わい
わいがや倶楽部

たぶん、サイトで初めての、
連載時代小説。

第十五回
八幡丸の帰港

  朝、品川沖に八幡丸が[いかり]を下ろしたと、[]らせがあった。
  弁才船はみな浦賀の船番所で積荷の検査を済ませ、通行の許可を得て、日和[ひより]を選んで一気に江戸湾をめざすから、品川沖に着くのは晴れた日が多い。
  江戸にもどっていた河内屋は鉄砲洲[てっぽうず]の浜に立ち、平岩屋徳右衛門の背後から帆を下ろした弁才船を眺めた。
  これからの思惑は違っても、互いに待ちに待った日となった。
  やや秋めいた風が、二人の足もとから吹き上がってくる。
  当時酒は、年に五度ほども醸されていた。
  新酒、間酒、寒前酒、寒酒、春酒である。
  上方の蔵元では、冬の間に集中して酒を造る「寒づくり」を模索していたが、従来からの、春から夏にかけての醸造も依然としてつづけられていた。
  もっとも、寒風が衣服を貫く季節ともなれば、夏場近くに醸された酒など、だれも見向きもしなくなる。新酒の時節までの需要を逆算して、京の酒造家が大坂経由で余剰分をまわしてくれていた。
  沖を見つめたきり、平岩屋は振り向こうともしない。
  猪首の平岩屋は、着物の襟で首が見えない。それでも肩の上げ下げで、しきりにうなずいているのがわかる。
「しかし、なんだね。河内屋さんもとうとう……いやなに、その、ふっふ、う、運が向いてきたようだね」
  一人笑いをこらえていた平岩屋だが、そのうちにどうにもたまらなくなったらしい。
「うわっはっは、はっはっは」
  あたりはばからず、豪快に笑いはじけた。
  河内屋は笑いに反応せず、感情を押し殺した声で答えた
「まったく、いまだ信じられぬ思いがいたします」
  さすがに気がとがめたか、平岩屋も笑いを引っ込めた。
「またぞろ難破をせぬかと、実のところは肝を冷やしておりました。縁起のわるい相手と承知で、手を差し伸べてくださいました平岩屋さまの、それは寛大なお心のおかげでございます。私にとりましては、仏さまのような、いやそれ以上の……」
「そうかいそうかい。そう思ってくれるなら、お手伝いをさせていただいた甲斐があったというもの」
「このご恩は河内屋半四郎、終生、忘れることはございません。この通り。な、な、南無……」
「これこれ、拝むのはよしておくれ。河内屋、私はまだ二本の足で立っているだろうが」
  どうせすぐに消えてなくなる男だと、腹の内でそう思っているから、冗談で返すつもりが、うっかり呼び捨ててしまった。

  平岩屋がここまで上機嫌である理由は、ほかにもある。
  このたびの成功によって、ようやく念願の上方との商いをはじめることができる。
  それはまちがいなく酒問屋の株仲間創設へとつながるであろうし、次回の新酒のさいにはさらに何倍もの大きな商いを、こんどは平岩屋が一手に引き受けられる。しかもそれが、この先ずっとつづいていくのだ。
  海は遥かに大坂へとつながって、おだやかな海上は大いなる将来を約束してくれているようだった。
  うっかり商売仲間を呼び捨てにしてしまったのは、商人として失態だ。が、わざわざ謝るほどの相手でもなかろうと考えた。
  ところが河内屋はそこに、男の真意を嗅ぎ取っていた。
  両の手こそ合わせてはいたが、ぎろりとひん剥いた目の奥には、消しようもない憎悪がめらめらと燃え盛っていた。

