わい
わいがや倶楽部

あの素敵な方からメッセージが届きました
わたしがたいせつにしていること

JOKE MIe

情家 みえさん

ジャズ・シンガー



いつか、歌のなかに自分の人生を重ねられたら、すばらしいと思う。

もがき苦しんだ日々があった。
若いがゆえに舞い上がり、舞い上がって初めて、自分の力のなさに打ちのめされた。歌うことが怖くなり、どうにも苦しくなって、何もかもを捨ててジャズから逃げ出してしまった何年かがあった。
こんなに恵まれているのに。こんなに可愛がってもらっているのに。背中から追いかけてくるもう一人の自分の声に、おもわず耳をふさぎ、立ち尽くしていた。

そのことで、たくさんの人の気持ちを裏切り、迷惑をかけることになった。
忘れまい、と思う。忘れてはならない、と思う。再びステージに立てている今だからこそ、ほんとうにいい歌を、素直に、そして真摯に歌いつづけていこうと心に刻み込んでいる。

美しい宇和島の湾と、たわわに実るみかん畑の石段に囲まれて。

情家みえさんは、愛媛県南部の旧城下町、宇和島にほど近い吉田町に生まれた。
四国の西岸を南へと下る予讃線の終点、宇和島駅から3つ手前の伊予吉田駅は特急停車駅だが、とうに無人駅になっている。自宅はそこから、さらに車で10分ほどもかかる。
かつては日本一のみかん産地であり、愛媛みかん発祥の地でもあった。
みかんの産地に共通する急斜面は、ここでも例外ではない。目の前が海で、振り返れば石段が幾重にも連なって、みかん畑が広がる。

吉田町は漁師町というほどではないが、水産業が盛んだ。湾内の潮流によってつねに海水が新鮮に保たれ、水温も適していることから、ハマチやタイの養殖がつづけられてきた。真珠の養殖も盛んで、海面に漂う筏が美しい光景をつくり出してている。

いまでこそ商圏は宇和島駅周辺に傾斜しているが、吉田町にも役場や病院、金融機関などの施設が整っていた。そんな場所で父は、自分で立ち上げた和菓子屋を営んでいた。
父は名を「長」と書いて「まさる」と読んだ。そこから屋号を「長月堂」とした。しかし、どこにも長月堂の看板はなかった。
父はつねづねこう言っていた。「看板なんて必要ないんだ。この饅頭の一個一個が看板なんだ。食べてもらったら、わかる」。
その通りに、店は繁盛した。地元の人たちはふだん使いだけでなく、慶弔のときにも必ず買ってくれた。宇和湾には島が多いから、わざわざ船で買いに来てくれる人までいた。父は、自分の考えを貫く人だった。

そんな父から学ぶことは多かった。
ほんの数秒の火加減に、細心の注意を払っていた。微妙な気温や湿度の変化もある。それは職人が毎日肌で感じるもので、ちょっとでも出来が気に入らないと一切店には出さなかった。
父は、いわば自分の腕1本で生きていた人だ。娘がやがて音楽で身を立てようと上京した背景には、少なからずそうした父の影響があったと思う。
できるならあんな風に、自分の歌一つで生きてみたい、そう思ったのだ。

父と一緒に。

緑豊かな情家さんの故郷

みんながそうであったように、ごくふつうに歌うことが好きだった少女時代。

父は歌が好きだった。
仕事場からはいつも石原裕次郎の歌が流れ聴こえてきた。ときには美空ひばりの声も混じった。同じテープを擦り切れるほど聴いていたから、仕事の始まりと終わりはそれが合図になっていた。
自分でもよく歌っていた。深く、大きく、情感にあふれたやさしい声で、子どもの耳にも心地よかった。それが、最初に触れた音楽だった。

