
目次
第二十一回
うたげの夜
明暦二(1656)年も、すっかり秋めいてきた。
一連の問題が片づいて、しばらくは凪ぎのような穏やかな日々がつづいた。
今宵は、十三夜だった。
八月の十五夜が仲秋の満月を愛でる「先の月」なら、九月の十三夜は晩秋の名月を愛でる「後の月」である。十三夜とあって満月に二日足りないが、江戸の町人たちは足りないところを粋とした。加えて、どちらか一方だけを見る片見月はいけない、かなら ずおなじ場所で両方の月を見るのが正しい、としていた。
伊丹屋と摂津屋、笠置屋たちに新顔も加わって、その夜も恒例の、下り酒問屋による月見の宴が催された。
季節柄、八月は芋名月として里芋を供えるが、九月は栗を供える栗名月である。
月乃家では、月を望む二階廊下の欄干きわに、八月十五夜にあった上段の二個を取り払った十三個のお団子に添えて、青々とした毬付きの栗が供えられていた。
また階下では、詰めかけた客たちが心ゆくまで観月をたのしめるよう、燈籠の背丈を低くしたうえ、ふだんよりもいくぶん明かりを抑え、月見を邪魔することなく足もとだけをほんのり照らすよう、庭にも格別な配慮がなされていた。
なるほどここは、名の如く「月乃家」であった。
今宵は、久しく欠席していた河内屋半四郎の姿もあった。
初めはそれとなく遠目に様子をうかがっていた他の当主たちも、屈託なく振る舞う河内屋を見やって、もうよかろうと遠慮を脱ぎ捨てた。
「そうそう、平岩屋の番頭を厳しく咎めたときの摂津屋さんの口上は、まるで芝居を観るようだった」
と笠置屋が持ち上げてから、ひとしきり話題がそっちにいった。
「河内屋さんもそうだ。後ろのお二人はもう船酔いはおさまりましたかな、と言ってのけたそうな」
笑いが弾け、酒がはかどり、予定の刻限を過ぎてもまだ語り足りないほど、それぞれが上機嫌だった。
ただ市右衛門主従には、いささかの気がかりがあった。
奉行所の内与力と新参者である平岩屋が結びつくには、強力な橋渡し役がいなければならないが、その存在は杳として見えてこない。果たしてその男が黒幕だとしたら、かなりの力と器量をもった男であるはずだった。
もう一つ気になっているのは、下り酒問屋の動向がどこかから連中に洩れていたことだ。
とはいえ、集まった一人一人に疑念を抱くのは気持のいいことではない。ことさら探り出すつもりはないが、まったく放念してしまうわけにもいかなかった。
やがて宴は果て、再会を約してみんなが立ち上がった。大方の旦那衆の足もとが心もとなくなっていた。
玄関まで出たところで、つと市右衛門が立ち止まった。
万事を心得た丹蔵がすかさず、
「これはいけません、どうやら主が忘れ物をいたしましたようで」
丁重に断りを入れ、一統を先に送り出した。
迎えの家人や奉公人たちが差し出す提灯を道案内に、伊丹屋と摂津屋がゆらりゆらりと夜道を遠ざかっていく。
一行との距離を見定めてから、丹蔵が市右衛門を振り返った。
「油断がすぎるようですな」
「いささか、気になります」
平岩屋徳右衛門の動きは、あれからふっつりと止まっている。
徳右衛門自身のことも、儀助とか言った番頭のことも、なにも聞こえてこない。
問屋仲間たちはすっかり片づいたことと安心しきっているが、かれらがすんなり引き下がるとも思えない。河内屋の広間で、最後にこちらを睨みつけた番頭の儀助の目は、異様にぎらぎらしていた。
なによりその目が雄弁であり、このところの静けさは、却って不気味なものに映る。
どこかで動きが洩れていればの話しだが、主だった下り酒の連中が会した今夜あたりが格好の時と思われた。
伊丹屋たちは、商人としては芯が通っている。が、力まかせの戦いにはズブの素人である。かたや平岩屋が飼い馴らすならず者たちは、手練れである。
腕力だけではない。奴らの手口には騙しがある。
いきなり頭上に九寸五分の匕首を振りかぶられ、そちらに目を奪われていると、抜き身がないはずの左手で腹をえぐられている。
なんのことはない、匕首の上下を逆さにして鞘のほうを振りかぶるだけのことなのだが、大抵の素人はこれに引っかかる。敵を仕留めるためにはあらゆる卑劣な手段を講じるのが、奴らだった。
栗名月ではあったが、夜も更けてからあいにく雲が多くなった。
先に出た一行は、すでに闇に溶け込もうとしていた。
遠くでぼうっと提灯が宙を照らし出す、おぼろげな明るみだけが頼りだった。おそらく円覚寺の土塀に沿った道を歩いているのだろう。
そのときだった。
行く手の明るみの前を人影らしきものがよぎり、やや遅れて、複数の乱れた足音が伝わってきた。
市右衛門と丹蔵が顔を見合わせた。
「急ぎましょう」
さっと二手に分かれた。
市右衛門はまっすぐの道を行き、丹蔵は寺の境内を抜けて先回りする道を選んだ。待ち伏せをするなら、おそらくは寺の漆喰塀が途絶えた曲がり角のあたりだろう。追いつくまでには、まだ二町ほどの距離がある。
