わい
わいがや倶楽部

たぶん、サイトで初めての、
連載時代小説。

第十八回
奉行の敗北

  神尾[かんお]備前守の怒りは、尋常[じんじょう]ではなかった。
  御殿坊主がこっそり耳打ちしてくれたところでは、酒井雅楽頭では先任老中たちに歯が立たず、頼みの松平伊豆守は歯痛で反論すらしてくれなかったらしい。とくに後者は冷徹な男だから、今頃は神尾も終わったなとうそぶいているかもしれない。
  幕府開闢[かいびゃく]以来、およそ五十年の時が流れている。
  ここまで公儀は、なんであれ、同業者同士が結束して利権を自由にすることを恐れた。ために組合の設立を拒みつづけてきたが、いつまでも昔ながらの統治にこだわっていては行く末が見通せない。財政を預かる者たちから、すでにそういう意見がちらほら出始めている。
  老中二人も、同様の考えを持っていると聞いていた。
  だから自分では、押し通せる、と踏んだのだ。
  が、人生最後半の勝負は、初戦でいともたやすく交わされた。
  残りわずかとなった白髪を掻き集めた申しわけていどの[まげ]のおかげだろうが、ふだんの神尾備前守はいかにも温厚で、茶の湯をたのしむ欲のない老人にも見える。
  が、この日の神尾は違った。
  色白の顔面を真っ赤にたぎらせて下城すると、内与力を呼べと、いらだった口調で家臣に命じた。
  すっ飛んできた若党の狼狽[ろうばい]ぶりに、内村は一瞬にして事情を呑み込んだ。
  執務部屋の襖を開けるなり奉行は、座布団を後ろに跳ね上げて、内与力に詰め寄った。
  刀掛けの下段に架けてあったはずの大刀は、すでに神尾の左手に握られている。
「そこに、直れ!」
  襖を閉じる間もなく、触れんばかりの近さに奉行の白足袋があった。
  頭上で激しく面罵[めんば]されているのは確かだが、神尾の舌がもつれてよく聴き取れない。
  しかしいまは、嘘でも畳に額をこすり付け、哀れなほどにひれ伏すしかなかった。
「なにとぞ、なにとぞご容赦を……」
  すべては思惑どおりに運んでいたから、内与力は奉行に進言した。
  少々やりすぎたかもしれないが、勢い余って太鼓判まで押した。
  が、おれだけがわるいのでもない。
  手抜かりを厳しく指弾されながら、あんたもおなじ夢を見たんだろう、との思いが喉元までせり上がってきている。
  が、それを言ったとたん、頭上の刀が下りてくる。
  ただただ、這いつくばるしかなかった。
  このまま時間を稼げれば、なんとかなるかもしれない。
  そう念じていたら幸いなことに、血が上ってめまいを覚えたか、神尾は崩れ落ちてようよう脇息にすがりついた。
「ええい、下がれ。追って沙汰する」
  とりあえず、手討ちだけは[こうむ]れた。どこかにほっとする自分がいた。
  命さえあれば、まだまだ二の手三の手があると、心の内で考えていたからだ。
  ただ、それで終わらなかった。
  閉じた襖を突き抜けて、
「このまま内与力でいられると思うな」
  奉行の捨て台詞が刺さってきたのだ。

  内与力は、奉行の私的な家臣である。
  陪臣にとって、主人からの愛想尽かしは、[さむらい]を捨てろと言われたに等しい。
  すぐにも起死回生の手を打たなければならなかった。
  内村は矛先[ほこさき]を、平岩屋徳右衛門に向けた。
  ところが平岩屋を訪ねてみると、あろうことか、頼みの下り酒問屋の乗っ取りにも失敗していた。
  内与力の座が危うくなったうえに、金づるまでしぼんで、内村もまた怒りが倍に[ふく]れ上がった。
  にもかかわらず平岩屋は、謝罪をするどころか、逆に奉行所に対して下り酒問屋の扱い高を減らすためのさらなる手助けを申し出る始末だった。
  負け戦に手を貸す阿呆[あほう]はいない。
「この、身のほど知らずが」
  と一喝してみたが、みずからの敗北は明らかだった。
  おまけに平岩屋は、ならば今後は別のお役人さまにでも願ってみましょうか、とほざきおった。平岩屋は同心の戌井のことを言ったつもりなのだが、血が上っている内村は気づかなかった。

