
目次
第二十三回
明暦の大火
江戸にはまだところどころに、初春の正月気分が居残っていた。
元日の大正月が武家を中心とした儀礼的なものであるのに対し、十四日から十六日までの小正月は、望の月(満月)を月初めと考える農民や庶民にとって、とくに大事な一年の始まりである。
お店勤めの奉公人が休みをもらう冬の藪入りがこのときで、大工などの職人も元旦からこの日までが休みとなる。
また、数日で大寒を迎えるこの時期は、寒気の真っ只中でもある。
十七日は、手のひらに霧のような息を吐き、さあ、また一年がんばるぞと、それぞれが気を引き締めて仕事に取り掛かった日である。
午後になって、安芸の蔵元、福嶋屋が所有する弁才船「海福丸」が船底を新酒で一杯にして、晴れやかに品川沖へと到着した。
江戸湾には千石船も多くやってくるが、灘屋の本家では、離島の多い瀬戸内の海を縦横に走り抜けるため、取りまわしのよい五百石船を仕立てていた。
一夜明けた明暦三(1657)年一月十八日の、昼八つ半(午後三時ごろ)。
陸上では荷受けの準備万端を整え、船上では本格的な荷下ろしを翌日に控えて、長かった航海の片づけを終えようとしていた。
そのときであった。
「なんだ、あれは!」
突然、帆柱に取りすがっていた水主が叫んだ。
高さのある大型船の甲板からは、遠くへ行くほどだんだんと高くなっていく江戸の町を一望できた。しかも船乗りは、一様に遠目が利く。
視線の先には、千代田のお城を中心として四方へと展開する広大な城下があり、そのわずか先に、点のようだが、痛いほどに赤いものが揺れていた。
刹那、船上に緊張が走った。
帆柱の声に促されて、数人の水主が右舷から身を乗り出した。
息詰まる数瞬があって、かれらははっきりと、赤いものの正体が火であることを見て取った。
「こいつあ、只事じゃねえぞ!」
水主に交じって舷側に張り付いた船頭が、見るなり叫んだ。
城のすぐそばで、炎の根がちらちらと赤い舌を出している。
炎に油が混じったようだった。立てつづけに黒々とした煙が立ち上り、早くも火は北西の烈風にあおられて、ほぼ南東へと流れ出した。
「火元は、お城の向こうだ」
「湯島か、それとも先の本郷あたりか」
沖から見ると炎と城とが重なって見え、まるで城郭を攻め上がる兵たちが放った戦火のようだった。
しかも高く舞い上がった火の粉の飛びようが、尋常ではなかった。
「勇造、それぞれの位置をしかと目の裏に叩き込め。叩き込んだら、すぐに灘屋に向かえ。みなさんをここにお連れするんだ」
船上に、ぱっと人が散った。
収納されていたはしけが、ただちに海面に下ろされる。
はしけと呼ばれる伝馬船には、甲板がない。よりたくさんの荷を積めるよう、幅も広く造られている。船足では舳先の尖った猪牙舟に一歩も二歩も譲るが、船頭はあえてはしけを下ろさせた。救える人がいたら、船に乗れるだけ連れてこい、との暗黙の呼吸だ。
水主のなかでも、勇造の船あしらいは図抜けている。
船は一目散に陸をめざした。
おなじ時刻、江戸市中では遠くから順々に鐘が打ち鳴らされてくる。
火元が近づいて事態がいよいよ切迫してくると、半鐘の内側を擦り鳴らす「擦り半」へと鐘の叩き方が変わる。風向きしだいで大事になると踏んだ丹蔵は、火が向かって来るほうに、いち早く手代や仲士たちを走らせていた。
炎が神田川を越えてくるかどうかを見極めるためだ。
一方で、男衆たちに避難の準備を急がせた。
川向うに避難させるために、清四郎たちには女衆と丁稚たちを舟に分乗させ、新堀川から大川に出て向島寮に向かわせることを命じた。いまのうちなら、大川の通行もさほど難儀はしないと踏んでのことだ。
すでに炎は魔物のように燃えさかって、湯島から駿河台を焼き尽くし、まもなく堀を跨ぎかねないと、火の見に立った最初の男が知らせてきた。
猶予はなかった。
幸い新酒を迎え入れる時期で、灘屋の蔵はどれも空に近い。
丹蔵は、荷受け人足を差配する米之助以下の屈強な面々を、二手に分けた。
