
Vol.3 KURODA Toshihide
黒田 俊英 氏
アジアの人びとに手袋の技術を伝える
株式会社クロダ会長
貧しい国の人たちが、ずっと貧しいままでいる理由など、どこにもない。
四国の讃岐といえば、あなたは何を思い浮かべるだろう。
大方の人は、やはり「うどん」と答えることだろう。中心市街はもちろんだが、郊外に足を伸ばしても、これでもかというほどに讃岐うどんの文字が目に飛び込んでくる。
ただ、それだけではない。香川県には、他にも誇るべきものがある。たとえば、高級墓石の最高峰として知られる庵治石があれば、江戸時代に武士の内職として発展し、いまでは外国人観光客に人気の丸亀うちわもそうだ。
まだある。忘れてならないものがもう一つ。
手袋、である。さほど知られてはいないものの、東さぬき地域は日本が誇る手袋の一大生産地でもある。最初に産声をあげてからまもなく130年を迎えるが、東かがわ市を中心に、国内メーカーの9割がここに集結している。
その業界に、「異端児」と評される人がいた。
手袋メーカー、株式会社クロダの創業者だ。すでに社長の職務を後進に譲り、みずからはアジアと日本を結んでひんぱんに行き来する黒田俊英氏が、その人である。
不躾ながら直接そのことをご本人に尋ねてみたら、気にかける風でもなく、すぐに答えが返ってきた。
「たぶん、人がしないことばかりしてきたからでしょ」
飄々と、むしろそうした評価をたのしんでいるように見えた。

北の国から、祖父と父の故郷、東かがわにもどって。
黒田氏自身は北海道の生まれだが、祖父も父も東かがわの人だった。
置きぐすりでは富山の薬売りが知られているものの、この地でも地場産業として多くの製薬会社があり、ここを拠点として全国に売り歩いてきた歴史がある。
祖父の黒田安太郎もその一人だった。
祖父は四国にいて、遠く離れた北海道地域の販売を担当していた。
なにしろ交通機関がまったく整備されていない時代のことである。海を二度も渡る四国と北海道を往復する大変さは今では想像もつかないが、昔の人は辛抱強かった。祖父は当たり前のように、足繁く北の国へと足を運んでいた。
いつの頃か祖父は、訪ねる客先から「せっかく内地から来るのなら、呉服を持ってきて」と頼まれるようになった。頼まれるがまま、正直に着物をたずさえていくと、お客さんが大層喜んでくれる。それに、こっちのほうが、薬を売るよりずっと実入りがよかった。
祖父はしだいに、呉服の訪問販売に傾斜していった。
ただ、内地で買い付けて北海道に向かうには、多くの苦労がともなった。そのうちに、当時は札幌よりも賑わっていた小樽で買い付け、そこから道内の顧客に納めてまわるようになった。
やがて祖父は,交通の便のよい倶知安に近い喜茂別に「黒田呉服店」を構えた。成長した父の正己が、新たな家業を手伝うようになった。
一方で、北海道にも戦争の激しい足音が届くようになっていた。
終戦を迎える年、1945年(昭和20年)に入ると、ついに呉服が国の統制品となり、小さな商店が売ることは事実上許されず、黒田家は生きる道を閉ざされてしまった。
もともと温暖なところに住んでいた人たちである。それならば故郷に帰ろうと、家族そろって東かがわにもどった。

東かがわにある『白鳥の松原』。瀬戸内海に面して4万坪もの広がりを見せる白鳥神社の松原。

白鳥の松原を抜けると、目の前に広がるのは美しく穏やかな瀬戸内海。
日を追うごとに日本は、抜き差しならないところへと追い込まれていた。
4月になると、いよいよ米軍が沖縄に上陸し、3カ月間にわたって激戦を繰り広げた。招集されていた父は、その苛烈な沖縄戦で戦死した。
振り返れば終戦まであと少しというきわどいとき時期だったが、時計はもどせない。残された黒田少年は、まだ4才だった。
戦後の日本人は、ひとしく貧しい悲惨な生活を強いられた。
黒田家は、まだいいほうだったろう。物が不足していた時代でも、手もとにはもはや売れなくなった呉服があり、多少の貯えもあった。
それでも、暮らしを支えてくれるはずの父がいない。上等の着物を安く手放すなどして食いつないでいたが、母も祖父母も、働きに出るしかなかった。

