わい
わいがや倶楽部

たぶん、サイトで初めての、
連載時代小説。

第十七回
おまさの訪問

「なら、あたいが行ってきてやるよ」
  しゃっと、衣が畳を擦る音がした。
  ああだこうだと[らち]もない男たちの会話に愛想を尽かし、きつい目でこちらを振り向いたのは娘のおまさだった。
  女のまなじりが吊り上がっている。
  平岩屋徳右衛門はわが耳を疑った。
  いまや常陸屋の女主人におさまっているが、まだまだ世間知らずとあなどっていた娘のおまさに、賭場の女のような言葉を投げつけられたからだった。
  父親と、父親を取り巻く男たちは呆気にとられて、一斉に振り向いた。
  そのなかに番頭の儀助はいない。
  奴はあれ以来、まったく姿を見せなくなった。それもあってか、男たちの話は一向にまとまらない。
「えっ、おまさ。いや、おまささんよう。おめえがいったい、どこへ行こうって言うんだ」
  一人が問うた。
「やれ伊丹屋だの、やれ摂津屋だのと、さっきからかしましいがね、おまえさんたちはどんな見当を付けているんだい。おかしくって、歌っちまうよ。どう見たって相手はあの二人じゃない。情けないね。みんなして本物の敵がだれかもわかっちゃいない」
「なら、おめえは、だれが本筋だって言うんでえ」
「三吉、そのうす汚い額の凹みは、だれに付けられたものだったかね。霊岸島の松林の陰に隠れて、だれかに石[つぶて]を見舞われたのじゃなかったのかえ」
  名指しされた三吉が、おもわず額に手をやった。
「な、なんだえ。相手は灘屋だとでも言うのかえ。……まさか、奴らがそっくり連中を動かしているとでも言うのかえ」
「そうさ、まず間違いないだろうよ」
  一時は腐り果てていた河内屋が、ぎりぎりまでだまされた振りをして、寝返った。
  だれかが裏で資金を出し、肝煎[きもいり]も含めてあらかじめ印形を確かめ合い、周到に上方へも手を打ったことは疑いようもない。
  完璧に嵌めてやったはずだった。ところが連中は力で対抗してくるのではなく、智恵と才覚でおれたちを逆に嵌めやがった。並みの器量じゃない。
  そいつはだれか。
  あの日河内屋の両脇に、後見人のように坐っていたのは伊丹屋と摂津屋だ。
  両者の身代[しんだい]の大きさは言うまでもない。人望もある。過去の奉行所とのやりとりや京大坂との深いつながりから言っても、たったいままで、あの二人が真ん中に坐っているものと思い込んでいたのだ。
  三吉はまだ首をひねっている。
「おれには信じられねえやな。伊丹屋たちにくらべれば灘屋は問屋として大きいとは言えねえし、京や大坂に本店があるわけでもねえ。でえいち、当主が若すぎらあ。背が[たけ]えだけの、やさ男じゃねえか」
  かあーっ。
  おまさが絶望的な声を発し、裾の乱れも気にせずに向き直った。
「どこに目を付けてやがるんだ、てめえは」
  発した啖呵に、こんどはおもわず父親が腰を浮かせた。
「おまさ。おめえ、いつから……」
  が、娘はひるまない。
「やい、三公」
「へっ」
「その奥まった目ん玉を、もそっと前に出しやがれってんだ」
  だいたいあんたたちは、と一旦区切っておまさはつづけた。
「いっとき灘屋を付け回したわりには、肝腎のことはなんにも掴んじゃいない。主と番頭の出自はどうなんだい。後ろ盾はいるのかえ。屋敷のどこに、どんな男たちが、どれだけ詰めているんだえ。間取りはどうなっていて、忍びこみやすいのはどこか。金蔵がどこにあって、どんな武器を隠し持っていやがるのか。奴らの泣きどころはどこなんだい。そんなことも一切わからないで、あの武家上がりたちに勝てるつもりかえ」
「なんだって、おまさ。灘屋は、元は[さむらい]か」
  徳右衛門が慌てた。