小学校の低学年の頃に、ピアノを習っていた。
みっちゃん先生と呼んでいたその方は、地元で子どもに音楽を教えたり、自分のコンサートを開いておられた。目がきれいで、容貌が外国の人のようだった。四国一の都会である松山で勉強をされていたことも重なって、洗練された、ハイカラな人との印象があっ た。
先生はクラシックの声楽もやっておられた。ピアノのおさらいをしたあとに、決まって最後の5分は「好きなお歌をうたいましょう」と、みずからお手本を聴かせてくれた。
なんてすばらしい声なんだろう。この声は、いったいどこから出てくるのだろう。胸をときめかせ、少女はいつも一心に聴いていた。
そのせいか、肝心のピアノはまるで上達しない。むしろ最後の5分がたのしみになった。先生は、最初に憧れた人だった。

幼い頃の情家さん。ご実家にて。

小学校には、片道2キロの海沿いの道を歩いて通った。それでもクラスではまだましなほうで、遠くからやって来る子は、ひと山越えて通学していた。空気が澄んでいるから、冬は東京よりも寒く、雪も降った。
なにしろ1学年で総勢36人しかいないから、6年もの間、クラス替えもない。みんな一緒になって登下校し、兄弟姉妹みたいに育った。

中学校はさらに遠く、ヘルメットをかぶって、自転車で片道40分かけて通った。行き帰りの、友との触れ合いがたのしかった。
高校になると、こんどは宇和島まで通ったから、近くの伊予吉田駅まで自転車で40分、そこから20分以上電車に乗って宇和島駅に行き、ぞろぞろみんなと歩いていく。1時間半以上はかかっていた。
それでも、通学が苦しいと思ったことはなかった。のどかすぎるほど平和な日々で、いまも甦ってくるのは仲間たちとのたのしい思い出ばかりだ。

ここまでは、とくべつ取り柄もない、ただ歌うことだけが好きな、ごくごくふつうの女の子だった。それがまもなく、徳島の大学に通うようになって、まだ始まったばかりの人生が急旋回を始めることになる。

平気で寮の塀を乗り越えていた、徳島での生活。

大学は徳島に進んだ。翌年から男女共学になったが、入学した年はまだ女子ばかりの大学で、家政学部に入った。そこは学校や幼稚園の先生を志望する生徒が多く、漠然とだが、自分もいずれは宇和島に帰って子どもたちに音楽とかを教えられればいいなと思っていた。両親も同じことを考えていただろう。

大学の友人の一人が音楽教室に通いはじめた。そして、どんな風が吹いたか、彼女がジャズ・サックスを始めるようになった。
あるとき、どこからかサックスをもってきて、目の前でブカブカやり始めた。本人は真剣なのだが、それが悲しいほどに音になっていなかった。自分のピアノもそうだったから、すぐ思った。これは止めた方がいいな、と。

けれどその友人は、ますますジャズに傾倒していた。そして2年になったあるとき、ライヴハウスに聴きに行こうと誘ってくれた。
19才のその日まで、ジャズなど耳にしたこともなかった。おそるおそる入った「徳島スウィング」という店で、偶然、ピアノの演奏者のすぐ隣の席に座った。
始まってすぐに、烈しい衝撃を受けた。初めての感覚だった。
言葉を失うほどに、ジャズは素敵な音楽だった。

ライヴを聴きながら、歌いたい、これを歌いたい!という衝動が駆けめぐった。
若さは、怖いもの知らずでもある。ステージが終わったとき、おもわず演奏者に尋ねていた。
「どうすれば歌えるのですか」。
目の前のその人は、もともと大阪で活躍し、帰郷して徳島のジャズを立ち上げたアーチストだった。藤沢清十郎さんは戸惑っただろうが、まじめに答えてくれた。
「あした5時に、いらっしゃい。ジャズ向きの声かどうか、聴いてあげる」。
そうして、サラ・ヴォーンの「A列車で行こう」のテープまでくださった。大人にはまだ遠い女子学生は、飛び上がっていた。

翌日はソルフェージュ(練習曲)を用いて歌った。
声質としては合格のようだった。それからというもの、はた迷惑だったろうが藤沢先生の後ろをくっついて歩き、ジャズの話になるとむさぼるように耳を傾けていた。すべてがそっちのけで、大学の授業などもはや耳に入らなくなっていた。考えるのはジャズのことばかり。
周りが見えず、友だちと道ですれ違っても気づかない。狂ったようにのめり込んでいた。

