
Vol.2 SASAKI Kaoru
アロマテラピーの第一人者
株式会社 生活の木 カルチャー事業本部 ゼネラルマネージャー
佐々木 薫 さん
誰も知らない植物を探しに行く。
誰も知らないような植物があれば、それが地球の果てであれ、どんな奥地であれ、ためらわらずに足を運ぶ。
そうして、ふつうなら思わずひるんでしまいそうな地域の原産地を、いくつも訪ね歩いてきた。
遠い遠い昔から、人間は植物からたくさんの恩恵を受けてきている。
ときにその美しさに立ち止まり、香りを愛でては心を落ち着かせ、さらにはそれを食することで多くの人びとの健康を助け、病いの治療にも役立ててきた。
それはこれからも、ずっと続いていくことだろう。だからこそ、もっともっと、植物たちのありのままの姿を知りたい。
佐々木さんは丹念に、一つ一つ、それを確かめに行く。

はからずも出会った会社は、転換期の渦中にあった。
さまざまな旅を通して、世界各地の植物に対する造詣を深めてきた佐々木さんも、最初から自分の進むべき道がくっきり見えていたわけではなかった。
むしろ逆で、彼女自身も、ましてやこの国そのものが、まだハーブやアロマの存在すら知らなかった。会社もそうだった。
佐々木さんが在籍する株式会社 生活の木は、終戦からちょうど10年を経た1955年に、当時大学2年生だった重永 進氏が個人創業した会社である。
もともとは東京・原宿の一角で、重永氏の父が写真館を経営していた。当時は近くの代々木公園に駐留軍の基地があり、周りに将校たちが多く住んでいたから、ほとんどのお店が外国人向けの商売をしていた。
写真館を訪ずれる客も、米国人が多かった。
その跡に、息子の進氏が「陶光」という洋食器の店を構え、オリジナル陶器の販売を開始した。
いずれも植物とは何の縁もなかった。
1967年に法人化を果たしたとき、社名は「陶光 生活の木」となった。学生起業家のはしりであった重永氏はまだ若く、時代も大きく変わりつつあった。
そんな折り、重永氏は76年に2度目の渡米をした。何かおもしろいことをしたい、そろそろ陶器から卒業しなきゃ、と思っていた時期に重なった。
米国で訪れたホビーショーで、思いがけず、あるブースに釘付けになった。
近寄ると、容器のなかに花びらや葉、香草、木の実、香辛料、果物の皮や苔、香料などが混ぜ合わせて入れられており、あたりに芳香が漂っていた。いまだかつて、日本では見ることがなかったもの。それが、ポプリだった。
はじめてのハーブとの出会いに、氏の胸は騒いだ。やがては日本にも、自然志向の時代がやって来るに違いない。
自分たちがやるべきことが、うっすらと輪郭を描き始めた。
これだ。きっとそうだ。
直感はやがて確信へと変わっていく。
1986年に、社名は「生活の木」へと変わった。
ごくありふれた文字であっても、ネーミング自体はかなり斬新なものだった。いずれは人びとの日々の生活のなかで、安心して背を持たせかけられるような、やさしい木となって立っていたい。
そんな想いが伝わる。

