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第二十四回
白い焼け跡
江戸の冬は、雨が少ない。
からからに乾いているうえ、北風が容赦なく吹き荒れる。
不注意による失火だけでなく、反幕府勢力によると見られる火付けも、あとを絶たなかった。
小さな火種が取り返しのつかない災いをもたらす教訓は、江戸に生きる者すべての骨身に沁みている。
それゆえ、
明暦三(1657)年の正月は、前年の十一月からほとんど雨がなく、江戸の町は乾ききっていた。
十八日午後三時頃。
のちに「振袖火事」と語り継がれる最初の火は、江戸の北方に位置する本郷丸山町の本妙寺から出た。
火は北西の強い風にあおられて、またたくうちに湯島から駿河台へと広がり、まもなく神田川を越え、日本橋川にかかる一石橋を焼き落とし、八丁堀から霊岸島の一部まで燃え広がり、さらには海を挟んだ佃島、石川島へと飛び移った。
さらに、川幅百二十間(約218m)の大川をものとせず、川向うの深川にまで襲いかかり、夜を徹してこれでもかと江戸市街の三分の一を焼き尽くしたのである。
この世に、地獄絵が出現していた。
人びとは、悪夢のなかにあった。
それでも未明には、一旦、火が
しかし翌十九日の昼前になって再び、くすぶっていた火が炎となって舞い上がった。
この日、小石川の新鷹匠町の武家屋敷から出た火は、江戸城へと迫った。
まず竹橋御門内にあった天樹院の屋敷が炎上。その後、将軍家綱の弟である綱重と綱吉の屋敷が全焼した。
昼過ぎには城の天守閣が焼け落ち、本丸、二の丸、三の丸を焼き、周辺の大名旗本屋敷もほぼ焼き尽くされた。
すでに西の丸に避難していた将軍家綱に対し、井伊
が、老中の阿部豊後守忠秋と大政参与である保科肥後守正之は、これに頑として反対した。
「将軍が江戸城を立ち退くとは何事ぞ」
「本丸に火がかかれば西の丸に移り、また西の丸が焼けたら、本丸のあとに仮りの建屋を普請するまで」
あたふたと一個の将軍の命を守ることよりも、動じることなく、徳川家の統治を世に示すことこそ大事と説いた。
十七歳の将軍はこれに同意した。
よって出城は取り止められた。
さらに夕刻、麹町五丁目の町家から出た別の火は、外桜田、西の丸下から京橋、新橋、愛宕下、鉄砲州、芝口にまで及んだ。
江戸城の諸門は、大手をのぞくほかはすべて焼亡。火は品川の海岸にまで延びていって、焼くことに飽き、疲れきって、二十日の朝になってようやく
十八日の本郷の火は過失としても、十九日に起きた小石川と麹町の出火は、騒ぎに乗じた不平分子の火付けとも思われた。
大川の西側はとりわけひどかった。
視界に映るすべてが、この世の光景ではなかった。
明暦の大火による死者は、十万七千人を数えたとされる。
武家屋敷は万石以上のもの五百余、旗本屋敷七百七十余、組屋敷多数、堂社三百五十余、町屋千二百町、橋梁六十余を焼失した。
焼け跡では、いまだくすぶる煙が目と鼻とを激しく攻め上げた。
あたり一面に死臭が漂い、川面には溺死者が丸太のように浮かんで、引き上げる者もなく海へと流されていった。
焼け跡からは、逃げようとして表戸に手を伸ばしたまま力尽きた年寄や病人、子どもの上におおいかぶさったまま息絶えた母親らしき焼死体など、目を
そして路上には、傷つき大火傷を負った者、手拭いで鼻から下を被い、細めた目で
着ているものは焼け焦げ、引きずられ、もはや衣類とはいえない。
人はおろか、犬も猫も、草も葉も、生き残った生命のすべてがあらゆる意志と感覚とを失っていた。
目と鼻はつづけては開けていられず、数瞬開いては数瞬閉じる。それでやっと前に進め、呼吸ができる。
もとより食べものはない。
思考の糸口すらつかめず、
そのなかを、気のふれた女がわけもなく笑って、歩いていく。
なにもかもが消滅した。
住まいも、仕事も、ささやかな貯えも、一昨日まで互いに笑い合っていた最も身近な命たちをも、すべてを奪い取られて、これ以上落ちようのない最も深いどん底にいるはずだった。
が、気まぐれな冬の空は、なおも追い打ちをかけた。
鎮火した翌日、二十一日になって江戸は、一転して猛吹雪となった。
身をよける屋根はなく、傘もない。燃え残ったわずかな寺社には夥しい人間が身を寄せており、
吹雪は無情にも、焼け出された者をどこまでも追いかけた。
人びとは雪を払いのける力もなく、道に倒れた。
昨日焼かれた肉が、今日は凍りつく。
地上は白く白く、哀しみの跡を