一隊には、とくに重要な家財や帳簿類などを一番蔵へと放り込み、扉や窓を完璧に塗り込めたあと、入念に目張りをするよう伝えた。
別の一隊には、主人の部屋にある品々を二番蔵へ、そして一部は土間の片隅に掘った地下蔵に仕舞い、充分に扉を湿らせてしっかりと閉じ、備えの粘土と土とで小高い山のように被わせた。
当座の身の回りのものは、三杯の荷船に運び入れるように命じた。
そこへ海福丸から急行した勇造たちが到着した。
地面から眺めるだけでは、炎の行き先や炎が押し寄せるまでの時間がよくつかめない。
勇造は、船上の高い位置から、やや俯瞰気味に目の奥に焼き付けた城下の状況を、つぶさに報告した。
市右衛門と丹蔵は、勇造の知らせと火の見の報告とを重ね合わせた。
海福丸が江戸に到着していたのは、まことに幸いだった。
市右衛門はただちに裏店へと向かい、声を張り上げた。
「みんな、よく聴くんだ。火は神田川を越えてくるかもしれない。いまからわたしたちは沖の船に移る。まだ人が乗れる。子どもや年寄り、病人を預けたい者はすぐここに集まるがいい。急げ。急いでくれ」
主人に倣って、灘屋の面々が四方に駆け出した。
貧しい町人が持ち出したい荷は、欲ばったところで大きめの風呂敷二つほどでしかないが、こうしたときに急いで火から遠ざかろうにも、あとからあとから押し寄せる群衆で通りは身動きもできなくなっている。
かと言って、かれらに持ち船などあるわけがない。
もっと絶望的なのは、対岸へと渡る橋がほとんど用意されていなかったことだ。
幕府は江戸城の防備を優先し、容易に敵に攻め上がられぬよう、川や堀に架かる橋を最小限に抑えていた。一番の大河である隅田川ですら、この時期はずっと上流に千住大橋が一つあるだけで、そこから下流には一つの橋も架けられていなかったのだ。
ならばと隅田川を避け、神田川に逃げようとしても、これまた浅草橋しかなかった。
人はそこに殺到するだろう。
いまさらながら、歴代の公儀の執政たちの民を顧みない手前勝手な方針が、被害を幾倍にも膨らませつつあった。
「一体、おめえたちは、どうする気だ」
灘屋の仲仕たちに尋ねられた長屋の女房たちは、途方に暮れた。
「行きたい。行きたいけど……ああ、まだ亭主が仕事場からもどっちゃいない」
「じれってえな。それじゃ間に合わないんだ。亭主だって、もどろうにもたどり着けないかもしれないじゃねえか。聞くが、あらかじめ亭主とは、逃げる方角と落ち合う場所は決めてあるんだろうな」
「それは決めてある。だけど……」
女房たちとのやりとりは仲士らにまかせ、市右衛門と丹蔵はその間も手分けして、最後にもう一度、一軒一軒、長屋中の戸を開け放っていった。
「番頭さん、子どもだけお願いできるか」
あたしたちはここに残ってあと少しだけ亭主の帰りを待つよと、涙で顔をぐしゃぐしゃにした数人の女房を残して、市右衛門と丹蔵らは奪うように、顔見知りの子どもたちの手を強く握りしめた。
亭主を待っている間にも火が近くに迫ったら、ためらわずに西へ、ひたすら芝のほうへと逃げろと、最後にそう言い聞かせた。
女衆や子どもたちを乗せた船の扱いは、棹と櫓の扱いに長けた勇造と米之助配下の者が受け持った。
同時にはしけが三つほども留められる灘屋の船着場から、杭に巻きつけた太い舫い綱が次々と外され、長さ二間の棹をたくみに操って、合計三杯の荷船が動き出した。
そこに、
「灘屋あ、こいつらを頼む」
河岸から、聴き覚えのある野太い声が飛んだ。
逃げまどう人の列に指図しながら、南町の同心、戌井謹之助が大声で呼んでいた。
逃げまどう騒ぎのなかで、ついに大人とはぐれてしまったのだろう。息もつけぬほどに泣き叫ぶまだ幼い子どもを、戌井は両の腕で持ち上げて見せた。
すぐさま船を寄せ、踏み板を渡し、清四郎が二人の子どもを抱き留めた。
「旦那は、どうなさいますんで」
「ばか野郎、同心が先に逃げ出してどうする。頼んだぜ灘屋、さあ行け」