  平岩屋にとっても、河内屋での談判の結果は、はじめて味わう挫折であった。
  表向きは伊丹屋と摂津屋が相手だが、おまさが断じたように、下り酒問屋連中をここまで強く結束させたのは灘屋と見て間違いないようだ。
  奴らは徳右衛門自身の出自[しゅつじ]までも調べ上げていた。
「房州の塩田にいたころ……だと抜かしおった。許せるもんじゃねえ」
  平岩屋が背負った二百五十樽の下り酒の大半は、いまだ引き取り手が見つからないで寝かされている。
  地廻り酒問屋は産地との距離が近く、一時に多くを貯蔵しておく必要がなかったから、自前の蔵の数も、広さも、高が知れている。急ぎ空き蔵を手配したが、それらはもともと酒を貯蔵するためのものではなかったから、時を経るほどに酒の質は落ちていく。
  名のある有力な小売りたちは口裏を合わせたように、決まっておなじ返事を返してきた。いくら下り酒でも、夏に近い春酒だから
「半値なら」
  という条件だった。
  いくつかの問屋仲間を破滅させてきた平岩屋への意趣返しもあったのだろう。
  もちろん最初は[]ねつけたが、いくつかの[たな]を訪ねるうち、そうもいかなくなった。あらためて奉行所に助けを求めたが、沙汰を待つ身で出仕すらままならない内村は、怒りを通り越して鼻で笑った。
  本物の印形を隠していたのは奴らでも、貸し借りをでっち上げたうえ、結果として[にせ]の印形をつかまされたのはこっちだ。大っぴらにすれば、平岩屋が罪に問われかねない。
「どいつも、こいつも」
  そう言う平岩屋には、もう一つ気がかりがあった。
  番頭の儀助だ。
  あれ以来、奴の態度がきな臭い。
  房州にいたころ、まだ徳造と名乗っていた徳右衛門と儀助は、対等の立場にあった。
  儀助はあのころから、闇の世界と深くつながっていた。それを思えば、むしろ下風[かふう]に立っていたのは徳右衛門のほうだったかもしれない。
  しかし、先に金を握ったのは徳右衛門だった。
  平岩屋の番頭に引き上げてやってから、奴も少しは従うようになったが、徳右衛門から命令されることを嫌うのは変わらなかった。
  どこに消えやがったか、あれから儀助は寄りつかない。
  本所あたりの女郎上がりの女の宿に駆け込んだか。河内屋の広間での一件以来、奴のなかでなにかが弾けたことだけは確かなようだった。
  たしかに打撃は受けたが、平岩屋の資金はまだまだそれなりのものだ。自分がそうして生きてきたように、儀助がこちらの寝首を[]くことも頭に入れておくべきだろう。

  灘屋にくらべれば儀助の素性は知れているが、どっちにしろ生半可が通用しない面倒な相手だ。いずれ、荒技を使うことになる。
「旦那」
  襖の向こうに人影が立った。
「平蔵さんを、お連れしました」
  そうだった。思い出した。
  思案が定まらぬまま、ふと思いついて、昔から儀助とはそりが合わなかった平蔵を呼びにやらせていたのだった。
  平蔵もまた儀助同様に房州のころからの付き合いだが、奴は餓鬼の時分に人を傷つけてから、金銀[かね]のためならなんでもしてのける根の恐ろしい男になっていた。
  腕の立つ浪人を幾人も手なずけている、とも聞いた。
  徳右衛門は含み笑いをした。
  かれの復讐心はその夜、平蔵と向きあったことで、再びめらめらと燃えさかっていった。