わい
わいがや倶楽部

たぶん、サイトで初めての、
連載時代小説。

第二十二回
招かれざる客

「邪魔するぜ」
  翌朝、手下の目明しを連れて、同心戌井謹之助が灘屋にやって来た。
  折よく帳場に座っていた丹蔵を認めると、目で奥を指し示し、手下の権次に待ってろと言い置いた。
  戌井は足早に奥へと去った。
  残された権次は、じっとしていられない男だ。
  玄関先の三和土の端には、土間にまで届きそうな藍染めの長い暖簾が掛けられ、たくしあげられた中央部のわずかなすき間から、陽だまりになった空間が見える。
  誘われるように進んでいくと、暖簾の先は、酒樽を運ぶための横にまっすぐな広い通路とつながっていた。どうやらその先は奥の屋敷と蔵とに通じているようで、陽に照らされた三戸前の白壁蔵が手前からきれいに並んで眩しく光っていた。
  風の通り道でもあった。
  さすがに酒問屋だ。沁みついているのだろう、かすかな風でも芳しい芳香が漂ってきた。権次はすでに鼻孔を一杯に膨らませて、痩せた犬のように鼻先を右に左にとふらふらとさ迷わせている。
  と、そのときだ。
  鼻から暖簾を押し分けた権次の前に、ぐいっと長い竹箒の柄が突き出された。
「だ、だ、だれでえ。お、おどかすんじゃ……」
  おもわず前を見やったが、だれもいない。
  と、視線のずっと下から、前掛け姿の子どもが背伸びしながらせりあがってきた。
「お米さんがさあ、お店に怪しいのが来てるって言うから来てみたら、なんだい、またおじさんかあ」
  屈託なく笑った小僧は、伍吉だった。
「まった出てきやがったか、口の減らねえ小坊主が」
「あはははは。表じゃ親分さんとか言われてぺこぺこされていても、やっぱり匂いには釣られるんだね。おじさんが魚だったら、きっと半刻(約一時間)だって泳いでられないよ。夜の明けぬうちに、さっさと釣り上げられてしまう」
  伍吉は権次に容赦がない。
「なに抜かしやがる。おれは大川の橋桁で群れてる、三月のボラじゃねえぞ。まったく、なんだと思ってやがる」
  九つの子どもにいいようにあしらわれながら、けれども権次は不機嫌ではない。
  ほかの丁稚たちとおなじく、伍吉は八歳の正月に奉公に上がって、まだ一年かそこいらである。貧しい長屋育ちとも思われぬつやつやとした肌と、あっけらかんとした素直な物言いがいかにも正直者らしくて、棒手振りの父親について菜  を売りに来ていた頃から、灘屋の衆に可愛がられていた。
  それをどこからか見ていた丹蔵が、あるとき声をかけた。それからも毎朝決まった時刻にやってきたから、時を経て、いつのまにか奉公ということになった。
  ただ伍吉は、無邪気に過ぎて、ときどき客に礼を欠くときがある。
  もちろん、だれかを不機嫌にするわけではない。よくいる子どものような、大人の顔色を見て動く機敏さや利発さは持たないが、そこがまた丹蔵が大いに気に入っているところでもあった。
  一般に商家では、手代あたりが直接当主とは口が利けないように、丁稚が番頭に声を掛けられることもない。が、灘屋にそんな取り決めはなかった。
  二番番頭の忠三郎とて大層に伍吉を可愛がる一人なのだが、一度、これからの伍吉のしつけ方について丹蔵に尋ねたことがある。
  丹蔵が返した答は、わざわざあの子のよいところを消すこともないだろう、といったものだった。いずれ商人として厳しく教える日が来るのだから、しばらくは放っておこう、と丹蔵は目配せをした。
  忠三郎は満面の笑みを浮かべて引き下がった。

