わい
わいがや倶楽部

たぶん、サイトで初めての、
連載時代小説。

第十二回
奉行のいらだち

  おなじ日の夜も更けて、灘屋では、筆頭番頭の丹蔵が当主の居間を訪れた。
  向島の仲也を後ろに廊下の曲がり角から静かに声をかけたとき、市右衛門はまだ蔵の屋根越しに浮かんだ月を眺めていたようだった。
「河内屋さんがわかってくださったようで、なによりでした」
  くちなしの甘い匂いが、[]く夏を惜しむように濃く漂ってくる。
  どこからか座敷に上がり込んでいたエンマコオロギを手ですくい取ると、市右衛門は庭に向けて逃した。それからわずかに座布団の位置をずらし、筆頭番頭と仲也が座るべき席をつくった。
  朝が早い女中頭のお[よね]たちは、とうに自室で眠っている時刻だ。
  仲士や水夫[かこ]たちがそろって飯を食う広々とした灘屋の台所は、静まりかえっている。
  黒光りしている土間の端には大型の[かまど]が四つ、小ぶりのものが二つあって、炊事場まわりには包丁やまな板、ざるやすり鉢などがきれいに洗われて立て掛けてある。
  隣に、一度に二十人は座れそうな広い板間がある。
  片側の棚に奉公人たちの膳がずらりと並べられてあり、もう一方の棚の上段には[おびただ]しい数の椀や皿、下段には米櫃や桶、味噌樽などが整然と明朝の出番を待っている。
  ただ、ほかの店と違っているのは、板間の下が地下蔵になっていることだ。
  それとは気づかれぬ数枚の床板を引き上げると、冷たい風とともに酒の香が吹き上がってくる。わざわざ蔵に足を運ばずともいいように、主人や番頭たちのための、日常使いの酒が仕舞われている。
  その地下蔵から小分けしてきたのだろう。仲也が灘屋誂えの徳利と、小皿が[]った盆を手に下げていた。小皿には味噌やら漬物やらが盛られている。
  仲也は前日のうちに、丹蔵に走り書きを届けていた。
  それを確認した市右衛門と丹蔵は、清四郎を加えて蔵に[こも]り、策を練った。
  まずは掛かりの費用を算出して、今朝早々には上方に向けて、協力の要請と段取りとを記した早飛脚[はやびきゃく]をたてておいた。代々懇意[こんい]にしてきた大坂の蔵元に事のあらましを述べ、江戸から仲也を仕向けること、京での仕入れの手はずなどを細々と頼んでおいたのだ。
  同行する平岩屋がらみの男たちは、いずれ関八州に巣くうあらくれ男たちだ。それだけに、遠い京大坂の事情には通じていない。
  仲也はあらためてそれらを細かく確認し、市右衛門と丹蔵の指示を[あお]いで軽く酒をたしなんだのち、先に部屋に下った。
  明け方には向島へともどる。
  敵対する両者の動きが加速していた。
  残った市右衛門と丹蔵の主従は「播州」を間に並んで月を愛でながら、ひととき、嵐が吹く前の静かな宵をたのしんだ。

  南町奉行神尾[かんお]備前守は、ぎりぎりまで勝算を見計らっていた。
  内与力が持ってきた話は、わるいものではない。
  最大の利点は、幕府にあらたな収入源をもたらすことだ。
  江戸城の御金蔵[ごきんぞう]に積み上げられていた金銀は、時を経て着実に減ってきている。
  その昔、天正十八(1590)年八月一日に、関八州の主として江戸に入った徳川家康も二百五十五万七千石を領する大大名とはいえ、豊臣家の大番頭にすぎなかった。
  秀吉が死したのち、主家である豊臣家をさらに追いつめるべく、大坂城に眠る豊臣の金銀を徹底して浪費させ、自らも一部を奪い取った。
  家康が江戸に幕府を開いたとき、手もとには五百万両を超える金銀があった。
  同時に、幕府の歳入は八百万石にまで拡大した。
  ただしこちらは、およそ半分の四百万石を幕閣や旗本、御家人などに俸給として支払い、残りの四百万石を四公六民で配分すると、 実収入は百六十万石となった。
  西国に対する防御のほか、将軍や大奥にかかる多額の[つい]えを差し引くと、国づくりに使える金はたかが知れている。
  江戸城の金蔵は幕閣に対し、あらたな財源を工夫しろと[]き立てていた。
  しかし一方で、前に進めぬ事情もあった。
  当時の江戸は、急速に膨れあがる需要に対して、ほとんど自給できていなかった。
  高級な絹や酒、家具、小間物、玩具などに加え、膨大な量を必要とする日常の綿衣料や油などは、どうしても上方の高い生産力と加工技術に頼らなければならなかった。
  また江戸には、旺盛な需要とは別に、それらを関東一帯から東北へと運ぶ中継基地としての役目もあった。
  だからこそここまで、農民から年貢は取っても、町人からは税を徴収しないでやってきた。税を課せば、せっかく各地から集まってきた商人たちが江戸から逃げ出す恐れがあったからだ。
  そうなったらもう、上方に大きく劣る江戸は、永遠に天下第一の商業地にはなれない。
  政権基盤そのものが崩れ去ってしまう。
  だからこそ幕府は、商人や職人たちがしっかりと根を下ろすまではと、必死で苦しい我慢をつづけてきたのだ。
  そうした結果、いまの御金蔵の中身はすでに四百万両に届かない。
  いまだ十分とも言えるが、歳出はとめどなく増えつづけており、ひとたび大戦さや大災害が起きれば、たちどころに破綻[はたん]するだろう。
  幕府がいずれ折りを見て徴税に踏み出す機会と口実を[うかが]っていることは、言うまでもなかった。

  神尾[かんお]備前守自身は、徴税[ちょうぜい]派だった。
  そこに出世の道が開けていると確信していた。
  他の問屋たちに先がけて酒株仲間を組織させ、事業を独占させる代わりに、相応の金銀を納めさせる。
  酒造業で成功すれば順次、他の物産へと拡大していき、運送や回漕にも応用できるだろう。そうなれば、幕府は膨大な運上金を[しぼ]り取れる。成功すれば、一奉行の功績としては破格のものとなる。
  私的なことでも、当然、組合から当方へ相応の見返りがあるだろう。
  しかも今回は、幕府のほうから切り出すものではない。
  形の上では、町人のほうから進んで願い出たことになっている。まさに「三方[さんぽう]よし」の方策と思われた。
  御金蔵を潤すことが、なにより幕府安泰の下支えとなるのだ。

    逡巡[しゅんじゅん]していれば、ただ意味もなく日が過ぎていく。
  いくばくかの賭けではあったが、意志はほぼ固まっていた。
「これならば、幕閣[ばっかく]とて文句はなかろう」
  というよりも実際は、そうしたいとする願望のほうが遥かに[まさ]っていた。
  今朝、懐刀である内村清十郎が、河内屋とか申す下り酒問屋の出航を見届けたあと、奉行所に立ちもどって目通りを願い出た。
  神尾の前にあらわれた内与力は高揚し、太鼓判を押していった。長崎奉行時代を共有した腹心[ふくしん]が、いつになく大胆な言いようだった。
  神尾はどうあってもこれはやり通さねばならぬと、あらためて強く自分に言い含めた。
  このあとも[おこた]りなく報告をあげよ、と内村に指示を返しておいたが、最後の詰めを見ないまま、祐筆[ゆうひつ]を通して御用部屋に諮問した。
  奉行も内与力も、両者ともに、早く金銀の姿を見たい一心で一致していたのである。
  焦りは往々に、詰めを[あやま]らせる。