火は気ままに方向を変え、江戸の町を凄まじい勢いで呑み込んでいる。行く手にはまだまだ夥しい数の棟割長屋が、恐怖におびえながら待っている。
乾き切った粗末な木造家屋は、炎に燃えやすい薪をわざわざくべてやるようだった。
「一石橋に、燃え移ったぞおー」
鼻を襲いくる強烈な異臭と轟音、さらには人びとの叫喚とが混ざりあって、火事は予想外の速さで迫って来ている。
空は、一面に赤い幕を張ったようだ。
炎か、夕闇か、見たこともない濃いあかね色に染まっている。
丹蔵の手配りは速かった。
男衆は江戸の海へ、女衆は向島寮へ。
おかげで灘屋は、最悪の事態を迎えずに済んだ。
品川沖の船の上から、なおも燃えさかる江戸の城下を見つめて、だれもが生涯一度の大声をあげて泣いていた。
泣かずには見つめられなかったのだ。
とりわけ川筋と堀筋は悲惨だった。
大川を東へと渡り、本所や深川に逃げようにも橋がないから、ともかくも川べりまでやって来て立ち止まり、新たに寄せてくる集団に被せられて川面に身を投じる者があとを絶たない。どこの川でも似たようなことが起きていたが、とり わけ悲惨だったのが神田川に近い住人である。
人びとは、狂気の群衆となって、浅草御門と呼ばれる浅草見附門に殺到した。
ここに生き地獄が待っていた。
火災から人命を守ろうとわざわざお取り放ちとした囚人を、警護の者たちが脱走と勘違いしたのだ。それによって、最後の逃げ場であった門が逆に固く閉じられてしまった。
門はそもそも江戸城を防備するためのものであり、よほどに頑丈にできている。一旦閉じられてしまえば、必死の群衆をもってしても開けられない。
そうとも知らずに後ろから次々と詰めかける群衆と重なって、人びとはもどるにもどれず、ついに数万を超える人間が土塀を乗り越え、神田川の水面に折り重なっていった。
新堀川の上流である日本橋川にも、焼死者や溺死者の死体が引きも切らず流れ来ていた。杭に掛かった死体にあらたな死体が被さって、屍の島ができた。
ふだんは底まで見通せるお堀から、気味がわるいほどの蒸気が舞い上がっていた。
「おうい、聴けい」
同心戌井は、まだ踏みとどまっていた。
「そっちじゃねえと、言ってんだろ」
逃げ遅れた人影を見つけ出しては、遠くから野太い声を張り上げている。
「芝から海沿いに行くんだ。品川から向こうへ進むんだ!」
片っぱしから怒鳴りつけてきたが、一体幾人が従ったことだろう。
我を見失った人間の行動は、予想もつかない。
おまけに道のまん中には、逃げ切れず最後にはあきらめて放り出した荷車や家財道具が立ち往生し、あるいは崩れて散らばり、人の行く手を塞いでいる。言ったとおりに人が動かないのは、動けないせいでもあった。
「くそっ」
風まかせに火の粉が、ばしんばしんと音をたてて飛んでくる。手で必死に払いのける。火だるまにさせられては堪らないが、もう、限界だった。
立ち去ることを決めた戌井は、それでも念のため堀沿いから枝分かれした路地を一本一本覗きながら、早足で移動を始めた。どの路地も、忽然と人の姿が消えた、死の町のようだった。
ゴオーと唸りながら、背後から焼けつくような空が迫ってくる。
もうよかろう、とつぶやいて、もう一度着物の裾をまくり直した。
と、そこにゆっくりと、一人の男が立ちはだかった。
頬かむりをしている。
顎が尖ったきつね顔は、すぐにそれと知れた。
おなじ南町の内与力、内村清十郎だった。
「わずか三十俵の分際で、いささか立ち入り過ぎたようだな」
腰の刀に手をかけているが、鯉口はまだ切っていない。いきなり斬りかかる気配はなさそうだが、先に抜かれれば遅れをとる。
戌井はみずから歩いて、酒蔵と酒蔵の細い路地へと内村を誘った。火の粉が白壁に当たって落下していた。刀を横に払えるだけの幅はない。上段からの攻撃だけなら、なんとか受け止められる。
「おまえを斬っても、泣く者はいまい」
背に浴びせかけてくる内村の声は甲高く、はっきり届いてくる。が、刻一刻と近づいてくる業火を間近に、草履の音は聴き取れない。