  権次は毛頭、そんなことがあったとは思ってもいない。
「おめえ、そんなにずけずけものを言ってたんじゃ、この先いくつになっても手代どころか、手代見習いにもなれやしねえぜ」
「そんなあ。くっくっく、よく言うよ。おじさんでも十手をもらえたのに」
「そう言やあ、そうだ。おれだってそう思わねえことも……ん? 待てよ。こら伍吉、いちいちおれを引き合いに出すんじゃねえ。とんでもねえ小僧だ」
  小僧を見返した拍子に、同心から耳打ちされていた役目を思い出した。
  権次は急にあらたまって、他人の家の丁稚に、いいから座れ、と指図した。
「ところでよ、伍吉」
  権次が膝を乗り出す。
「昨晩のことだが、こちらの旦那と番頭さんはお出かけじゃなかったかえ」
「そうだよ。日暮れ前にそろってお出かけになったよ」
「で、いつごろもどったんだ。様子はどうだったえ」
「さあ、そんなのわからないよ。先に休んでていいと聞いていたし、丁稚がそうそう奥の部屋まで行けるわけがない」
  それよりさ、と伍吉が話を転じた。
「おじさんこそ昨晩は、おとなしくしてたの」
  話を振られると、あっさり引きずられていくのが権次だ。
  他愛もなく引っかかった。
「それがよ、円覚寺のそばで遅くにちょいとした騒ぎがあってよ。で、おれさまが草臥れておもどりになったというのに、女房の奴はよ、石町の釣り鐘みてえな大いびきで迎えやがってよ。おまけに、でけえけつは丸出しだ。だからよ、ついついこっち  も……おっと、こいつは子どもの前で言うこっちゃねえか」
「ははははは。それでどっちの騒ぎも収まったの」
「へ? どっちって。ほかに、なんかあったか」

