わい
わいがや倶楽部

たぶん、サイトで初めての、
連載時代小説。

第十三回
御用部屋の人びと

  御前坊主が茶を置いていった。
  新任老中の一人が、まだ席に着いていない。
  執政たちの前には、これから審議する書類が積まれた御用箱がある。
  老中阿部忠秋は、ひと口茶を喫したのち、微かに首をひねった。
  さっき何気なく手をやって書付をめくったら、下のほうから気になる文字が目に飛び込んできたからだ。そこには、
「江戸市中酒問屋寄合の願書」
  とあった。
  町奉行の神尾が具申した案件は、月が変わって、御用部屋に上がってきていた。
  老中たちの執務部屋に、町奉行が立ち入ることは[ゆる]されない。
「うむ……」
  阿部にとっては、寝耳に水のことであった。
  ほかの執政たちは談笑していた。
  願書を目にしたあと阿部は、[まぶた]の裏に一人の若者を描き出していた。
  過去に徳川家との深い因縁を持ったその男と、いまや幕閣に坐る自分との出会いを知れば、列座するだれもが腰を抜かすことだろう。とりわけ若い酒井などは、立ち上がって吠えはじめるかもしれない。
  そう思うと、ふいに笑いがこみ上げた。
  若者が少年のころに縁あって出会い、、曲折を経ていまは新堀河岸で下り酒問屋を営む若い当主、灘屋市右衛門に強く惹かれたのは、武士よりもよほど武士らしい凛とした言動と、己を捨て、旧臣たちから注がれた愛情に愚直に応えようとする生き方にあった。
  自分は老中である。
  老中には月に二日の「御対客日[おたいかくび]」があり、朝の登城前に自宅を開門して客を迎え入れる。ほかにも月に五日、「御逢日[おあいび]」と称して、開門はせぬものの、客を迎えていい日がある。
  当日は早朝から、出世や利得、お家の難を逃れようと陳情に来る大名家や旗本、有力商人などが列を成す。
  困ったことがあれば、より大きな力に頼ろうとする者がほとんどだから、目通りを望む者は引きも切らない。
  阿部が思い描いたのは、向こうから訪ねてくるどころか、老中がわざわざこちらから声をかけなければ近寄ってもこない、その若者のことだった。
  酒問屋の株仲間の創設。
  市右衛門なら、どんなに苦難が振りかかろうと泣きついてはこないだろう。が、この案件には……なにか裏がある。
  ふたたび書付を手にし、ぱらぱらと繰った。
  連名のなかに、灘屋の名はない。名のある下り酒問屋の名も見つからなかった。おそらくは一部の地廻りの商人どもが、金と出世に目を眩ませて願い出たことは容易に想像できた。

「こたびの南町奉行の諮問[しもん]は、なかなかによい施策と思えますがな。神尾どのも、さすがに年の功だ。商人のほうから申し出てくれておるのは、公儀にとっていかにも都合がよろしい」
  歳の功などと、先輩老中たちを前にして最初に意見を述べたのは、幕閣でははなはだ若い酒井雅楽頭[うたのかみ]忠清だった。
  三年前に西の丸老中から本丸老中に[]いたばかりで、飾り[びな]のようにいきなり老中首座[しゅざ]に座ったが、執政として積み上げてきた能力を買われての就任ではなかった。
  代々幕閣を占めてきた名門であり、[いにしえ]には徳川家より上位にあった酒井家の嫡流との理由で推挙されたから、家系を笠に着て、つい三十三歳の若さをあらわにする。
  小柄で見映えがわるく、しかも無類の早口だから、老中に置くにはいかにも物足りない。
  先頃まではもう一人、松平和泉守乗寿[のりなが]がいたのだが、城中では柔懦[じゅうだ]な人とされ、気概なしとも意気地なしとも評されていたが、すでに没して、酒井の前には[いわお]のような三人の重臣が立ちはだかっていた。
  ことし還暦を迎えた松平伊豆守信綱とそこから六つ年下の阿部豊後守忠秋は、三十八歳と三十二歳で老中となり、ともに二十三年もの長きにわたって大役を勤め上げてきた男だ。
  もう一人の執政、保科肥後守正之は阿部忠秋よりさらに九歳下だが、三代将軍家光の異母弟であり、死に[のぞ]んだ家光よりとくに枕辺に呼ばれて、若い四代将軍家綱の補佐役を頼まれていた。
  保科自身は、つねに領民の幸福を念頭におく藩主であり、幕閣においても民への視点を忘れなかった。出羽山形二十万石から会津二十三万石に封ぜられたとき、藩主を慕って出羽山形の領民が多く会津へと移民したのを見ても明らかで、かれの善政はあまねく人に知られていた。
たとえば、こんなことがあった。
  会津に入城したとき、荒廃した領地を目の当たりにして保科はすぐさま検地をやりなおし、歴代藩主が実際よりも多くの税を徴収してきた事実を知った。しかしかれは、前例を踏襲するどころか、民を思って逆に税率を下げてしまった。
  さらに飢饉のためにあらかじめ貯えおく社倉制度なるものを編み出したり、九十歳以上の老人には終生、一日五合の玄米を支給したりした。いまでいう保険制度や年金制度に通じるもので、まさに先駆的な視点を持っていた。
  実際、かれが領してきた高遠、山形、会津はいずれも裏作ができず、海もない。ゆたかに実るは蕎麦ばかり、の[]せ地であった。土こそが生命とする農民たちがわざわざそんな地に移り住んだのだから、新旧いずれの領民からも深く慕われた。
  以来、幕閣では大政参与の任に就いている。老中ではないが、先の将軍の弟として、老中よりも現将軍に近い、副将軍ともいうべき立場にある。その発言は重かった。
  座は沈黙していた。
  このころの幕閣は大雑把[おおざっぱ]に言って、世知と才覚に長けた松平信綱の着想、全体図を見通せる阿部忠秋の懐の深さ、保科正之の民への愛情と将軍家への忠誠で運営されていた。
  小賢[こざか]しい酒井忠清あたりの思いつきで太刀打ちできるような相手ではなかった。
  のちに松平信綱が没し、阿部忠秋が老中の座を退任したあと、酒井は大老となる。
  就任早々、専横[せんおう]ぶりを阿部忠秋にきつくたしなめられたにもかかわらず、[へき][]まず、死後に下馬将軍と言われるほどに、権力をほしいままにした。そして最後に失脚する。
「…………」
  酒井の声は届いていただろうが、阿部忠秋は取り合わない。
「伊豆守どのは、さて、どう思われる」
  意見を求められた松平信綱は、頭脳明晰な男である。
  知恵[]づ、の意から「知恵伊豆」とも呼ばれているが、本心では阿部忠秋の大局観に[かな]わないものを感じている。
  徳川二百六十四年の歴史において、保科と阿部は後世にそびえ立つ二大政治家であった。
  松平信綱とて名老中と[うた]うたわれてしかるべき男なのだが、おなじ時期にこの二人がいたのだから、いささか運がわるい。
  歯の[うず]きとともに、知恵伊豆に[にが]い記憶がよみがえった。