耳だけで距離を測っている戌井にしてみれば、いましばらく会話をつづけさせなければならない。
「なんだかよく聴こえねえな。もうすこし腹から絞り出してくれねえか。もっとも、てめえの声は、いつ聴いても虫唾が走るがな」
「同心風情が、与力に向かって、てめえ、だと」
「そうだ。内村さま、とお呼びしてえところだったが、あいにくてめえは、もう、奉行所の人間じゃねえ」
あまり怒らせてもならないが、この場で世間話は出てこない。
「おまえ、平岩屋からいくらふんだくった?」
「さあてな。内与力さまと五分と五分の、勝ち負けなしってとこだろう」
内村は、戌井の懐に目を付けていた。
「ここまではそうだったかもしれない。が、火事のおかげで、持ち金をそっくり持ち出してくれたのは、おれにとって都合のいいことだった」
殺気が膨らんだ。
あと数歩で、堀端に出る。幸い、先の地面に邪魔する物はない。
戌井はとっさに、跳んだ。
間一髪だった。
内村の剣が空を飛んだ戌井の草履を切った。
身を沈めた戌井が起き上がり、切っ先を前に向き直った。
「これでまた五分と五分だ。おれのほうなら、いつでもいいぜ」
内村が無言で、一歩前に出た。
「みんなが生き死にの瀬戸際にあるこんなときでも、己のことしか考えねえ。おめえは屑だ」
戌井は、剣では南町で一、二を争う男だ。腕は立つ。
「その台詞は、そっくりおまえに返そう。袖の下からひらひら金を呼び寄せるのは、そもそもおまえの流儀だったはずだ」
両者の剣は空を映して、真っ赤に染まっている。
異様な光景だが、もはや振り返る者も立ち止まる者もいない。
正眼に構えていた内村は、つと右足を前に出し、剣の切っ先をやや下げた。左からまっすぐ突き上げようという構えだ。
「どれ、長崎の唐人から学んだ殺人剣とやらを、拝ませてもらおうか。来い、きつね」
「よかろう」
叫ぶなり内村が、突き上げた。
わざと片手を離し、一方の腕をいっぱいに張った剣は、想像を遥かに超えて伸び上がってきた。
間合いを取る間もなく、次なる突きが襲った。
戌井の肩が破られた。
「よくぞ交わした。ここまでは誉めてやろう。が、次はそうもいくまい。そっちの肩も斬らせてもらおうか」
内村は伸び切った体勢をすぐさま立て直し、尖った顎をしゃくりあげると、不敵な笑みを浮かべて再びじりじりと戌井に迫った。
内村は暗に、次は逆の肩だとほのめかした。
しかしそれを鵜呑みにするには、奴の剣は姑息に過ぎる。
たったいまの、一気の攻撃は二の太刀までで、三はなかった。
剣先さえ躱せれば、内村の身体が大きく流れることを、戌井は一瞬のうちに見とっていた。
「聞かせてもらおうか。おまえと平岩屋の仲立ちをしたのは、だれだ」
「聴いてどうする。おまえはここで終わるのだ。それにおまえはさっき、おれの声に虫唾が走ると言った」
刹那、内村が仕掛けた。
案の定、突き上げてきたのは、先ほど斬られたのとおなじ場所だった。
予期していた戌井の反応は素早かった。
切っ先を払うだけなら、無用な力はいらない。そこに全神経を集中させればよかった。
戌井は動いていない。
一瞬早く弾かれた内村の剣はわずかに行き場を失ってあらぬほうへと流れ、まともに蔵の漆喰壁を突き刺した。
元内与力の細い眼が、ぐわっと見開かれた。
刀を抜き取る暇はない。
恐怖が全身を引きつらせている。信じがたい表情を浮かべ、内村はただ棒杭のように、戌井の前に立ち尽くしていた。
同心は慌てることなく、愛刀に両手を添えた。
次いで上段に構えると、頬かむりした相手の額をめがけて、迷いなく真っ向から振り下ろした。
瞬間、内村が脇差に手を掛けようとしたが、間に合うわけもない。
凄まじい斬撃だった。
数瞬のときが流れた。ふらつきながらもかろうじて踏みとどまっていた身体が、やがて耐えきれなくなって、前のめりにドウと落ちた。
堀端に半分身を投げ出して、内村は絶命していた。
「奉行所の与力が、人助けの邪魔をするかえ」
吐き捨てた戌井が、刀に血振りをくれ、与力の背を足で蹴った。
また一人、だれかが川に落ちた音がした。