  灘屋の奥座敷では、筆頭番頭が同心と対峙していた。
「ごぶさた致しております」
「そうかえ」
  丹蔵の反応に戌井は肩をすくめた。
  突き出した唇に、そうではないだろうと書いてある。
「昨晩も会ったような気がするがな」
    鋭い視線を投げかけて、戌井が牽制した。
丹蔵は取り合わない。眉一つ、動かさないのだ。
「ちょっ。この店にやあ、どこ吹く風が吹いてやがるぜ」
  丹蔵はふだんとなにも変わらぬ泰然とした態度である。それでいて、戌井が吐き出す空気をしっかり肌で読み取っている。
  武士はだれもが右利きで、通りは左側を歩く。
  いざ戦となって行軍するときに、左右ばらばらに刀を差していたのでは、鞘と鞘とがぶつかってどうにもならない。平時は平時で、武士の魂たる刀が触れ合えばすぐにも立ち回りの争いが起きる。いわゆる、鞘当てである。
  いずれ命取りになりかねないから、武家に生まれた男子にわずかでも左利きの兆候があれば、寄ってたかって徹底的に右利きへと改造されるのだ。
  したがって武士が武士の家を訪ねたときは、刀は右膝がしらの横におく。とっさに刀の鯉口を切れない位置と角度に置くことで、襲いかかる意思がないことをあらかじめ相手に告げておくのである。
  戌井の刀は、しかし本人の左手の側にあった。
  町人相手にわざわざ右に置くこともないから、一概におかしいとは言えないのだが、武士というものは本来それが習性となっているものだ。
  丹蔵はそこを見逃していない。
「まあいい。ところで昨晩、伊丹屋と摂津屋が襲われたってのは耳にしているな」
「摂津屋さんのお怪我に大したことがなく、なによりでした。今朝早く、お報せがございました」
「連中とは、いつ別れたんだえ」
「円覚寺のそばで、仲間うちの会合がありましてね。大いに盛り上がりまして、お開きになったのが、さあ、かれこれ五つ(午後八時ごろ)時分でしょうか。ですが、当家の主がめずらしく忘れ物など致しまして、みなさまにはひと足先にお帰りを願ったような次第で」
「そうかい、主が忘れ物をな」
「さようで」
「が、女将の話じゃ、忘れ物はなかったそうだ。すぐに追いついても、おかしくあるめえ」
「あるいは、みなさまとは別の道をたどりましたものか。十三夜とは申せ、しばしば雲がかかるようなあいにくの空でございまして。月乃家をお暇するころには、とりわけ見通しが……」
「おれが信じると思うかえ」
  戌井は庭先に目をやるような仕草をして、わずかに上体を左に傾けた。
  まさか商家の奥座敷で抜刀するとは思えないが、抜きやすい構えにはなった。
  丹蔵は傍にあった頑丈な拵えの算盤を膝の上に置いて、もてあそんでいる。
  筆頭番頭がじっさいに珠を弾いているところを見た者はいないと聞く。
「ところで番頭さん。おめえのその腕の太さには、惚れ惚れさせられるぜ。若いころから相当鍛えてきた身体つきだ。そう言やあ昨晩も、ちょうどあんたのような、屈強な体躯の男が襲撃の場にいたそうだ。それにもう一人、上背のある、細身ながらもがっしりとした若い男が控えていた」
「それは初耳です」
「……」
  筆頭番頭はあくまでしらを切るつもりのようだ。
  戌井は話を振った。
「一度その、仁王像みてえな、おめえの裸を拝んでみたいもんだ」
  丹蔵の目が光った。
  しかし一瞬光った目はすぐにやわらかくなって、和尚の表情にもどった。
「戌井さまもずいぶんと酔狂でございますな。まもなく爺いの仲間入りをしようかという、この私の身体なぞ……」
「酔狂だと。そうかえ」
  (おめえの肩や背中には、刀傷の二つや三つはあるはずだ。おれは騙せねえぞ)
  戌井の本音が、透けて見える。
「番頭さんよう、おめえ、これまで何人の男を殺したえ」
「…………」
  丹蔵は姿勢を変えるふりをして、畳に寝かせていた両の足の指をそっと立てた。瞬時に動ける体勢だけは担保した。
「返答なしか。まあいいだろう。ところで筆頭番頭さん、おめえ、その算盤は使えるの……」
  言いも終わらぬうちに、戌井が躍った。
  抜き打ちに、鋭い剣先が丹蔵の肩口を襲う。
  刹那、丹蔵の手にあった算盤が飛んだ。刀が出会いがしらに算盤を斬り割った。割れた拍子に、派手な音をたてて、無数の珠が畳の上を方々に滑っていった。
「無礼が、過ぎるぞ!」
  立ち上がった丹蔵が、一喝した。
  まさしく武士の構え、武士の貫録だった。
  戌井の野太い声が吠えた。
「おめえ、それでも商人かあ!」
  珠は畳の上でまだ回っている。
    廊下にすぐさま人が立った。物音を聴いて、廊下を滑ってきた二番番頭の忠三郎だ。
  丹蔵の着衣が乱れていないのを見て、床に片膝をついた。
「いえ、大事ありません」
  戌井はもう刀を鞘に収めている。
  丹蔵は忠三郎を帳場にもどし、あらためて衣服を正して戌井の前に平然と座した。
  何食わぬ顔で、戌井もこれに向き合う。
「わるかったぜ、丹蔵さん。これからは名前で呼ばせてもらおう」
  一応は謝ってみせたが、頭までは下げていない。
「おめえも相当なもんだが、おめえの主人もなかなかの器量のようだ」
「おかげさまで。いろんなことが見通せる、性根の据わった商人にございます」
「そうかい、そりゃよかった。また会うぜ」
  戌井はすぐに立ち上がる。来たときとおなじく一人でずんずん歩いて、着流しの裾がひるがえるのもかまわず出て行った。
「旦那あ、待っておくんなせえ」
  伍吉からなにも訊き出せなかった鬼やんまの権次が、あわててあとを追った。