わい
わいがや倶楽部

あの素敵な方からメッセージが届きました
わたしがたいせつにしていること

NOZAWA Kanae

野沢 香苗さん

メジャーデビュー10周年 二胡奏者・歌手


思いたったら、やる。

その曲は演奏だけで、詩はなかった。けれど彼女のなかには、はるかな物語が紡がれているのだろう。
幼い子どもがいやいやをするように、悲しみに耐えていた表情の上にふと柔らかな笑みが浮かび、どこからか明るい光が射してきて、突如、ステップを踏みながら、舞う。耳をそばだてていた聴衆は、いつのまにか、彼女のすべてから目が離せなくなっている。

筆者がはじめて彼女のステージに触れたとき、知らず知らずのうちに、実際には訪ねたこともないうつくしい映像のなかに引き込まれていた。聴く人はそれぞれが思い描く場所にいるのだろうが、私の場合は、細かな霧が冷たく顔をくすぐる静寂の湖面をゆっくりと滑りゆく小舟のなかで、ただ心地よい揺れに身をまかせていた。不思議なのは、彼女が二胡を弾いているときも、あるいは弾きながら自身で歌っているときも、まったく同質の情感が押し寄せてくることだ。
そのとき、思った。そうだ、彼女は二胡を通して、じつは歌っているのだと。

野沢香苗さんは、幼少期から思春期までを、福井県で育つ。
越前の人と思われがちだが、生まれたのは東京で、代々木公園に近い富ヶ谷だった。三姉妹の真ん中で、6才のときに父の郷里である福井県坂井市丸岡町に移る。
小学校はクラスがずっとおなじ顔ぶれだからよかったが、活発だったはずの少女は、中学に入って新しい環境にとまどう。自分から友達に声をかけられない。会話のきっかけをつかむのが下手だった。だからいつも、2つ上の姉の後ろにくっ付いていた。中学ではお姉ちゃんとおなじ美術部に入ったが、不器用な妹を見かねたお姉ちゃんに勧められるまま、2年になって演劇部に移った。

あるとき劇が終わって、一人の子が「いまの、良かったよ」と言ってくれた。重い霧が晴れた。まもなく、ステージのたのしさを知るようになる。

歌うことは好きだった。姉は早くから声優をめざしていたから、姉好きの妹はしっかりその影響を受けていたのだろう。
5才下の妹を呼んで、ラジオのDJの真似事をしながらカセットテープに歌やトークを吹き込んでいく。友だちからの手紙を手にして「続いてのお便りは……」とやったり、「それでは妹さんに歌っていただきましょう」と言って、自分なりの番組を作って遊んでいた。
姉のほうは、一足早く高校を卒業して、声優のための専門学校に進むため、一人で東京に出た。勇気があった。

野沢香苗さんは、歌の道を志すようになる。
彼女が高校3年の時に亡くなった父は、東京にいたころに作曲家の船村徹先生の知己を得ていた。そのご縁をたより、卒業とともに上京し、姉のところに入り込んで歌のレッスンを受けることになった。いささか思っていたことと違ったのは、指導してくださる先生が演歌をご専門にされていたことだ。こぶしを利かせるのは苦手だったけれど、歌うことの勉強になった。

そんな頃だった。
バイト先のレストランに、脚本家としても小説家としても著名な早坂暁先生がよく見えていた。このとき先生は、新橋演舞場で行われる松竹新喜劇の50周年の舞台公演を控え、お芝居の構想を練っておられた。
ここでレストランのマスターが力を貸してくれた。先生を口説き、私の背中を押した。そして出演が決まったのだが、そのあと先生が私のために考え出された役は、お祖父さんのために二胡を弾いてあげる中国人の娘の役だった。
人生の大きな分かれ道だった。

早坂先生も勇気のいるご決断だったに違いない。なにしろ芝居経験といえば、高校の演劇部のそれでしかない。
いかにも心もとない役者だった。
二胡という楽器には触れたこともなく、てっきりバックの音源に合わせて弾く真似をするだけでよいと思っていた。ところが先生は、下手でもいいから実際に舞台の上で弾いてほしいと告げた。慌てた。
早坂先生は作品がどれも素晴らしいかわり、台本の完成が遅いことでも有名な方であった。いつも配役を決めてから書き始められるから、遅くなるのも当然なのだが、残された時間は少なかった。役が決まったのが5月、公演初日が7月というスケジュールである。その期間に、芝居と、そして弾いたこともない二胡を一曲でも修得しておかなければならない。