輸入されたハーブを見て、あっ、と声を上げた日。
佐々木さんが入社したころは、陶器のビジネスから、ハーブの世界へと移行する、まさに会社の転換期にあった。
入社したての彼女は当初、何かクリエイティブな仕事をしたいとは思っていたが、これと言った特技があったわけじゃないし、ポプリにもさほど興味が湧かなかった。
ところが佐々木さんは、まもなく営業事務の仕事から企画部へと移る。
「ほかに人がいなかったから」
ご本人はそう謙遜する。しかし、これから社運をかけて行おうとする仕事の中核を誰にまかせるかは重大事であり、その人にできないと思ったら、会社はすぐに別の手を考えるものである。
静かな佇まいのなかにひそむ彼女の強さと探求心を、そのときすでに周囲は見抜いていたのではあるまいか。
幸い草木染めなどは好きだったし、自然のものへの興味は人一倍強かった。ポプリはその植物からできており、それぞれにいろいろな香りを持っている。そしてなにより植物は、古来より人びとの衣食住すべてに関わってきたものである。
好きになる素地は十二分にあった。
アメリカ西海岸から最初のハーブが届いたとき、佐々木さんは、あっと思った。はっきりとはしていなかったけれど、そこにすごくクリエイティブな匂いを感じ取ったからだ。
貪欲に知識を吸収していくうちに、だんだんと興味が募っていった。なにより自然の恵みを仕事とする喜びがあった。
しかも、基本的に手を加えないところが好きだった。
仕事と自分の趣味とが、どんどん重なっていった。
そして最後には、私の生きる道はここにある!とまで思えるようになっていく。

需要をつくらないと、農家さんに作りつづけてもらえない。
当時の日本にハーブを輸入している会社はなかったし、有用な情報はほとんど得られなかった。輸入をするにしても、独自でルートを開拓していかなければならない。
ただ、そのための知識を得ようにも手段はなく、どう準備を整えていくのかすらわからない。取り組もうとしていることのほとんどは、誰も知らない領域のことだった。
社員の一人一人が手分けして、細い糸を手繰るように文献をあさり、実際の使い方を調べ、手探りで未知の森に分け入っていった。
知り合いが海外に行くと聞けば、現地の図書館に行って関連書物を調べてくれるように頼み込んだ。入荷したカートンがあれば、紙をはがして原産地を探ったりもした。
そうした経験が、いつしか生活の木の自前主義を育んでいく。
人を頼らず、原産地から直接素材を入れて日本で商品化する。
もちろん、現地の労に報いるには、少しでも仕入れのロットを大きくしてあげたい。そのためには様々な可能性を探って、新たな商品を開発していかなければならない。
そもそも需要をつくらないと、農家さんに作り続けてもらえないことになる。

いまでは、大手資本の参画が見られるようになった。
ハーブ入りの、のど飴や入浴剤などと言うと、わかりよいだろう。それはそれで、いいことだ。
ただ自然が相手となるハーブは扱いがむずかしく、実際はそう簡単なことでもない。
毎年同じものはできないし、季節によっても条件は異なり、香りは毎日違う。品質が不安定なものだから、本来が均一化しにくい。
それでも基本的に手を加えず、自然のままの良さを生かすべきだと思う。それこそがハーブやアロマの魅力であり、なによりそこが働く人たちの誇りを支えているところでもある。
自前主義にはたいへんな苦労と困難とがつきまとう。
が、そうして身に着けたものは本物となる。
だから、原産地と直接やりとりをしながら、その時々で縦横に動けるいまの企業規模は、佐々木さんには却ってありがたい。

「世界のパートナフォームより」チュニジアのネロリ

「世界のパートナフォームより」プロヴァンスのラベンダー

「世界のパートナフォームより」イギリスのエルダーフラワー

「世界のパートナフォームより」イタリアのベルガモット
時代のほうが、すこし遅れてついてきてくれた。
悪戦苦闘を続けるうちに、追い風が吹いてきた。
すこし遅れて世界的に自然志向が高まり、それとともに日本でも市場が広がりはじめ、やがて専門誌が登場し、カルチャー教室の一部で取り上げられるようになった。
そろそろ当社でも専門的なセミナーを開くべき、という声が上がった。背景には、ハーブ自体が衣食住に深く関わるものであり、なによりその素晴らしさを広く伝えたいとの想いがあった。
自分から手を上げたわけではない。
が、このときもほかに適任者がおらず、結局、佐々木さん自身が講師を務めるようになった。
聴きに来てくださる方がたは、自分の母親世代の方ばかりだった。人生の先輩たちを前に頭を上げられず、下を向いて、ただ口を動かしていることもあった。その人たちがやがて同世代になり、まもなく妹たちのような人に変わり、
いまはもっと若くなられている。