そのうち、お店で歌わせてもらえるようになったが、大学の寮生活には門限があった。
ライヴハウスにいると、どうしても帰りが遅くなる。
「ジョーケ、さんっ!」。
寮母さんの語尾が跳ね上がり、しだいに甲高くなっていった。
それでも改めようとはしない。ジャズのためなら、木をよじ登って高いブロック塀を乗り越えることなど、気にもならなかった。

「あっちゃん、開けてぇ」。
部屋の明かりを頼りに、声を潜めて、日ごと下から友を呼んでいた。
そのうちにだれ言うでもなく、仲間たちはこう言うようになった。
「ジョーケは、別のところに行っちゃった」。

夜中壁を乗り越え寮に帰っていた頃、友人と。

さっさと東京で暮らす部屋を決めた。さて、仕事はどうしよう。

上京することに、迷いはなかった。卒業したら、何が何でもそうしようと思っていた。
卒業間近になって、大阪の大学に進んでいた妹をそそのかし、東京へと部屋探しに出かけた。雑誌とかで見て、なんとなく下北沢に憧れていた。ぶらぶら歩きまわって、近くの豪徳寺に部屋を借りた。
仕事より先に家まで見つけたのだから、それなりの覚悟はあったのだろう。が、その先のあては何もなかった。

いざ仕事を見つける段になって、どうせなら、生の音楽のあるところで働きたいと思った。そして、行動を開始した。
臆することなく最初に飛び込んだ先が、青山の「BODY&SOUL」だった。そこは、出演できること自体がステータスになるような、いわば最高峰の店だったが、世間知らずの若い娘はひるまない。
いきなりオーナーに、ここで働かせほしいと頼みこんだ。
オーナーは日本で最初にジャズのライヴハウスをつくった関京子さんという方で、この人もまた自分の耳と肌の感覚だけで生きてきた人だった。
突然で驚かれたことだろうが、ママは「あしたから、来なさい」と言ってくれた。運があった。その後も、とにかく可愛がっていただいた。

すぐに気づかされることがあった。
そこは自分が思い描いていた世界とは異なる、まったくの別世界だった。CDでしか知らなかった人たちが入れ替わり、毎夜、自分の目の前で歌っている。
徳島にいたときの自分は、耳で聴いたことを、ただそのままコピーのようになぞっていた。自分の意志も感情も、深く込められてはいなかった。
最高の環境に身を置いているものの、彼ら彼女たちの強い個性は、あたかも「で、貴女はどうなの?」と問いかけてくるようだった。

圧倒された。どの人も凄すぎて、とめどなく後ずさりする自分がいた。
自分は、基本すら満足にできていないじゃないか。一体、何をするつもりでここに来たのだろう。なんて馬鹿だったのだろう。
深い懊悩がはじまった。
おそらくは、本来のウエイトレスの仕事さえおろそかなっていたに違いない。ママは、それでも黙って許してくれていた。

基本からやり直したいと思った。
アメリカでも活躍されたジャズ・ヴォーカリストの上野尊子さんに従って、英語の発音、リズム、発声などを一曲ごとにやり直していった。

東京に出てきたばかり、22歳。

3カ月がたった。
ある夜、演奏が果てたときのことだった。その日のゲストだったピアニストの山本剛さんが、「きみはヴォーカルを勉強しているんだって。だったら、一曲、歌ってみなさい」と声をかけてくださった。
残っていた3人のお客様とスタッフの前で、「マイ・ファニー・バレンタイン」を歌った。未熟だったろうが、ママがその歌を気に入ってくれた。
「うちで働きながら、山本さんのトリオのときに歌っていきなさい」。背中を押してくれた。