翌日は、渋谷の楽器店にいた。
片隅に、二胡が1つだけあった。教則ビデオ付きで39,800円のいかにも簡便な入門者用キットだった。ビデオに教えられるまま弾いてみたが、どうやっても音が出ない。塗る松脂の量が足りなかっただけの話なのだが、そのときは途方に暮れた。
次の日、個人レッスンをしてくれる先生を探し出し、海外での演奏活動を控えて時間のない先生に、ひたすらお願いした。実際の舞台では、その先生の二胡をお借りした。悪戦苦闘の末、1カ月にわたる公演をなんとか終えた。

作曲をできるようになったのは、ある光景に出会ってからだ。
2002年ごろだったか、京都・東山の法然院で演奏会があった。夕方にはまだ間がある午後の庭に出てみたら、一面の苔の上に数条の光が射していた。きれいだなあ、曲にしてみたいなあ、と思ったら、何も考えずにフレーズが湧いてきた。この一瞬まで、曲を作れるとも作ろうとも、まったく思っていなかったのに。
最初の曲「HIKARI」が完成した。

それでも二胡が職業になろうとは、思ってもみなかった。
歌は続けていた。が、裏声は出るが絶対的な地声に乏しく、その頃主流の歌い方から離れていた。歌はむずかしいかなと思いはじめ、だんだんと演劇に傾斜していく自分がいた。
いつのまにか、下北沢などの小劇場で客演していた。芝居のオーディションを受けるのに、楽器を弾ければプラスアルファになるだろうと、二胡はその後も趣味の一つとして続けていた。知人のパーティなどで演奏するうち、こんな腕前でいいのだろうかと疑問が湧きはじめた。急ぐあまりに飛ばしてきたことを、もういちどきちんと勉強し直したいと思った。

これまで3人の中国人の先生に教えていただいたが、現在のスタイルをつくったのは独学である。それゆえ邪道と言われた時期もある。
もとより二胡は中国で生まれた弦楽器である。だけど、日本人である自分の感性で演奏できたらいいなと思う。
そんななかでも、自分がいいと思うことを一緒に好きになってくれる人びとに聴いてほしい。そのためにはもっともっと表現力を高めなければ、好きになどなってもらえない。
万人に受けることを考えちゃいけない、自分ならではの自分の求める音色を見つけなければと、ずっと思っている。
幸い二胡は、擦弦楽器である。音が途切れず、たなびいていく。どこやら歌うことに似ている。

歌をやったことが、楽器を使って歌う今につながっている。演劇をやったことが、ステージ上での、曲ごとの細かな表現につながっている。
いろいろ寄り道はしたけれど、それらすべてが今の自分を構成してくれている。思い返せば、当初は楽譜すら書けず、編曲もできなかった。だから、なんでもやってみることが大切だと、痛感している。やっているうちに、どんどん出来るようになっていく。持っているものが、どんどん膨らんでいく。
それに、人はすべてを自分でやろうとしたがるけれど、人を頼ることも人からアドバイスをもらうもことも重要だ。なにより、次に自分がやろうとすることに影響してくれる。
自分はずっと、だれかの後押しに助けられてきた。幾つになっても、それを大事にしたいと思う。そうすることで人は、自分が思う以上にやれるのだから。

取材:瀧 春樹

野沢香苗さん ホームページ http://www.nozawakanae.com
動画「ancient flame MV」https://youtu.be/Gl7iseffcc8


ライブのご案内

「わたしがたいせつにしていること」にご登場いただいた、二胡奏者・野沢香苗さんのライヴのご案内です。

● soundscape「音景」
2019年4月17日(水)18:30開場
KIWA TENNOZにて。


二胡奏者野沢香苗Kanae Channel

野沢さんの演奏がYoutubeでご覧いただけます。チャンネル登録もぜひ!