「お父っつあん、そんなことさえ気づいてなかったのかえ。少なくともあの若い当主と番頭と、それに手代の幾人かもそうだろうよ。ああ、手ごわいよ。だからあたいが灘屋に乗り込んで、多少とも調べ上げてきてやろうというのさ」
「女が行ってどうなる」
  横槍を入れたのは、[ひげ]まみれの浪人だった。
「どうもこうもなりゃしないさ。それでもさ……」
「なら、おれが[]いていってやろうじゃないか」
  この男もさっきから二の腕をさすりながら、ちろちろおまさの腰のあたりを盗み見ては舌なめずりをしていた。この手の男に共通することだが、金と女にはすこぶるだらしがない。
  腕力ばかりが強いから身内からは剛力[ごうりき]などと呼ばれているが、いかんせん連れていくには悪相に過ぎる。
「よしてくんな。おまえさんの面相じゃ、[はな]から強請[ゆす]りたかりの討ち入りじゃないか」
  ちょっ。男が口の端をねじ曲げた。
「いつのまに、そんな口の減らねえ女になりやがった」
  剛力はへそを曲げたが、いまのご時世、ほかにそうそう飯の種が転がっているわけもない。つまらぬことで金づるの娘に逆らうのも勘定に合わないし、下膨れのおまさをあきらめたわけでもない。
  しかしよう、と三吉が言いかけたところを、あっさり[さえ]られた。
「なるほど、おまさ。おめえの言うとおりかもしれない。敵を知っていて損はない。やらせてみるか」
  平岩屋が断を下した。

「はいはい、お邪魔しますよ」
  二日後の朝だった。
  灘屋は、日本橋川の下流につづく南新堀河岸にある、中[たな]である。
  間口が二十間以上もある日本橋尾張町や室町あたりの大店ほどには広くない。表通りに面した部分はせいぜい幅十二間ほどで、玄関のほぼ中央に四間分の大戸を構えていた。
  酒問屋としては小ぶりであっても、屋敷の外から見たところ、奥行きは倍の二十五間ほどもあって、敷地は優に三百坪を超えるだろう。
  おまさはざっと周囲を見渡したのち髪を寝かせつけ、灘屋の門口から[もっと]もらしく[おと]ないを入れた。
  一見したところ、それなりの商家の嫁とも見えるつくりようだが、それにしては髪型や物腰、身に着けているものの色合いや柄に、いかにも急ごしらえの、どこかちぐはぐな印象がまとわりついていた。
「これ、そこのおまえ」
  近くでぽかんと見上げていた前掛け姿に、女は遠慮もなく指を突き出した。
「はあーっ?」
  ちょいと済まないがとか、わるいがそこの小僧さんとかの断りもなく、初見であっさりおまえと呼び捨てられたから、丁稚の身とはいえ伍吉もむっとして、つい頬を膨らませた。
「はあ、じゃないだろう。なんだか図体ばかりが大きくて、[にぶ]い子だねえ。いいからさ、近くの常陸屋の女将[おかみ]さんがごあいさつにまいられましたと、こちらのご主人に取り次いでおくれ。わかったかい。わかったのなら、さっさとお行きよ。さ、さっ」
  畳の上のちりを払うように、指の先で伍吉を追い立てた。
  店に入った丁稚の声に聞き耳を立てたあとのおまさは、すぼめた口を突き出したまま、あっちこっちに視線を走らせている。
  その様子を、帳場格子のすき間から二番番頭の忠三郎が見ていた。
  特定の顧客をのぞいて灘屋は小売りをしないから、立派な店構えや客の気を引く飾りたては必要ない。仲士たちが奥まで一気に酒樽を運び入れるだけの間口と、荷捌[にさば]きのしやすい広い土間、あとは荷車で土間を傷めぬための板や[むしろ]などがあれば事足りる。
  おまさは主の出を待つ間、所在なげにうつむいてみたり、身体の向きを右に左にと振って辺りをうかがっている。
  忠三郎は気づかぬふりをした。
  おまさ自身が蔵元に一度、酒問屋にもう一度嫁入りし、そのまま主におさまった女だ。酒問屋なら、およその見当はつくはずだ。
  どこでもそうであるように、玄関をくぐった正面に帳場のある広座敷がある。
  向かって左手には広々とした土間が待ち構え、その右端から通路が始まる。たぶんそこから、奥の酒蔵へとまっすぐにつづいているのだろう。
  通路の中ほどにはきっと、がっしりとした厚板の階段がしつらえられ、住み込みの仲士たちが起居する二階へとつづいているはずだ。
  昔の常陸屋もそうだったらしいが、上方からの弁才船が江戸に停泊している間は大勢の水主[かこ]たちも一緒に寝起きする。大柄で屈強な男たちが、入れ替わり足を踏み鳴らして駆け上がるのだ。びくともしない強固な造りが通り相場だ。
  外から見た印象では、おそらく奥の蔵から庭をはさんだ向かいあたりに、主人や番頭たちが暮らす母屋があるのだろうが、ここからは窺えない。
  もうひと息、土間からつつっと通路に踏み出そうとしたら、
「お客さま」
  帳場の男が立ち上がった。
「常陸屋さま、でございますね。どうぞこちらへ、ささ、こちらへ」
  引き戻されておまさは、軽く咳払いをするように顔を背けて口を尖らせたが、すぐに向き直ると、最前の顔はどこへ行ったかと思うほどのつくり笑顔を満面に浮かべて、二番番頭が示した上り框に悠然と腰を下ろした。

