わい
わいがや倶楽部

あの素敵な方からメッセージが届きました
わたしがたいせつにしていること

土砂降りの雨も、いつかは、あがる。

ARAKI Mayumi

荒木 真有美 さん

女優・劇団俳優座


その町は、とりわけ時間がゆっくりと流れていた。
荒木真有美さんが生まれた東京の亀戸は、ところどころにマンションが建ち始めていたが、ちょっと路地を入るとまだまだ昔風の古い家や小さな商店があって、下町の風情を色濃く残していた。
そこで毎日のように、ままごとをしたり、路地を駆けめぐったり、ときどきは駄菓子屋さんでひと休みをするふつうの女の子は、一つだけ、ほかの子にはない一面を持ち合わせていた。

遊びに飽きたころ、通りの角に、いつもの野菜売りのトラックがやってくる。
車の影を見つけると、だれよりも先に駆け出していく。おじさんとは、すっかり顔なじみだった。顔を見せるとおじさんは喜んでくれ、いつものように軽々と、空いた荷台の上に乗っけてくれた。

野菜と野菜の間に埋まりながら、そこで当時流行っていたピンクレディーや松田聖子さんの歌などを熱唱する。ときには演歌も歌った。
歌い終わると、集まっていたおばさんたちが、急ごしらえの舞台に向けてやさしい拍手を送ってくれる。みんな、喜んでくれた。
まだ3才か4才だったが、そのころから少女は、人前で何かをすることが好きだった。

1歳の頃。祖母と一緒に。

4才で出会ったクラシックバレエは、20才になるまで続いた。

荒木さんの家系は、曾祖父の時代から江東区の森下で、代々、デパートや商店のウィンドウを取り付ける硝子サッシ店を営んできた。
長男が跡を継ぐことになっていたから、弟だった荒木さんの父は早々に独立を果たし、おなじ江東区の亀戸に自分の店を構えて、近くに住居を見つけた。
荒木さんはそこで生まれ育ち、3才か4才のころに江戸川区の松江へと引っ越した。

あたらしい松江の家は、西を流れる荒川と東の江戸川とに挟まれた区域にある、ごく小さな商店街に面していた。魚屋さん、八百屋さん、お米屋さん、金物屋さんなどが並んでおり、小さな町工場もたくさんあった。
が、近くに駅もない、いま思い出しても何もない町だった。そこで、大好きなことと出会う。

通った幼稚園はめずらしいことに、男子に日本舞踊を、そして女子にはバレエを学ばせていた。やってみると、これがおもしろくて仕方がない。
すぐに夢中になった。
周囲にも勧められ、幼稚園とは別に、園長先生の妹さんが開いていたクラシックバレエ教室に通い始めた。あとから聞かされたが、音楽をかけると勝手に振り付けをして踊り出す奔放な子どもだったらしい。発表会などがあり、ここで改めて舞台に立つ喜びを知ることになる。

4歳ごろ。初めてのバレエの発表会。

何であれ、自分が興味を抱いたものは、一生懸命やるほうだった。
先生は熱心な生徒ほど可愛がり、さらなる期待を込める。それを越えようと、生徒はさらにがんばろうとする。が、そのことが思いがけず、子どもの悩みにつながっていく。

小学生のときだった。
担任の先生が女性で、いつもがんばる荒木さんは、とくに受けがよかった。
そのうちにクラスのなかで、「先生は、荒木さんばっかり……」の声が洩れてきた。そうじゃないのに。与えられたこと、好きなことを、一生懸命がんばっただけなのに。
なんで、自分が思うことと周りから見られるものが違うんだろう。みんなが思うほど、私はいい子なんかじゃない。そう、叫びたかった。

自分を変えたいと願い、もがいていた。なかでも、「優等生」という言葉が怖かった。
そんな折りに先生が、あるお坊さんの書の写しをくださった。そこには「一生懸命の姿ほど、尊く、美しいものはない」とあった。
母はとうに気づいていたのだろう。書を額に入れて娘に渡してくれた。額はいまも大事にしまってある。

荒木さんが初めて、ちゃんとしたセリフのある舞台を踏んだときのことだ。
その先生が駆け付けてくれ、楽屋でいっしょに泣いた。自分を変えたいと願い、変えなくていいと知るまでの長く辛かった日々を、二人して泣いた。

遠まわりをしながらも、一歩ずつ、近づいていった演劇の世界。

高校生になったら、きっと演劇部に入るんだろうなと思っていた。
ところが、そうはならなかった。期待に胸を膨らませて校門をくぐったが、入部勧誘のポスターを目にしたとき、一瞬で、これは違う、と思った。
そこには瞳がキラキラと輝く、少女雑誌そのままの女の子が描かれていた。舞台は好きだけど、私がしたいのは、これじゃない。

