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第十六回
対決
翌朝は青々と晴れ渡った、小春日になった。
いい目が出るだろうよ。
朝四つ前になって、平岩屋徳右衛門が灰吹きに煙管の雁首を叩きつけた。
平岩屋がだまし取った
仲秋を過ぎて、実が赤く熟するにしたがって、葉も負けじと赤く色づいている。葉はすぐに散り染めるから、あとひと月もすれば、梢には赤い柿の実だけが照ることになる。
そんな一瞬の葉の見事さを惜しんだ元の主は、もうここにはいない。
竹筒が割れんばかりの雁首の音とともに無粋な男たちが一斉に立ち上がり、最後に平岩屋が、でっぷりとした重い腰をあげた。
通りの左右にも、赤や黄に色づきはじめた木々が、家々の板塀の上から手を差しかけている。その下を、よからぬ風体の男たちが大股歩きで通りすぎていった。
むろん、行先は河内屋だ。
たいそう大柄な男たちばかりだから、河内屋にはすぐにも行き着いた。
意外なことに店先の荷は砂埃を払われてまっすぐに積み直され、あたりは
荷が崩れ落ちて道行く人に怪我をさせてもならないと、どこの店でも気をつけてはいるが、以前の河内屋はそんな気配りすらできていなかった。
「見ろい。奴もようよう、商いにやる気を出したようだぜ。だがよ、ちいとばかり遅すぎると思わねえか」
立ち止まった番頭の儀助が後ろを振り返り、鼻で笑って吐き捨てた。
先乗りを命じられた手下が勢いよく、単衣の裾をまくって河内屋の表から飛び込んだ。
「おう、平岩屋さまがお見えだ。ちょいと上がらせてもらうぜ」
いかにもいかがわしい五人の男たちが横に並んだが、しかし河内屋の奉公人たちは顔を
なんでえ、なんでえ。
いささか勝手が違ったか、連中は一瞬眉を曇らせたが、すぐに小馬鹿にしたような素振りにもどると、足もとの
廊下は隅々まで磨き上げられ、射し込む日を浴びて光っていた。
襖と障子は、職人の手で張り替えられている。
ひと頃の陰鬱な
河内屋の女房は上方にいて、奥に女っ
赤い実は、ななかまどだった。
商家にはあざやかすぎる血のような色を見て、平岩屋の胸に突然、ぞくっとするような冷たい風が吹き抜けた。
沈みきっていたころの河内屋は、すべてがこうではなかった。
案内された部屋は、庭に面した中ほどの広間だった。
廊下にかがんだ手代が内に声をかけ、両手でほんのすこし障子を開いた。当たり前の商家の作法が、男たちにはもどかしかった。
手代にうながされて、平岩屋が一歩踏み込んだ。
が、そこから足が前に出なくなった。
さっき通ってきた玄関に、客のものらしい
ところが広間には、伊丹屋宗助以下、摂津屋徳兵衛、笠置屋仁兵衛、灘屋市右衛門などの、
「これはこれは、平岩屋さん。よいところに来なさった」
伊丹屋が口火を切った。
「な、なんだ。これは……」
意表を突かれて一瞬、平岩屋はたじろいだ。が、じろりと座敷を見渡したあと、いいだろう、とつぶやいた。
「いい折りだ。みなさんがおそろいならば話は早い。さっさと、
どっかと、河内屋の前に座り込んだ。
儀助も、主の後ろに控えることなく、隣に坐した。と、即座に、
「番頭さん、ここは当主だけの集まりだ。少々、控えてもらおうか」
摂津屋が厳しく
儀助は鼻で笑ったまま、聞き流した。
摂津屋が腰を浮かしかけ、これに応じようとした
「河内屋さん、これを見てもらおうか」
「はて、なんでしょう」
河内屋にずっとあった、負け犬の気配がない。こんがりと日焼けした顔がこれまでになく精悍に見えた。
「なんだとう」
平岩屋の眉間がみるみる盛り上がった。
ちょいと前には仏を拝むように手を擦り合わせていた河内屋が、いざり寄ってくるどころか、坐ったまま木で鼻を
たまらず儀助が割り込んだ。
「ようく見てくんな。この借用書にはおまえさんの
こうまで言っても、河内屋にまったく慌てる素振りがない。
「はて、どこに」
「ふざけちゃいけない。これは京に上る前にこちらが親切で立て替えた、二百両の
平岩屋の声がかぶさった。
どれ、見せていただきましょうと、横合いから伊丹屋宗助が手を伸ばした。
さっと一読して「ほう」とつぶやき、順ぐりに居並ぶ当主たちに書付をまわしていった。
紙片がまわるにつれ、くすくす笑いが起きた。
「なにを笑ってやがんでえ」
引きつったように、儀助がいらだたしい声を張り上げた。
「私の口から申しあげましょう」
伊丹屋が引き取る。
「河内屋さんの正式な印形は、京に旅立たれる前に、ここにいる全員が立会いのもとに摂津屋さんがお預かりなされて封印しました。ほれ、これが
場を沈黙が支配した。しわぶき一つ、聴こえない。
やがて、くぐもった
「ふっふっふ……ふわっ、はっはっはっ」
平岩屋のむくんだ顔面から、笑いが弾け出した。
笑いが止まらない。
儀助があたりを見まわし、満面に血を上らせた。
「そうかい。なら、出るところに出ようかい」
いきなり、伊丹屋に
刹那、儀助の太い腕は、いともたやすく
灘屋の主、市右衛門の右の手が伸びている。
さして力を入れているとも思えないが、利き腕を決められた儀助は息ができず、まったく身動きできないでいる。
片膝を立てたままの姿勢で、市右衛門が平岩屋を睨みつけた。
「平岩屋さん、ここにいる方々はあんたが房州の塩田にいたころ、いや、そのずっと前から江戸で商いをさせてもらっている。もとよりこの印形は私どもだけではなく、奉行所もとうから承知のものだ。それに京での仕入れは、京都所司代立会いのもとにきちんとしたやりとりがなされている。見るがいい。詳細はここに記されている通りだ。まかり間違っても、おまえたちの言い分が通ることはない」
別の手下が二人、素手の市右衛門に向かおうとした。
瞬時に丹蔵が
膝行とはいえ、走るがごとき迅速さだった。
腹の奥深くまで響く鈍い音が連続して、二人はそろって丹蔵の肘に顎を打ち砕かれていた。
あ、あう。
あうい。
声にならない。手のひらを差し出し、目で訴えた。
そこには、血に混じったなにかの塊りが見える。
「歯が、歯が……」
つぶやいた男二人が、力なく崩れた。
平岩屋が鼻をぴくつかせ、すごい剣幕で子分たちを
勝ち負けは明らかだった。
とうとう、こらえ切れなくなった。
平岩屋はやおら立ち上がると、
それを見た儀助が、色をなした。
「と、徳造、おめえ」
さっき捩じ上げられた腕はまだ自由が利かないが、ここまで来てあっさり立ち去ろうとする平岩屋の
おれたちは、おめえのために身体を張ってきたんだ。
なのに、なんで、ここで引き下がる。
頭目は開け放たれたままの襖の向こうに消えた。
「いずれ、あいさつはさせてもらうぜ」
儀助の怒りは、前と後ろに向いていたようだった。