  女にはもう一人、お[たな]者が付いてきていた。
  奉公人らしいその男は、商人らしくお辞儀こそ丁寧だが、そのじつ顔が笑っていない。表情の暗さに覚えがあって、そういえば繁造とかいう、常陸屋に乗っ取られる前の伊勢屋にずっと奉公していた男だったと、忠三郎は思い至った。
  繁造は、きまりがわるそうに目を伏せていた。
「せっかくお越しいただきましたのに、ただいま主人には別のご来客がございまして、あいにく手が離せません。前もってお知らせをいただいておりましたでしょうか」
  わかりきったことを尋ねた。
「いえね、突然ではありましたけど、お近くだからいいかと。はははは……でも、なんだね、いきなりでわるかったようだね」
  商家の女将らしく振舞っているつもりでも、稽古が足りないから、すぐに地金が出る。
「いえ、そのようなことはございませんが、むしろお客様のほうに、このようにご無礼にあたることもございますので」
  番頭の立ち居振る舞いに隙がなく、客あしらいも如才ない。平岩屋や常陸屋あたりの新興の酒問屋とは、そもそも奉公人の出来が違っているようだ。
  そのとき、おまさの目線が忠三郎から離れ、首だけがそのまますうっと真横にずれた。
  茶を入れ替えた女中が襖を開けて手前の部屋から出てきたのだが、そのさいに灘屋の若い当主のすっきりとした背中が見えたからだ。
  手前の小部屋に通すくらいだから、どうせ大した客ではないのだろうと思いつつも
「じゃあ、出直し……ますかねえ」
  なおも未練たらしく、視線の先に向かって語尾を釣り上げた。
  期待はしていなかったが、このときほんの一瞬、当主の市右衛門が玄関先を振り向いて、軽く頭を下げた。
  あれっ。
  主はすぐに客との話にもどっていったが、妙なことに、おまさの胸がぐらついた。
  表情が、崩れている。
  あ、そうだった。
「繁造、おまえ、さっきからお腹が痛いとか言ってたね。このあとまだ寄るところがあるんだから、なんならこちらで[かわや]をお借りしてはどうだい」
  おまさは繁造に、半ば決め事のように言いつけた。
  忠三郎がこの場を立ってくれれば、おまさが動ける。
  立たなければ、繁造が代わりに探ってくる。
  さて、どうするかと思ったら、二番番頭が手代を呼んだ。
  ご案内いたますと断って、急に腹を押さえはじめた繁造を若い手代が、どうぞこちらへ、と連れていった。
  繁造は厠に入りこんだ。
  格子窓からあたりを見回そうとしたが、高い垣根が前を遮っていた。うんうんと唸り声を発しながら、だれもいないか、厠の外の気配に耳をこらした。
  物音一つしない。うなずいた繁造はそれでも数瞬待ったのち、こっそりと戸を開いて、来たときとは逆の方向へと足を向けた。
  見たこともない造りの商家だ。
  敷地から考えて、どう見ても庭を挟んで奥の離れへとつづいているはずの廊下側の戸が、くまなく降りている。庭を見渡せないどころか、廊下を曲がったすぐ先も見通せない。まるで迷路のような不思議な造りだった。
  上方あたりのごく一部の裕福な家には、かすかな傾斜を利用して、指一本でまたたくうちにすべての雨戸が閉じてしまう特別な細工がほどこされているものだが、火事が多く、したがって安普請の多い江戸しか知らない者には、皆目、見当がつかない。
  やむなく突き当たりを左に折れようとしたら、長い廊下のまん前に、さっきの手代が笑みを浮かべて立っていた。
「どうやら方角をお間違えになられましたようで。玄関はそちらです。ささ、私がご案内いたしましょう」

  抜き打ちに訪ねてみたが、灘屋は隙がなかった。
  外から見える以上のことは、なにもわからない。やはり尋常じゃない。それを確認できたことが唯一の収穫だったと、思うしかなかった。
  平岩屋徳右衛門の前で、繁造にひとしきり報告をさせたあと、
「まともなやり方じゃあ、らちが明かないよ」
  おまさは父親に言い残して、お茶を引いたあぶれ女郎のように腰を振り振り階段を上っていった。
  たぶん、昼寝でもするのだろう。