クロダを支える職人と。


2018年、かがわの手袋の歴史は130年を迎える。
東かがわは戦前から、手袋の生産が盛んな土地である。
復興が始まった地元の人たちが生きる道は、限られていた。農業を続けるか、手袋にかかわる仕事に従事するか、どちらかである。
黒田少年は地元の学校に通い、祖母の内職を手伝ううちに、いつしか手袋づくりに慣れ親しみ、モノづくりのいろはを学んでいた。
まもなく高校を出るときに、最初の転機が訪れた。
兄は大阪の大学に進学して、のちに大阪府庁に就職した。さて、自分はどうするか。迷ったが、ずっと父がいない日々を見てきたこともあり、早く社会に出たいとの思いのほうが強かった。
幸いと言うか、近くに業界で2,3番手に位置する「川畑手袋」があり、そこに父の姉の娘(従姉弟)が嫁いでいた。
よく遊び、よく学んだ、貴重な5年の東京暮らし。
入社した「川畑手袋」は、東京の墨田区吾嬬町に出張所を設けていた。今なら、スカイツリーが立っているその近くと言えば、わかりがいいだろう。
新入社員の黒田氏は、数年をかけて、製造の現場やサンプルづくりなどの技術的なことも含めて基本を習得したあと、東京出張所に派遣された。
時代は急速な変化を遂げており、都会ではとくにそれが著しい。
まだまだ下駄でカランコロンの時代だったが、ロカビリーの全盛期でもあった。休日は賑やかな浅草で過ごし、ときには銀座まで足を伸ばした。幸いなことにオフシーズンには香川にもどれたから、若者にとってはまたとない境遇にあった。いまから思えば、いい見聞を積ませてくれた、夢のような時期だった。
そんな生活が5年ほども続いた。
途中で途切れたのは、日本は国をあげて高度成長の階段を駆け上がっており、みるみる交通の便がよくなり、配送が便利になり、やがてはスタッフを置く必要すらなくなって、東京事務所自体が要らなくなったからだ。
そうした経験も経て、ある変化が自分のなかに芽生えつつあった。
誰しも覚えはあろうが、さまざまな経験を積んでいくにつれ、若いうちは何でも自分でできると思うようになる。黒田さんも例外なく、25才あたりからそんな生意気な考えが頭をもたげてきて、いずれは自分で会社を立ち上げたいと思うようになっていた。
ただ、それにはまだしばらくの時間が必要だった。

独立のきっかけは、突然にやってきた。
入社してから12,3年も経過したころだ。会社が行きづまり、手袋部門と袋物部門とが分割され、それぞれが別会社に譲渡されることになった。「川畑手袋」そのものが消滅したのである。
長く世話になった会社が無くなったくらいだから、手袋業界そのものの先行きが霞んでいた。新しい組織に身を置きつつ、慎重に時代を読み、自身の構想を練りあげていった。
やがて機は熟し、1977年春、株式会社クロダが産声をあげる。
だれよりも早かった、海外との取り組み。
折しも翌1978年の後半から、中国で改革開放政策が始まり、まずは大手から日本企業の中国投資が口火を切った。
しかし、前年に船出したばかりの小さなクロダも、負けてはいない。こうした動きに呼応して、その年のうちに中国の上海にて革手袋の委託加工を開始した。さらに翌年には東かがわの現在地に国内新工場を建設するなど、矢継ぎ早に布石を打っていく。
いまでこそ海外展開は、日本企業にとってふつうのことになった。
が、すこし時代を振り返ってみれば、すぐさま行動に移していく黒田氏のスピードのほどがよくわかる。
日本のモノづくりが行き詰って、中国進出が最も顕著になったのが1980年代の後半なのだから、独立後の黒田氏の動きは目を見張るほどに速い。
彼の視線の先には、すでに、その先の風景が見えていたのだろう。
産業には光と影がある。時代によって当たる光が違う。高度成長がつづくとともに日本人の生活が向上し、賃金が思うように上がらない労働集約型の産業に人が集まりにくくなっていた。このまま行けば、事業を続けようにも、やがて肝心の担い手がいなくなるだろう。
まだ漠然とではあったが、遠からずメイド・イン・ジャパンが成り立たたなくなっていくのは明らかだった。
だとすれば、営々と積み上げてきた貴重な日本の技術ではあるが、それを求める国の人たちに惜しみなく供与して、これまでと同様に製品の安定供給をはかり、現地の方々にはそれを修得することで生活の向上に生かしてもらうほうが遥かにいいのではないか。
いわば日本の知見を活かしたプロデュースド・バイ・ジャパンこそが、これからの日本が進むべき方向なのではないか。
そんな想いが彼の背中を押していた。




積極的に海外に足を運んだ80年代の黒田会長
まだだれもやっていないことを、人を頼らず、やってのける。
海外進出は、すべてが前例のないこととなる。
右も左もわからない。だから、ふつうなら海外事情に明るい商社などの力を借りるのだが、黒田氏はそれをしなかった。
彼が型破りなのは、誰かの力を頼ることなく、裸のまま、ためらうことなく一から一人でぶつかっていくことにある。当然ながら、失敗だらけ、苦労だらけの道である。行きつくには、時間もかかる。
が、かりに失敗しても、自分でやったことならそれが力になっていく。形になって、自分のなかに残っていく。
彼はこれまで、いくつもの工場を立ち上げてきた。
たとえば、工場が出来上がってからあとの仕事を出来る人はたくさんいるが、出来上がるまでをやれる人はほとんどいない。そこには、用地探しから建屋の建設、機械の手配、人の確保など、異国でそれを成し遂げるには途方もない苦労が立ちはだかるからだ。
この人は、困難に直面したときほど、血がたぎる人なのだろう。
そして、すべてを考えきる人だ。他人から見れば無謀と思えることも、彼にとっては充分に裏付けのある闘いだったのかもしれない。
そうして、あとにつづく人が参考にしてくれればいいと、つねにノウハウをオープンにしてきた。繊維業界がどこも苦しいなか、クロダがいまも頑張っていられるのは、氏のあとも、外へ行って耕してくる人間が内部で続いてくれたからだ。