演劇部に入らなかったことで遠ざかったものの、2年生のとき、担任の先生から文化祭の台本を書いてほしいと頼まれた。テーマは、あの「ウエスト・サイド物語」だった。
食い入るように映画を見、想を練り、必死で自分なりの台本を書いた。そうした経緯から、ヒロインのマリア役を演じることになった。

校舎の隣りが川で、放課後になると土手練と称して、土手に上がって川面が黒ずむまで芝居の練習をした。そこは学校とも違う別の場所であり、みんなともおなじ時間を共有できた。とにかく夢中だった。
一方で、言葉を発して自分を表現できることの喜びが身体中を駆けめぐっていた。芝居とは、こんなにたのしいものなのか。青春の只中にいた。

高校生、文化祭。ウエストサイドストーリーのマリア役。

ただ、学校は都立の進学校だったから、上級生になるとみんなは少しでもレベルの高い大学を受験しようと躍起になりはじめた。どの大学が就職に有利かなどと、そんな会話が蔓延していた。
そうだけど、でも、違う。確かな目標があったわけではないが、疑うこともなく当たり前のように将来を決めたくなかった。そんな優等生のような生き方を、私はしない。かつて自分に向けられた言葉への、抵抗があったのかもしれない。

それもあって、桐朋学園短期大学の芸術学部、演劇学科に進むことにした。
在校生の舞台を見せてもらって、実際におもしろかったこともある。が、いまから思えば、文化祭で演じたときの高揚感がまだ鮮明な記憶として残っていたのだと思う。
そうして演劇学科に入って、はじめて正面から芝居と向き合うことになった。
朝から夕まで授業があるが、それだけで終わらない。勉強のあとは、次の授業で発表するために自主練習を続けた。ほかにも年に2回、中間公演と終了公演があった。芝居漬けの日々は、充分に満ち足りていた。

卒業して2年を経て、ようやくたどり着いた、俳優座の門。

それでも卒業をして、まっすぐに劇団をめざしたわけではなかった。
大学の公演ではヒロインの役を多くやらせてもらっていたから、周囲には、荒木は正統派の劇団を受けるんでしょ、といった空気が流れていた。
ここでまたしても、そうじゃない、とする感情が頭をもたげてきた。当時は大きな劇団に堅苦しそうな印象を抱いていたこともあって、結局は受けなかった。

代わりに待っていたのは、自分を探し求めるような2年間だった。
大学の授業で覚えたジャズダンスのスタジオに入ってアシスタントをしたり、地方の大きなイベントの振り付けアシスタントをしたりした。が、失敗が多く、己の未熟さを痛感させられることになった。
小劇団にも参加したが、年齢の近い人がほとんどだから、こちらも成長できる場所ではなかった。

ここで、ようやく気がついた。
もっとさまざまな年齢層の人がいて、たくさんの先輩方がいて、一から勉強し直すにはやはり大きな劇団がいい。その場で、改めて自分を鍛錬してみたい、そう思った。
いくつかの劇団の、研究所の発表会を訪ねた。このとき、いちばん輝いて見えたのが、俳優座だった。
もともと俳優座と母校の桐朋学園とは、以前に深い交流の歴史があったとも聞いていた。すでに昔のこととはいえ、どこかで繋がりのようなものを感じていた。

ただ、そうかんたんな話でもなかった。
俳優座に入るには、まずはオーディションを受けることから始まる。これに合格したのち、研究所で3年間を過ごし、そこでようやく準劇団員になれるわけだが、全員が揃って先に進めるわけではない。1年ごとに査定があり、たくさんの人が脱落していく。

幸いに残ることができ、そこからさらに3年の研鑽を経て、劇団員全員の投票で選ばれれば、晴れて劇団員となれる遠い道のり。
荒木さんが入団した2003年は、300名以上がオーディションを受け、合格したのはわずかに16人だった。そこから毎年、さらに絞られていく。
当然のことだが、同じ境遇にある仲間は、友だちであると同時に目の前のライバルともなる。芝居と真剣に向き合わなければ、いずれ厳しい答えとなって返ってくる世界だった。

安心できる仕事ではなかったが、家族は理解を示してくれた。
荒木さんはすぐに、自身が生を受けた亀戸に住む祖母のもとに身を寄せた。祖母は一人で暮らしていたし、俳優座の稽古場に通いやすかった。
それに祖母とは相性がよく、居心地がよかったから、そのままずっと一緒に暮らしている。

祖母はいつも着物を着ていた。元々がおだやかで上品な人だった。茶道と華道の先生をしながら、ダンスも俳句もたしなむ人で、なにより人としての礼儀や人を思いやる気持ちを学ばせてもらった。
いまでこそ年齢を重ねて介護が必要になったが、苦にはならない。それが日常だと思っている。

