と長男を相次いで失くし、このたびの火災で最後の直系男子を失っていた。消火にあたって獅子奮迅[ししふんじん]の活躍をした息子が、消火中に浴びた水で風邪をこじらせ、息を引き取ったのだ。かれは万感の思いを[]し殺し、復興に邁進した。
  二月七日、公儀は臨時の処置として越谷にあった御殿を二の丸へと移した。
  九日、罹災した十万石以下の大名や旗本、御家人たちに屋敷の作事料として復旧資金を貸与、もしくは下賜[かし]した。
  十日、住む家を失った被災町人に救済金十五万両を下賜した。
  ご金蔵を危ぶむ他の幕閣から、またもや嵐のような反対意見が出たが、
「このようなときに下々に施すために蓄えがあるのであり、むざむざ積み置くのであれば蓄え無きも同然なり」
  意に介さず二人は押し切った。
  少し以前にもおなじようなことがあった。
  保科正之が、人口増加による水不足を案じて、玉川上水の開削[かいさく]を計画したときだ。
  このときも、せっかくの上水が兵器などの物資輸送に利用されては江戸城の防衛上危険だとする反対意見が出された。
  最後は大政参与の力で押しきったが、おなじ景色であっても、見えない者にはまったく別の景色としか映らないのである。
  結果として、玉川上水開通によって江戸の水不足が解消され、河川の整備によって従来は不毛とされてきた多摩郡でも、米が作れるようになった。
  危急存亡のときほど二人の迅速な判断が際だつのは、止むを得ないことだった。

  次に喫緊[きっきん]の仕事が、火災に強い町づくりだった。
  こちらは松平伊豆守信綱を責任者として、江戸の町を根本から見直すことになった。
  が、こと地面に関することとなると、ひと筋縄ではいかない。
  一旦は逃げた者たちも、鎮火したとわかるとすぐに取って返し、元あった家の地割を守るのはもとより、機に乗じて少しでも広げようと、周囲に縄を張り巡らせて寝ずの番をする者までがあらわれた。
  当然、遅れてもどった者は分がわるい。
  つい十日ほど前まで、にこにこと仲よく朝夕のあいさつを交わしていた隣同士であっても、やすやすと譲ることはしない。
  各所で、[いさか]いが頻発した。
  公儀はまず主要な道路の道幅を、六間(約10.9m)から九間(約16.36m)に改めた。
  また、火の粉の飛散を堰き止めるため、上野などの要所に火[]け地として。のちに盛り場と化していく広小路を設けることとした。
  神田川を拡張し、新堀も開削した。
  しかしこれらの政策にしても、そのための土地を確保しようとすれば、かならず立ち退きを迫られる者が続出する。いつのときも泣きをみるのはより貧しく弱い者たちであり、一方で、資金のある大店はさっさとあらたな一等地を確保した。
  案を出すのはいいが、徳川ばかりを見てその先を見ていない、いかにも智恵伊豆らしいやりようではあった。
  公儀はまた、無数の人間が対岸を臨みながら逃げおおせなかった反省から、大川の下流に大橋の建造を命じた。武蔵と下総の二つの国を結ぶ橋として、のちに両国橋と名づけられる。
  諸国からは、材木と家づくりの職人を呼び寄せた。
  御三家である尾張徳川家にも、占有木材であった木曽檜の拠出を命じた。尾張藩はただちに木曾妻籠[つまご]村の[そま]を使って、木材の差配をさせた。
  おびただしい死者を埋葬供養するために、本所に回向院を建立させた。

  大量の資金が、湯水のように江戸市中に投じられた。
  一方で、このときとばかりに暗躍する者たちがあらわれはじめた。
  材木などの資材から、米を中心とした食糧まで、 諸式(物価)はみるみる高騰した。背景に、復興の名のもとにうごめく者たちの存在があった。
  目端[めはし]が利くのは、商人ばかりではなかった。
  もう一人、息を吹き返した者がいる。
  明暦の大火は、一旦は沼の深くに沈んだ南町奉行、神尾備前守にも一筋の光をもたらすことになった。
  復興資金の増加にともなって状況は一変し、酒問屋をはじめとする株仲間創設を急がせる事態へと幕府は急速に舵を切りはじめていた。
  すなわち、災害復興にかかわる膨大な支出によって、今後の幕府運営が危ぶまれるほど、御金蔵が一気に枯渇[こかつ]したのである。
  上納金を求める声が一気に高まった。