ただ、当時はまだ、いきなり中国に自社工場をつくることは考えられなかった。合弁会社を立ち上げても、主導権を握ることが許されないからだ。
だから最初は、中国のものを買い付ける窓口となっている香港からの「広州交易会」を通してスタートし、後に中国国営の商社「工芸品進出口公司」とパートナーを組んだ。
その頃の中国にはまだ、ミシンや裁断機をはじめ針1本に至るまで、使えるものは何一つなかった。むろん質のよい製品をつくる技術はない。
船の手配や通関業務などが必要な輸出入業務と、人の雇用と従業員とのやりとり、いわば労務管理などは先方にまかせ、クロダとしては材料の調達や技術指導、企画デザイン、そして日本国内での販売を担当し、役割を分け合った。
ただ、同じやるなら、いずれは独立資本で事業をやってみたいと思っていた。1985年だった。じっと時期が来るのを待っていたが、やっと合弁企業でも日本企業が過半を取れるようになり、その後は独立資本でもOKということになった。
待ちに待ったことだった。
翌年、満を持して上海黒田手套有限公司を設立し、業界ではじめて中国上海で手袋の製造を開始した。委託加工から6年目のことだった。


ミャンマーでのあたらしい挑戦。
ここがダメなら、次へ。そこもダメになったら、また次へ。ただ安くつくるためだけの後進国探しであってはならない。
それを続けていけば、社員にも、現地の人にも、そして下請けにも、どんどんしわ寄せがいって、いずれ破綻する。



インドへも歩みを進め、現地と友好関係を築いた。
黒田氏は先陣を切って中国での生産を切り開き、その後も、まだあまり日本企業が成功していないインドやミャンマーへと歩を進めていくのだが、人を頼らぬことはもちろん、人が集まる国にも地域にも向かわなかった。
居を構えた国では、だれもが選ぶ便利な都市の周辺ではなく、逆に何もない地方を選んでそこを拠点としてきた。
それには理由がある。
とりわけミャンマーは、アジアのなかでも最貧国だった。
そうした地域では農業しかないのに、肝心の農業だけで食っていけないから、多くの人が故郷を捨て、やむなく都会や他国に出稼ぎに出ている。
ひるがえって日本には、もはや担い手が少なくなって満足な生産などできないのだから、これからはその持てる技術を望んでくれる国に移転することによって、多くのアジアの人たちが一歩でも二歩でも貧しさから抜け出していってほしい。そう願って氏は、喜んで来てくれる人がいるところで仕事をする道を選んできた。

6年の歳月をかけてオープンした「MYANMAR KURODA Co.,Ltd.」。

首席大臣から営業許可証を授与。

明るく元気に見送ってくれる、笑顔が素敵な社員たち。
そのミャンマーでクロダは、貧しいがゆえに故郷では生きていけない若い人たちのために、政府が統括する職業学校のなかにミシンを持ち込み、「手袋学校」をつくった。ここで、基礎を3カ月、専科でも3カ月の教育を通して、彼らに日本の技術とモノづくりのたのしさを教えていくのである。
生徒には奨学金を支給し、望む卒業生にはクロダに入社していただく。
一方で、農業と子育てで働きに出られない主婦たちには、合間に内職として手袋をつくれるよう、別の指導機会をつくった。その一つが、内職説明会だ。
希望者には彼女たちが動きやすい午前11時から午後4時くらいまで、内職研修として3カ月くらいをかけてトレーニングする。習熟した人たちは、そのあと村に帰って、近隣の人に教えることで、輪はさらに広がっていく。

ザヤマ小学校との交流。大勢の純粋な児童たちに、歌や踊りの披露で歓迎される。

エサジョ職業学校内のミャンマークロダ手袋クラス

内職説明会で熱心に聞き入る近隣の村人たち
海外進出で大事なことは、なにより現地の人たちに迷惑をかけないこと。
そして、現地の方々の生活向上のお手伝いをできることが重要だ。
全体の底上げができれば、たくさんの人が少しでも良くなるだろう。裕福とまではいかないが、当たり前のことが当たり前にできるようになってほしいと願う。氏が際立っているのは、地域の人びとのあしたを、いっしょにつくっていく視点である。

最後に黒田氏は、こう言った。
「貧しい国の人たちが、ずっと貧しいままでいる理由はどこにもないんです」と。
この人が成功してきたのは、なにより、人間としての道義的なことにまっすぐだったからではないか。実のこもった異端児から、ほんとうの温かみが伝わってきた。
■株式会社クロダ http://kuroda.co.jp/


MIPEL国際部門で大賞を受賞する。
イタリア国際バッグ・革小物見本市MIPELでは、ミペルイッシマ国際部門となるパノラマ部門の大賞を受賞。