  幕府の草創期は、諸国の大名対策がことのほか重要だった。
  二代秀忠、三代将軍家光の代に、かつて豊臣方に属した大名たちの改易と減封とを執拗に行った。豊臣の家臣だったことが問題なら、なにより豊臣の大老であった徳川家こそが処断されるべきであった。
  改易された側には徳川政権誕生に決定的な役割を果たした者もいたが、初代家康が世を去り、かんたんに言ってしまえば、[あと]の者はみんなして「わしゃ知らん」を決め込んだのである。
  この策には当然、智恵伊豆こと松平伊豆守が大きく加担していた。
  かれはいつも、将軍家のほうばかりを見て仕事をする。だから江戸町民は、決してかれを支持していない。
  繰り返しになるが、ここまでに公儀が諸大名や旗本から没収した禄高の総額は、じつに千八百八十七万石に上る。
  当時の軍役[ぐんえき]制によれば、一万石の大名は二百三十五名の武士を連れて出陣しなければならないから、五十万人近い藩士が扶持[ふち]を失ったことになる。家族や使用人も含め、徳川に敵対する膨大な流浪の民を、幕府自身が生み出してきたのである。
  江戸は、参勤交代でやって来る天下の諸大名が一堂に会する地である。
  したがって再就職を願って仕官の糸口を探すにも、日々の糊口[ここう]をしのぐにも、急速な発展を遂げる江戸に多くの浪人が集まって来るのは必然でもあった。
  一面、食い扶持を失った浪人たちは、そもそも武力で生きてきた者だけに、解き放たれるとたちまち危険な存在となった。
  にもかかわらず当時の幕閣は、わけもなくかれらを武力で江戸から追放しようとした。
  このとき、阿部忠秋一人が激しく反対した。
「国が収まって、たかだか五十年足らず。火種はまだあちこちにくすぶっており申す。浪人たちを江戸から追放しても、火種を各地に[]き散らすだけのことにござる」
  かれは説いた。
  三代家光が死の直前、保科正之に向後[こうご][たの]んだのは、みずから生み出した大量の反幕府勢力をなにより怖れたからだった。
  果たしてすぐに、由井正雪の変で知られる「慶安事件」が起こった。
  慶安四(1651)年七月、軍学者由井正雪と槍の達人丸橋忠也が組み、江戸を火の海にして幕府転覆を謀ったこの反乱は、どうにか直前に察知して取り[しず]しずめることができた。
  が、三千人もの浪人たちを糾合[きゅうごう]した反乱が、現実に起きてしまった。しかもその反乱が地方から蜂起[ほうき]された事実は、幕府にかつてない衝撃を残した。
  浪人どもの江戸追放は、問題解決にならないばかりか、むしろ幕府に反旗を[ひるがえ]す不満分子を各地に集結させかねない。
  阿部忠秋はつづけた。
  浪人たちの大半は、ただ仕事を求めてやって来ている者たちだ。むしろ、かれらに仕事を与えることこそ優先されるべきである、と。
  たしかに、ひと昔前までの[まつりごと]とは、戦さを制することにあった。しかし、いまでは勝つか負けるかではなく、いかに国を治めるかが要諦[ようてい]なのである。
  将軍家大事と、力でものを言わせた武断政治から、共存共栄をはかる文治政治へと移っていかなければならない。
「幕府みずから戦さを助長してはなり申さぬ」
  正論であった。
  あのとき知恵伊豆は、押し黙るしかなかった。