
目次
第二回
月乃屋にて
暮れ六つ(午後六時ごろ)前の風は凪(な)いでいる。
日が傾いて凌ぎやすくなったはずだが、日中にしこたま焼かれた地面は、まだ火照(ほて)りが冷(さ)めていないようだった。
敷地の一部を円覚寺と接する「月乃家」は、草(ぞう)履(り)や足袋(たび)を汚さぬ程度に、通りから門口、そして玄関先へと打ち水がなされていた。
玄関の両脇に塩が盛られ、淡く朧(おぼろ)月(づき)を描いた空色の暖簾(のれん)が掛けられてある。
拡大をつづける江戸の町に客商売の店は多いが、上方と違って、夏用の暖簾に衣替えさせる店はまず見ない。
「月之家」が繁盛している一つの理由が、いくつかしつらえられた離れである。
離れに向かう客のために、入ってすぐの左脇に、飛び石を伝って奥へと通じる竹垣の小路がある。茶室に向かう露地のようで、ゆっくり歩いてほしいと願う主人の趣向でところどころに野(や)趣(しゅ)を残し、遠近を巧みに生かした変化をたのしませてくれる。
普請の新しさばかりがめだつ江戸の料理界にあって、さりげないこうした気配りがなされているところも、武家や大(おお)店(だな)の主たちから好まれる所以(ゆえん)だろう。
伊丹屋はこの家に、下り酒を納めていた。
酒問屋が納入先の料理屋を贔屓(ひいき)にするのは、当然のことだ。
常客というわけではないが、市右衛門たちも過去に幾度か通ったことのある小路を仲居の案内に従って進み、一番奥の離れの枝(し)折(おり)戸(ど)の前に出た。
「お着きになりました」
女が内に向かって声をかけた。
開け放たれた部屋に、いまだ現役の棟梁(とうりょう)のように精悍な伊丹屋宗助の細く引き締まった顔が見えた。もう一人、こちらはいかにも大店の主らしい、摂津(せっつ)屋(や)喜兵衛のふくよかな丸顔が隣にあった。
幕府が開かれて、あと三年で五十年の節目を迎える明暦二(1656)年のいまも、江戸に流入する人口は増えつづけている。
城下のほとんどが他国からの移住者で構成された、寄り合い所帯と言ってよかった。
いずれは上方に並ぶ一大消費地に発展していくのだろうが、魚や野菜などの日常の生活物資をのぞいて、調達が間に合わない。
消費の大半は、質の面だけでなく量の面でも、上方(かみがた)に頼りきっている。江戸の近郊を指す関(かん)八(はっ)州(しゅう)はすべてにおいて、大きく出遅れていた。
したがって大抵の江戸店(だな)が、これと見込んだ親戚筋の者や本家の二番番頭あたりを送り込んで切り盛りさせているように、下り酒問屋の先(せん)達(だつ)、伊丹屋宗助も大坂本家の当主ではなかった。
それでもかれは、歴(れっき)とした伊丹屋酒造の実弟であり、兄は江戸の弟にすべての決済をゆだねていた。
難題が生じるたびに、遠く百二十余里も離れた本家に伺いをたてていたのでは、江戸の商いが立ちいかない。本家からの絶大な信頼は、幼い頃から酒づくりの現場で苦労をともにするなかで、伊丹屋宗助自身が勝ち取ってきたものだ。
寒風が吹きすさぶ真冬の夜明け前、黙々と水を汲み、天秤(てんびん)棒(ぼう)をずしりと肩に食い込ませて、きしむ板の上を幾度となく往復する辛さは、いまも伊丹屋の身に沁(し)みている。寒気を取り込むために、あえて窓を北向きにした厳寒のなかで幾歳も作業をつづけてきたのだ。
だからこそかれは、酒づくりに人並み外れた愛情を注いできた。
江戸店をまかされ、酒を造る側から卸(おろ)す側へと立場が変わっても、品物を大事にする気持ちにはいささかの揺るぎもない。樽のなかの一滴一滴には、兄弟で流した汗と涙が混じり合っているからだ。
摂津屋とて同様だ。
扱い高と身代とが格段に大きいだけでなく、商いの筋を通すことにかけても、二人は際だっている。おなじ問屋仲間でも、風向きばかりを気にする他の下り酒問屋とは比較にならない気概をもっていた。