人に教えることは、自分をもっと先へと進ませる。
自前主義で商品開発を続けるなかで、当然、たくさんの失敗を経験した。
それがあったから、うんと広い視野で自然をとらえることができたように思える。
著書も、いつしか30冊くらいを数えるようになった。
ハーブやアロマテラピーが日本人の暮らしのなかに入っていくなかで、果たしてきた佐々木さんの功績は大きい。
ハーバルライフを提唱する彼女のセミナーは、だからいつも満員の盛況である。
当初は欧米への憧れのようなものがあり、そこにメディカル面での効果も知られるようになり、急速にアロマテラピーが広まった日本は、いまやアロマの先進国である。
教えている内容もレベルも、一番高い。
むしろ海外から、日本のマーケットを評価して、逆に売り込みに来るくらいになっている。
背景には、バブル経済の崩壊や阪神淡路大震災にはじまる未曽有の災害があり、多くの人びとがストレスを感じ、いっそう強く癒しが求められたこともある。
もとより古くから四季を愛でてきた日本人は、自然を素直に受け入れられる、とりわけゆたかな素養を持ち合わせているのだろう。


世界のハーブとアロマの魅力を伝えるセミナーは、とても人気が高い。
佐々木さんのライフワークとなった、貴重なブック。
自然資源のなかには時とともに枯渇してきているものもあり、伐採できなくなったものもある。
さらに内外の原産地の手づくりの現場では、どんどん高齢化が進んでいる。
それらが消えていくことは、とめどなく寂しく、悲しい。
営々と続いてきたそうした人間の歴史を残していきたいが、せめて記録していきたいと願う。
そんな意味も込めて、2004年から「ライフウェアブック」を発刊している。特集記事を担当し、それもあって世界各地のハーブやエッセンシャルオイル(精油)のルーツを訪ね、栽培地や原生林を歩いてきた。

ローズウッドをもとめ、ブラジルへ。
最初は、ブルガリアのバラの谷を訪ねた。翌年にはアフリカのガーナに、聖なるシアの木からつくられる油脂シアバターのふるさとに向かった。
そのときは作り方を教えて現地で石鹸をつくってもらい、それを仕入れて現地にお金を落とすようにした。
農家の人びとの何らかの支援につながる、別の喜びもあった。
数えあげれば、フランスやイタリアをはじめ、オーストラリアやニュージーランド、南アフリカ、チュニジア、エジプト、エチオピア、オマーン、ブラジル、イラン、イスラエル、スリランカ、さらにはタスマニア島やマダガスカル島など、
訪ねた国や地域はかれこれ30か国近い。
そこには、屈強な男性でさえひるんでしまう危険な地域も含まれるが、佐々木さんは「人がふつうに暮らしているところは大丈夫」と言う。
ただ、このところは各地でテロや内戦、犯罪や誘拐や感染病とかがあって、容易に渡航が許されない。行きたいのに、もう3年以上も待たされている地域もある。



エチオピアやマダガスカルにも足を運びます。
いまに至るまで佐々木さんは指導というものを受けたことがない。
どなたかのお話を聴くことはあっても、すべてはビジネスをやりながら、見も知らぬ土地を訪ね、眺め、人と会い、聴き、教わり、試し、眼に焼き付けて修得してきたものだ。
個人がここまで、ひたすら学んで一つの研究を進めてきた例は、あまりないだろう。
最初は、何もない荒地に種をまくような時代だった。
ただ、人が生きるために植物の力を借りるのは、これからもずっと続いていくことである。
だからこそ、広大な畑を耕すように、地に足をつけ,一歩一歩、自分の足で新たな大地を踏みしめていたい。
地球上には、人がよりよく生きられる、本物の生活の木が、まだまだ残されているはずだから。