劇団俳優座研究所1年。劇団の近くの公園にて先生と一緒にお花見。

一方の母は、父のガラス店を手伝いながら、自宅でも小さな商いをやっていた。苦労をいとわず、両親ともに、なにしろ一生懸命に働く人だった。
とくに母は強かった。相手が娘だからといって手加減はしない。その代わり、適当にあしらうこともしない。生半可なことが嫌いなのだ。
堂々と、いつも正面から向き合ってくれた。成人する頃には一人前気分もあって何度もぶつかったけれど、娘が困ったときには自分を投げ出してでも全身で支えようとする人だった。
いつのまにか、そんな母の子に生まれたことがうれしくなっている。

人は時として、人生がひっくり返るような出来事に出会う。

どんなに望もうとも、人はたった一つの人生しか生きられない。
俳優であれ、小説家であれ、たとえ別の人の生き方を描き出す職業にあっても、生きられるのは自分の人生一つきりだ。
だから演じる者は、与えられた役が実年齢からほど遠いものであっても、想像力のすべてをかけて、役のなかの人間を生きることを求められる。
セリフが嘘になってはいけないし、セリフのないところでも、その人を生きていなければならない。

そう言う意味では、俳優はさまざまな人生経験をしているほうがいいだろう。
人間は、人と人の間を生きる、と書く。ところが、これが一筋縄ではいかない。
一切の挫折なく、平穏のうちに一生を終える人は、まずいないだろう。ある日突然、とんでもない出来事に襲われるのが人間だ。
そして、そんな苦難が、容赦なく荒木さんを襲った。

ふだんの荒木さんは清楚で、とても物静かな女性だ。
怒ったり、感情を露わにすることもなく、だれにも優しく、おだやかに生きておられるように見える。しかし現実の社会は、詳細は控えさせていただくが、あるとき、生きる希望を見失うほどの葛藤と苦しみを彼女に与えた。

2008年「赤ひげ」13歳のおとよ役。

2010年、劇団で初めて主演をやらせて頂いた「ブレーメンの自由」の稽古の様子。

そう言えば、小さいころに思い悩んで、子どもながらに出した結論が、こうだった。
人からどう思われるかなんて、きっと、どうでもいいこと。自分は自分なのだから、そして人生は一度きりなのだから、思いっきり、好きなように生きていこう。あとから悔やむことのない生き方をしよう。
あのころの思いが、ふたたび甦ってきた。

そして、もう一つ。
悲しい出来事は、さっさと忘れてしまうに限る。しかし、苦しくともそれをしっかり乗り越えた向こうには、きっと、あたらしい景色が待っている。
止まない雨はない。その言葉が好きだ。

最後に、いつか演じてみたい役はありますか、と尋ねてみた。
と、「まだまだ早いとは思いますが、いつか叶うのであれば」という前提のもとに、彼女は「欲望という名の電車」のブランチ役をあげた。
ご存じの方も多いと思うが、裕福な大農場の家に生まれた若い未亡人が,没落の果てに貧しい妹の家にたどり着く。そこに住む妹の夫によって次々と過去の放蕩を暴かれ、ついには発狂して病院に送られるという凄まじい作品だ。

2018年に出演した「われらの星の時間」の舞台写真。

一人の女性のなかに、貧しい者を蔑視する高慢で気位の高い女と、獲物を追うように男を漁ってきた悪女が、棲んでいる。それらが、若さを失っていくことへの怖さとともに、これでもか、これでもか、と明らかにされていく。
およそ荒木さんには、最も似つかわしくない役だったはずだ。しかしいま彼女は、そのブランチを演じたいと思い始めている。
背景には、小さいころからつきまとってきた自分の殻を打ち破り、逞しく歩き出そうとしている荒木さんが見える。

俳優はどんな役であれ、結局は自分の体を通して表現していくものである。だから、無駄な経験というものは何一つないはずなんだ。
荒木真有美は一度は崩壊したけれど、良いことも悪いことも、自分が全身で生きてきたことが、いつかどこかで表出していってくれればいいなと思えるようになった。

どんな土砂降りの空だって、いつかはかならず晴れる。数日たてば、何もなかったように、また輝きを取りもどしている。
元気なころの祖母がよく言ってくれた。
「真有美ちゃん、しあわせは自分がつくるんだよ」
そうなのだ。人としてのしあわせも、女優としてのしあわせも、つくるのはすべて自分なのだ。
荒木さんは透き通った笑顔を取り戻し、また、しっかりと歩き出している。

取材・文/瀧 春樹

荒木 真有美(あらき まゆみ)プロフィール

東京都出身。劇団俳優座2003年入団。
趣味・特技は、クラシックバレエ、ジャズダンス、日本舞踊、フルート演奏。
最近ではミュージックビデオへの出演など舞台以外でも幅広く活躍。

●主な出演作品はこちら https://www.haiyuza.net/俳優座連名/演技部-女性/荒木真有美/
●荒木真有美さんのブログ「真有美の園」はこちら https://ameblo.jp/mayumigarden-happy