それゆえ下り酒問屋の当主たちはこぞって敬い、頼りにもしてきた。
その二人が、よんどころなく灘屋主従に声をかけてきた。
相談事の中身にまるきり見当がつかないわけではなかったが、いずれ容易な話ではなかろうと推測された。
伊丹屋も摂津屋も、どちらも年齢は少しばかり丹蔵を下回っていようか。
「これは相済まぬことで、みなさま方よりあとになってしまいました」
市右衛門は廊下で軽く辞儀(じぎ)をしたあと、相談を受ける側ではあったが、ためらうことなく下座へとまわった。商いの先達たちを前にしても、背筋をまっすぐに、へりくだった様子はどこにもうかがえない。
しぜんで、さわやかな振る舞いだった。
伊丹屋がこれをしっかりと受け止めた。
つづいて丹蔵が後ろに控えた。
つと摂津屋が腰を浮かせた。
「そんなところに控えられては、丹蔵さん、わたしどもが礼を失します。ささ、ずっと、ずっとこちらのほうへ」
二人の丹蔵に対する扱いは、酒問屋の一番頭としてのそれではない。同業の当主に対するものとも違う。
市右衛門が知らない過去に、こうなるいきさつがあったのだろう。
市右衛門と丹蔵は商家の主人と奉公人の関係だが、伊丹屋と摂津屋がそれで得心(とくしん)しているわけではない。
ことに丹蔵は、これまでに自分たちが出会った男とはまるで違っていた。
商人にしては口数が少なく、だからと言って腰が低いわけでもない。帳場で算盤(そろばん)を弾いているところを見た者はいないともいう。
それでいながら、灘屋を有力な下り酒問屋に押し上げてきたのだ。
下り酒仲間を束ねる二人でさえ頭を抱え込むような難題も、わかりましたと、躊(ちゅう)躇(ちょ)することなく力を貸してくれた。以来幾度となく、いざとなれば頼ってもきた。
商人というよりは、むしろ筋金入りの武士の印象すらある。
いずれよんどころない事情があるのだろうと見当をつけながらも、伊丹屋と摂津屋は口に出せないでいる。
「お二人を前に、いまさら繰り返すことでもありませんが」
摂津屋がもう一度、丹蔵を誘った。
「晴れて市右衛門さんをお迎えになるまで、ずっと灘屋を切り盛りしてこられたのは丹蔵さん、あなたです。大恩(だいおん)あるお方のたいせつなお血筋とはいえ、苦労に苦労を重ねて築きあげた灘屋の当主の座を、あっさりとお譲りになった。見ていたわたしどもは呆気にとられるとともに、そのご器量によくよく感服させられました」
丹蔵は苦笑しながらも無言を通し、すんなり二人が指し示した場所に従った。
離れのまわりは人払いがなされている。
膝前(ひざまえ)にあるのは、蓋(ふた)つきの茶碗だけだ。
「本日はわがままを申しました」
伊丹屋があらためて詫(わ)びを言い、ぐっと息を呑み込んでから、本題に入った。
「一昨日、地廻り酒の平岩屋さんが、お奉行所の意向として、株仲間の創設を持ちかけてまいりました」
伊丹屋は誤らぬよう、一語一語を区切りながら、事情を告げた。
組合設立の動きは予想されたことだ。
平岩屋と行き合ったのは、きのうの明け方だった。向こうから声をかけておきながら、当の平岩屋はなにも告げなかった。
が、話の途中で割り込むことはしない。
伊丹屋は、「奉行所の意向」のところで力を込めた。
そこに問題の根があると判じたからだ。しかし、目の前の灘屋主従は眉一つ、ぴくりとも動かさなかった。
伊丹屋と摂津屋はあらためて意を強くした。
「将来、お上に納める冥(みょう)加(が)金がいかほどの額になるのかは、まだわかりません。しかし、この一件が通れば、限られた一部の者だけで独占的に商いができることになります。もちろん仲間内には、大いに歓迎する者が出てまいりましょう」
摂津屋が何度も大きくうなずいている。
ここで伊丹屋が茶碗の蓋に手を伸ばした。
あとは摂津屋さん、あなたにおまかせした、ということだ。