  ここまで平岩屋は、寸分の狂いなく事が進んでいると思っている。
  準備は万端に整えた。
  京に上る道中、河内屋には平岩屋から派遣された人相のわるい男たちが終始付きまとっているはずだった。
  が、道中怠りなく監視するはずの男たちは、悪の道には通じていても、弁才船で長旅をした経験が皆無だった。慣れない船旅で、品川沖から伊豆に向かう途中で早くもきつい船酔いに襲われ、荒れる駿河灘にかかるころには板底に張りついたまま、飯もろくろく喉を通らない有様だった。
  幾日経っても、どうにもならない。
  男二人がのたうちまわっているうちに、仲也と河内屋は着々と手はずを整えた。
  河内屋が仲也から手渡された紙片には、大坂から京に入ったあとの段取りと落ち合い先、互いの京の伏見の宿と訪ねるべき蔵元とが記されていた。甲板で何度となく話し合い、不安なところは、さまざまな成り行きを想定して詳細に打ち合わせた。
  変装はしていたが、船が着くまで、見張り役二人が仲也を見極めることはなかった。
  げっそりとやつれ、ほうほうの体で下船した男たちは、淀川づたいに京へと上るころになって、いささか元気を取りもどした。
  と言うか、気もそぞろになった。
  なにしろ京は、室町の終わりの頃より「面白の花の都や」と謳われてきた土地である。
  河内屋が蔵元へのあいさつまわりをはじめても、平岩屋の手代たちは初めて見る都の様子に浮き立っていた。
  江戸は女が少ないうえに、武家の町だ。武家の女は大抵が屋敷のなかにいて他出しないから、往来で見かけることは少ない。が、京の町は、武家を見かけることのほうが少なく、容子[ようす]のいい若い女たちがあちらこちらをふつうに歩いている。
[たま]らねえな」
  だからと言って相手をしてもらえるわけもないのだが、ついには物見遊山[ものみゆさん]に出かけたい気持ちを抑えきれなくなった。
  平岩屋がよこした二人は、商家の奉公人との触れ込みだが、もともとやくざ者に近い。京に着いてからはなおのこと、目付きのわるさと下品さが際だった。
  それでも、喜々として髪結に行く。名所を見てまわる。宿への戻りは遅い。
  仲也はその隙をついて蔵元と念入りに段取りを詰めた。河内屋は道中を通じて仲也への信頼を深めていた。いまだ正体こそ明かしてくれないが、仲也からは自分を守ってくれようとする気持ちがひしひしと伝わってきたからだ。
  酒造において新興勢力である京でも、すでに八十を超える蔵元があった。
  見張りの二人が同行しなかったことをいいことに、河内屋はあらかじめ平岩屋が示した蔵元は条件が厳しすぎたとしてさっさと見限り、仲也から教えられた別の[たな]を一緒に訪ねようと提案した。護衛といえば聞こえがいいが、事実はただの見張り役でもあった二人は、そっちに当てがあるならと、まかせた。
  訪ねた蔵元は友好的であったが、同席者の手前、今回は初回でもあり全額前金、しかも五百樽以上は無理だと言い張った。
  平岩屋徳右衛門は河内屋半四郎と等分に分けるとしていた。
  そうなると、片方が二百五十樽である。
  二人はぶつぶつ不平を言い[つの]ったが、
「売り先は、ほかにいくらもございます」
  酒の質がいいと河内屋が推薦した蔵元は、[がん]として引かなかった。
  そもそも上方には、酒問屋が存在しない。蔵元自身が、方々に小売り店舗を持っていたからである。したがってかれらは、江戸に販売する場合にのみ問屋を通す。
  通常なら、仕入れ金額の決定権も、販路を持つ問屋のほうが握っている。こんどの取引についても、あらかじめ江戸の灘屋からおよその値段の提示があった。さらに一行、折り合えないところは灘屋で引き受けるという文言が書き加えられていた。
  樽の数でもう少し折り合ってもよかったが、蔵元は知らぬふりを通した。