このとき伊丹屋たちの一行は、すでに得物を手にした無頼漢たちに踏み込まれていた。
「だ、だ……」
いきなり道を遮られて突き飛ばされ、叫ぶ間もなく首筋に一撃を受けたのは、横手から照らす提灯の明かりに導かれてゆらゆら先頭を歩いていた摂津屋だった。太り肉の大柄な体躯がいともあっけなく崩れ落ちた。
「あ、あ、旦那さまあ」
ともに倒された奉公人があわてて背を起こそうとするが、足が空を掻いてしまっている。
「あわ、あわ……」
奉公人の額からは、棒がかすめたか、血が滴っている。それを見せつけられた小僧に至っては、ぶるぶると震えるしかなかった。
「人違いをしないでくれ」
伊丹屋が声を振り絞った。
連中はどれも、どこから探してきたかというほどの悪相ぞろいだった。
最初は物盗りかと思ったが、それならばさっさと仕事を片付けて逃げる算段にかかるはずだ。かれらは、無言のまま、ただじりじりと輪をすぼめてくる。
恐怖が増していった。
背後から、坊主頭の男が命令した。
「わかっちゃいねえようだな。おい、おめえたち、もっとわかるように、こいつらの身体にしっかり言い聞かせてやるんだ」
そいつが頭目らしかった。
意を受けて、裾をまくり上げた細身の男がしゃしゃり出た。とたん、横から、
「やい、てめえら、小便ちびるんじゃねえぞ」
と声が飛んだ。
ごろつきたちから笑いが起きる。
苦笑いをした男が、棒切れを振り上げようと腕をまくった。夜目にもはっきりと入れ墨が見え、ひと目で島帰りと知れた。相手が震えあがるのを知った、計算づくの振る舞いだった。
そのときだ。
うぐっ。
鈍い音が聞こえて、島帰りの身体が伸びあがって棒立ちになった。たったいま、己の身になにが起きたのか、わかっておらぬようだった。
「こんな夜更けに道端で人を待っていたのでは、首のあたりが冷えるだろう」
闇から声が湧いて出た。
見れば細身の男の首に、丸太のような太い腕が巻きついている。その首がゆっくりとねじ曲げられたあとに、ぼうっと、しわだらけの顔が闇から滲み出た。
暴漢たちは、相手は商人だと聞かされていたから、ちょろい仕事だと舐めきっていた。
そこに思いがけない助っ人があらわれた。手ごわい相手のようだった。しかし、よくよく目を凝らせば、そいつも商人だ。おまけに戦える人数では圧倒的な優位に立っていた。
「なにをぐずぐずしてやがる、相手は素手だ」
声の主の坊主頭は、平岩屋があらたに呼び寄せた平蔵だった。
このとき、平蔵に目で合図を送られた浪人風の男が、楊枝を咥えたまま一歩踏み出してきた。近辺では見かけない顔だが、頬のところの肉がえぐり取られている。
「金銀の力に吸い寄せられたか。幾人か初顔が加わっているようだ」
浪人が突き出した楊枝の一寸先に、和尚のように温和な丹蔵の顔がにゅうっとせり出した。
笑っている。
この男だけは自分たちを恐れていない。
が、次の瞬間、その表情はみるみる変化して、赤みを帯びた鬼神のようになった。
浪人も子ども心に覚えている。戦のあったひと昔前には、こんな男が大勢いた。
討ち果たした敵の首を腰に巻き付け、血まみれで戦場を駆けめぐった武者たちが、ごく最近まで生きていたのである。
本気で殺し合ってきた男と、世を拗ねて生きているただのやくざ者とでは、おのずと持っているものが違う。丹蔵の血には、前者のそれが沁みついている。
あらくれたちが、あとじさった。
この凄みはなんだ。
やくざ者にも、こんなのは、いねえ。
じっと目を凝らしていた小男がはっと気づいて、
「あ、おめえは」
素っ頓狂な声を発した。
しまったと思ったが、もう遅い。わざわざ丹蔵を呼び止めたようなものだった。小男の額には、銭の倍ほども大きな黒いあざが見える。
「そうか、おまえだったか」
鉄砲洲の松林に潜んでいて、丹蔵に石つぶてを投げつけられた男のようだ。
振り返られて、三吉の足ががくんと折れた。
「そうだったな。さっき、小便ちびるなと言ったのは、確か、おめえだったな……」
男の首は亀のように、肩のなかにめり込んでいった。
そのとき、丹蔵の背に市右衛門の背が合わさった。
「いけません、人が来ます」
丹蔵がうなずいた。
「ひとまずは……」
答える間もなく、遠くからばたばたと慌ただしい足音が届いてきた。
「おめえたちー、そこを動くんじゃねえぞォー」
身体の前に十手を振りかざして駆けてくるのは南町奉行所同心、戌井謹之助の手先を務める鬼やんまの権次だった。
声が大きいわりに、なかなか近づいてこない。
後ろを、雪駄の金を響かせた南町同心が追ってきている。
丹蔵が提灯の灯を吹き消した。
あたりに闇と静寂がもどった。
ならず者たちの逃げ足は速かった。灘屋主従もまた、伊丹屋の耳もとに何事かを告げて、江戸の闇深くに溶けこんでいった。