「わたしども商人はだれしも、物心がつくころから『うまいものは少人数で喰え』と教わってきておりますからな。株仲間の創設は、まことにその言葉どおりでありまして、表向きはいかにも結構な話に聞こえます。ただ実際はとなると、じつにきな臭い……」
摂津屋が唇を曲げた。
「平岩屋にはもっと別の、大きな企みがある。間違いありません」
ふたたび伊丹屋が、引き取った。
株仲間が結成されれば、先行している商人が断然の優位に立つのは間違いのないところだ。あとから追いかける者には、大きな参入障壁(しょうへき)となる。
しかし、利にさとい平岩屋の狙いはそれだけではないと、座のだれもが直感していた。
江戸に限らず、酒好きはどこにでもいる。
とはいえ物流が発達していない時代には、まずいと知りつつ、近在の手近なものを呑むしかなかった。最上等とされる下り酒は上方のものだから、大名や豪商でもなければ江戸で口にすることはかなわない。
下り酒の初期は、大坂摂津の伊丹と池田で醸(かも)されるものが大半だった。
のちに大坂一の豪商にのしあがっていく鴻池(こうのいけ)家も、元は伊丹に近い鴻池村の出だ。
山中鹿之介幸盛の長男であった幸元は鴻池村で成長し、元服したのちに刀を捨て、商人として身を立てるべく鴻池新六と名を改めた。
最初の仕事が、酒造りだった。
当時の酒は濁(にご)り酒である。
ところがある日、主の新六にこっぴどく叱られた下男が腹いせに、大事な酒桶のなかに灰桶の灰を投げ込んで姿をくらました。
新六が溺愛する娘の鼻の下に大きく八の字髭(ひげ)でも書いておきゃいいものを、腹立ちまぎれに余計なことをしてしまったがために、結果として主人の家の発展に大きく貢献することになる。
翌日、そうとは知らぬ家人たちが桶のなかを覗(のぞ)くと、そこには見たこともない清く澄みきった液体があり、柄杓(ひしゃく)で汲むと馥郁(ふくいく)たる芳香を放ったという。
清酒誕生の逸話である。
実際にはそれより以前、遠く室町時代に奈良の正(しょう)暦(りゃく)寺が造る透明度の高い僧坊酒が人気を博していたと古書は伝えている。鴻池の話はいささかできすぎで、同時期にほかの地方でも清酒をつくる工夫はなされていたようだが、江戸に幕府が開かれる四年前、慶長四年(1599)に鴻池新六が清酒の江戸積みをはじめたことは記録として残っている。
下り酒の嚆(こう)矢(し)であろう。
もともと新開地であった江戸では、美酒にはほど遠い、関八州を地盤とした粗末な「どぶろく」が当たり前であったから、これに我慢がならない諸藩の大名たちは、所領地で醸(かも)される地元の酒をわざわざ陸路で運ばせていた。
元和五(1619)年にようやく菱(ひ)垣(がき)廻船が生まれ、木綿や油、酢や醤油とともに上方の酒が海上を通って江戸にもたらされるようになると、購買力のある大名旗本や一部の富裕商人たちに支持され、たちまち酒に目のない男たちの喉(のど)を掴んでいった。
少量の輸送では間に合わず、鴻池新六は馬の背の左右に一樽ずつ運べて輸送効率のよい、四(し)斗(と)樽(だる)まで考案した。
やがて海運業へと乗り出して全国に鴻池の名を広め、さらには両替商へと拡大していくように、さほどに下り酒の人気は凄(すさ)まじかった。
まともに影響を受けたのが、醸造技術で数段劣る、旧来の関東地廻りの酒問屋である。
おなじ酒を扱いながら、下りものではない、つまり「くだらない酒」との汚名まで着せられてしまった。
両者の間にはいつしか深い溝ができていた。
平岩屋徳右衛門はその間隙を縫い、劣勢に立つ地廻り酒問屋を代表する新興勢力に上りつめようと暗躍していた。
奉行所の威光をかざしてでも、いまここで下り酒に規制をかけておかなければ、取り返しがつかないほどに差は開いていくだろう。
市右衛門と丹蔵が見交わした。
その先で、下り酒の利権をそっくり我が手に奪い取る。
平岩屋の狙いはまさしくそこにあると思われた。