  酒の原料である米は、この国の人びとを支える食糧の第一であり、将軍家の旗本や諸大名の家臣たちに給金として支払われる、いわば貨幣同然のものである。
  豊作のときならまだしも、まずは食糧確保が根本であり、売れるからと言っていくらでも酒造にまわせるものではなかったから、醸される量にはおのずと限りがある。言いかえれば、上等の酒ほど売り先に苦労をしないということだ。
  関東の地廻り酒の蔵元からの仕入れ値は、原酒三斗五升入りの四斗樽[しとだる]一つで、横持ち代、つまり運送費込みでも一両に届かない。
  これが京の下り酒になると、仕入れ値だけで原酒一樽で一両二分を超える。
  額面だけ見れば、関八州の酒に比べてかなり割高である。
  一方で下り酒の上質は、過去の研究の成果と熟練の技術、そして遥かに手間がかかる製法によってもたらされたものである。
  おまけに蔵元は、書付にのっとって弁才船の船頭に渡す高額の回漕費、諸処の心付け、蔵での保管料、船と蔵を往復する人足の口銭などを負担させられるから、通しで見れば極端に高値[こうじき]だとも言えない。
  しかも売る段になって、下り酒はまったく別のものとなる。
  仕入れたあとの商品力が、とてつもなく違うのだ。
  通常、原酒は水で薄めて客に供する。
  下り酒の原酒は同量の水で二倍に薄めても、豊かな風味と馥郁たる香りを失わなかった。[はな]から、そうなるように造られている。
  が、関東の酒は、わずかに水を加えただけで、まずさが前に立ってくる。
  飲んだ先からすぐに醒めるから名刀の村雨になぞらえて、江戸の町人が「村醒め」などと揶揄[やゆ]する水っぽい酒は、ほぼこれである。
  下り酒の商品価値は、ここで決定的な差を生んでいる。
  平岩屋に遣わされた酒好きの二人は詳細には通じていなくても、下り酒が別格であることは心得ている。
  売り先はほかにいくらもあると突き放されて、押し黙った。
  江戸と上方では、酒だけでなく、商人の鍛錬も貫録も、数段に違う。
  折れるしかなかった。

  二百五十樽だと、それだけで三百六十二両と五分。
  片方がおよそ百八十両余である。
  平岩屋は、河内屋が用意できる金は五十両からせいぜい百両と踏んでいた。足らずの金は、二百両を限度として、それ以上の不足が生じたら河内屋の数量を下げるように命じていた。
  なにしろこの時代には、為替[かわせ]制度がなかった。
  江戸と上方の商売となると、すべて現金を持ち歩いてのこととなる。
  立て替えたところで、下り酒問屋一軒を二百両ていどで買えるなら安いものだが、それすらも平岩屋はあとからそっくり現物で取り返すつもりでいた。
  手代と浪人もそこを飲み込んでいたから、かんたんに承諾した。

  正式な取引は、京都所司代の役人立会いのもとに行われた。
  正しくはとうに所司代の勤務を辞して、いまや退屈を持て余す元役人の雇われ仕事にすぎなかったのだが、永年務めあげたことで貫禄において堂々たるものがある。
  平岩屋の手先が驚いたのは、そのあとだ。
  金銀[かね]の受け渡しの段になって、予想に反して河内屋は、河内屋の分として場に百八十両余を、そっくり積み上げたのだ。
「おめえ、そいつは……」
  見当が外れた手代は、一瞬、狐につままれたように口をすぼませた。
  しかし、驚いただけで深くは悩まなかった。持ち帰るのは難儀だが、立て替えずに済むなら、そのほうがなおのこと主には好都合だろうと判断した。
  河内屋は当然のように、落ち着き払っている。
  もとより金銀は大いに不足したが、足りない分は下り酒問屋の有志が等分に負担して仲也に託していた。もちろん、名前は明かされていない。
  有志のうち数人の見当はついた。
  伊丹屋と摂津屋は、間違いない。あるいは灘屋も入っているかもしれない。
  担保は、現物だった。
  河内屋に[いな]やはなかった。

  仕入れた荷が江戸に着いたのは、河内屋たちがもどった、およそ半月後だった。
  秋の気配が漂いはじめた午後に、平岩屋と河内屋が買い付けた酒樽五百樽を船底に積んで、八幡丸が品川沖に[いかり]を下ろした。
  河岸で待ち構えていた荷足[にたり]問屋から河内屋と平岩屋とに使いが走り、そろって鉄砲州で出迎えた翌朝には、屈強な仲仕[なかせ]たちの手によって慌ただしく荷が下ろされ、新堀川を「はしけ」と呼ばれる伝馬船[てんません]が駆け上った。
  河内屋に、久しぶりに活気がもどった。足りぬ人手は、問屋仲間が送り込んで助けた。なかに法被[はっぴ]を着替えた灘屋の荷受け差配、米之助以下の顔があった。
  平岩屋も初の下り酒が蔵に収まり、こちらも威勢がよかった。

  問題は、いつ平岩屋が仕掛けてくるかだった。
  じっと、そのときを待っていた。
  数日を経て、夜に入り、明朝四つ(午前十時)に平岩屋が訪ねてくると、河内屋の使いが灘屋に知らせてよこした。
「頼んだぞ、清四郎」
  手配りをした丹蔵が、唇をきゅっと結んだ。
  直後、清四郎が裏口から出た。