わい
わいがや倶楽部

たぶん、サイトで初めての、
連載時代小説。

第十四回
幕府の苦い記憶

「伊豆守どのは、どう思われるか」
  問われた松平信綱は、これはかんたんではないなと思った。
いつぞやの浪人問題での苦い思いが、ふたたびぶり返されるような気がした。問うた当人こそどう判じているのか、よっぽどそちらを先に聞きたかった。

  阿部忠秋が常々よく議題に上げるのが、上方に対する江戸の自立である。
  公儀は、考えのうえでは織田・豊臣時代からつづく経済政策を継承していた。
  これには、わけがあった。
  織田信長は安土[あづち]に楽市楽座を開くことで、公家や社寺などの荘園領主とつながって独占的に商いをしていた一部の特権商人から、その権利を引き[]がした。関所を廃し、税を免じ、自由に競わせることを約束して新規参入を求め、支配下の大名たちも従わせて、織田信長というあたらしい指導者の統制下に置くことをめざしたものである。
  あとを受けた豊臣秀吉は、近江商人、伏見商人、堺商人を膝もとの大坂城下に集め、あらたに大坂商人として実力をつけさせるとともに、一大経済圏をつくりあげた。
  さらに徳川家康は、秀吉が育てた大坂商人を念頭に、各地の有力な商人に対し、江戸への新規参入を強く促した。
  まっ先に呼応したのが、伊勢松坂の商人や近江八幡あたりの商人たちであり、その数は「伊勢屋、稲荷に、犬の糞」と江戸の三大名物にまで数えあげられるほど多かった。
  しかし案に相違して、江戸に幕府が開かれてまもなく五十年を迎えようとするいまも、全国一の物資の集散地は、圧倒的に大坂だった。
  せめて腹いせに、新規参入してきた西の商人をつかまえて、「近江泥棒、伊勢乞食」などと揶揄[やゆ]してみせるが、逆に悔しさが募るばかりで、差は埋めようもなかった。
  それでも徳川家が、未開の江戸に幕府を構えた事実は消しようがない。
  徳川嫌いの多い上方に、いまから幕府を移そうなどとは暴論中の暴論である。与えられたこの地において盤石[ばんじゃく]の体制をつくりあげていくためにも、いずれは上方に肩を並べるほどに、 江戸そのものが力を蓄えていかねばならない。
  上方依存から、関東の地廻り経済への移行――
  それこそが阿部忠秋の宿願だった。

  松平信綱は頬をゆがめ、左手で顎を押えている。
  歯の[うず]きは、前にも増して激しくなっているのだろう。
「だいぶ、おわるいようですな」
  それと察して、阿部忠秋はふたたび口を開いた。
「見れば、願い出ておる者は、どうやら地廻りの酒問屋ばかりのように映りまする。年に十数万樽も江戸に運び込まれる関八州の酒蔵は守らねばならぬが、大方、下り酒の勢いに押された小賢[こざか]しい商人どもが、我が身可愛さにここいらで上方勢を追い落とそうという魂胆であろう」
  阿部忠秋は一旦、言葉を切った。
  隙をついて、酒井忠清が割り込んだ。
「しかしながら豊後守どの、寄合を認めれば、江戸近郊の酒造家もそれを商う地廻りの酒問屋も、それだけ地盤が強固になるのではござりませぬか。幕府財政も厳しき折り……」
  名門の家に生まれて、急ごしらえで御用学者から古今の知恵を詰め込まれても、ただそれだけのこと。 こんどもまた応じる者がいなかった。
  そもそも公儀は、同業の問屋同士の集まりを禁じてきた。
  組織が小さいうちはいいが、やがて流通を支配して、公儀に対抗する勢力にならぬともかぎらない。あるいはまた事業を独占して、結果的に諸式、すなわち物価の上昇を招くことを恐れたからである。
  阿部忠秋の声が一段、高くなった。
「下り酒がよしとされるのは、 上方なりの工夫や日々の精進があってのことにござる。いつの日にか江戸が上方を凌駕[りょうが]するには、いま関東の蔵元や商人どもを保護することではなく、むしろ正面から競わせ、いずれは上方に並び立てるだけのものを身につけさせることにありましょう」
  知恵伊豆はと見れば、いいからそっちで決めてくれ、といった風である。
冥加金[みょうがきん]のことに至っては言わずもがな。商人は、出したものは必ず、二倍にも三倍にもして取り返すものにござる」
  きっぱりと締めくくった。
  きつく断言されて、酒井は口をつぐんだ。
  ここで、大政参与を任じる保科肥後守正之が、腕組みを[]いた。
「こたびの案件は、豊後守どののお考えに従いたい」
  老中会議は終わった。
  土井大炊頭を大老に棚上げしたあと、代わって長崎奉行の神尾備前守を泳がせてきた松平伊豆守も、さらには計算高いその伊豆守にそそのかされて狂言回しを演じた酒井雅楽頭も、内心はともかく、余裕の笑みを見せてうなずいた。