上京して2年ほどが経ったころ、勤務しているBODY&SOULで歌えるようになっていた。
レパートリーはまだ数えるほどしかなかった。にもかかわらず、そこで歌っていることで、別の店から出演のオファーが来た。こなしてはいったが、それがどんどん自分を追い詰めるようになっていく。
自分の力量は、痛切にわかっている。私がこんなことをしていていいのだろうか。やがて、ステージに立つこと自体が怖くなった。
一旦怖くなりだすと、止まらなくなった。悶々とした日々がつづき、想いは割れんばかりに膨れ上がっていく。そうして、ついに、後先もなく自分から逃げ出していた。

歌うことをやめ、音楽は聴きもしない。手もとの譜面は全部、捨てた。
知る人はみんな、なんで逃げ出すのかと問うた。あれほど夢中になっていたじゃないか。大好きな世界だったじゃないか。
しかし、何を言われても、身体と心が言うことを聞かなかった。このままだと自分は、もう二度とステージに立つことはできない。
秋を告げる落ち葉のように、忘れられていくだろう。怖いことだったけれど、どうにもならなかった。惨敗だった。

逃げた自分に友人が、その死をもって教えてくれたこと。

しばらくして、故郷の小学校でいっしょだった36人の仲間の一人が、突然に亡くなった。かれは夢を抱き、美容師としてやっと自分の店を持ち、これからというとき、ガンに襲われた。悲報に、打ちひしがれた。
泣いて、泣いて、いいかげん泣き尽くしたときに、はっと気がついた。
私は生きているし、どこも悪くない。声も出る。
だったら、もう一度、生きてみよう。もう一度、夢をかけてみよう。そうしなければ、先に逝った友に申し訳が立たない。

歩き出していた。
すぐにも楽器店に向かい、捨てたはずの譜面を買った。昔のように、自分なりのアレンジを加えていく。再びの無我夢中が始まった。
天にいる友に届けと、心に叫んだ。何があっても、私はもう二度と、止めない。

ずるいと思ったが、足はまっ先に関京子ママのところに向いていた。
「ほんとうに、覚悟はあるのね?」そう念を押し、ママは赦してくれた。しかもそのとき、ジャズ界の至宝とも言えるたいへんな方を紹介してくださった。その方に付き従って、ジャズを学び直せということだった。

師となる伊藤君子さんは、89年にリリースされたアルバム「Follow Me」が日本人女性歌手で米ラジオ&レコード誌のコンテンポラリー・ジャズ部門で16位にチャートされ、ジャズを知る人ならだれでも知っているほど著名な方だった。その稀有な女性によって、情家みえは立ち直っていく。

復帰させてもらった1年間は歌うこともなく、伊藤君子さんのレッスンを受けていた。
あるとき先生に、ライヴハウス「代々木ナル」で次のヴォーカルのオーディションがあるから行きなさい、と促された。
「人前で歌う以上のレッスンはないよ」。先生はそう言い、レッスンだけ受けていても始まらないからと、強く背中を押してくださった。
成果があったのだろう。合格できた。

久々のステージは、生まれたての羊のように、ひざがガクガクしていた。
オーナーの成田美紗子さんには、お客さんが入らないときも我慢して、あきらめずに出しつづけてもらった。よく育てていただいたものだ。
いまでは、お正月のライヴもまかせていただいている。光栄なことである。

いい歌を歌いたい。素直に、飾らず、まっすぐに歌いつづけたい。
ステージでは、いつも黒や白の衣装だ。過剰な飾りはない。指を絡ませ、マイクに向かってまっすぐに立ち、歌う。ただ歌で評価してほしいとの、ピュアな気持ちが伝わってくる。

復帰してから、7年が経った。
情家さんの歌は、ふだんからの礼儀正しさそのままに、一語一語が丁寧に紡がれていく。いつかその歌に、もっと自分の人生を重ね合わせてて表現できたら、私の人生も捨てたものじゃない、と思う。そうなりたい、と心で願っている。

もはや寮の壁を乗り越えたときのような激しさはなくとも、どうやら、もっとたいせつな人生の大きな壁を乗り越えられたようだ。
透明で素直な気持ちをもって、彼女は間違いなく、また夢の途中を歩いている。

取材:瀧 春樹

■情家みえオフィシャルサイト http://www.miejoke.com/