
vol.7 KATAOKA Yuzo
ジャズ・トロンボーン奏者
片岡 雄三 氏
片岡雄三 QUARTET 主宰・一般社団法人 日本ポピュラー協会 理事・昭和音楽大学 ジャズコース 講師
最後は、自分の力しかないんだ。
高校在学中から、名のあるビッグバンドに参加していた。
ご本人はおくびにも出さないが、片岡雄三氏の関連記事を読むと、若くして天才トロンボニストと言われていたことがわかる。間違いなく、そうなのだろう。
記事の一節に、偉大なトロンボーン奏者だった彼の父の回想が綴られていた。実の親から見ても息子は、朝から晩まで、その練習量は驚くほどのものだったらしい。
一方で息子である雄三氏にずっとつきまとってきたのが、父の「七光り」から逃れたいとする、強すぎる思いだった。
「ああ、片岡さんの息子さんね」
特別な意味などなく軽い気持ちで返される言葉も、父とおなじ道を歩き出した子どもにとっては冷徹な響きを持っていた。
そうだけど、そうじゃない。片岡輝彦の子ではあるが、おれは片岡雄三なんだ。幾度となく、そう叫んでいる自分がいた。
だから、来る日も来る日も、ただただ練習に明け暮れるしかなかった。
幸いにも父は、這い上がろうともがく息子に、手を差し伸べることをしなかった。目をかければかけるほど、本人がダメになっていく。誰でもない、最後は自分の力なんだから。そう言っているようだった。
伯父と父からはじまった、音楽の系譜。
もともと九州大分の出身だった片岡家で最初に音楽を始めたのは、雄三氏にとっては伯父にあたる、父の兄だった。
8才も年長だったから、父は早くから年の離れた兄にかなりの影響を受けてきたことだろう。
伯父は、博多を拠点とする名門ビッグバンド「中井末男とメディコキューバンボーイズ」に所属するジャズ・ピアニストだった。後年には、ジャズ、ポピュラーから歌謡曲まで、幅広いジャンルで不動の地位を築いた歌手ペギー葉山さんの専属ピアニストをやり、バリトン歌手として著名な立川清登(澄人)さんたちからも信頼されていた。
父は16才のとき、ジャズ・ギタリストをめざして、兄のいる楽団のバンドボーイになった。しかしまもなく、バンドのリーダーから告げられる。
「上手いジャズ・ギタリストは、たくさんいる。食えないよ。やめたほうがいい」と言って、こう続けた。
「トロンボーンならまだ上手な人はいないから、稼げるぞ」
父は仕方なく、ギターを捨て、トロンボーンを手にすることにした。
当時は、楽器さえ持っていれば、たとえ弾けなくても多少のお金をもらえたらしい。
業界ではそれを「立ちんぼ」と称していた。父はバンドの雑用をこなしながら、立ちんぼもしているうちに、いい音が出るようになっていった。上達は速く、きわめて短時間のうちに天性の才能が一気に開花していった。
あっという間に父は、巨匠とされたジャズ・ピアニストのバンドに所属したり、名古屋の名のあるホールから、ビッグバンドを編成するにあたってリード・トロンボーン奏者として迎えられるようになっていた。
そんな折りだ。父の噂を聴いた「原 信夫とシャープス&フラッツ」から声がかかった。
今を時めく、超のつく人気ビッグバンドだった。うれしかったことだろう。
父は勇躍、上京した。
バンドボーイとしてスタートしてから、まだ4年ほどしか経っていなかった。

お母さまと一緒に、幼少時の片岡氏。
その後も、ラテンバンドの「有馬徹とノーチェクバーナ」や、1946年に結成された日本最古のビッグバンド「ブルーコーツ」などから引き抜かれ、主要な楽団を何度か行ったり来たりしながら主席奏者を務めていた。
とにかく引っ張りだこだった。
やがて27才になって、モダンジャズをベースに活動していた「宮間利之とニューハード」に移籍し、そこで永くリード・トロンボニストを務めることになる。
結局父は、日本有数のトロンボーン奏者として、ソリストとしても活躍し、海外にも遠征した。その演奏を聴いたニューヨークタイムズ紙は、「荒々しく、逞しく、かつ男性的。いままで聴いたことがない音」と絶賛した。
父は体調を崩した67才まで、およそ半世紀を音楽一筋に生き抜いた。数少ない世界レベルの演奏家だった。
中学生のころ、ぼんやりと感じはじめた音楽への予感。
雄三氏は、父が一気に階段を駆け上がっていたころに、東京都杉並区で生まれた。
幼稚園でオルガン教室に入り、次いで手にしたハーモニカは、父親が演奏家であるにもかかわらず、平然として上下を逆さまにして吹いていた。小学生になってピアノを習ったが、4年生のときに世田谷に引っ越すこととなり、先生ともお別れしてそのままになった。
中学生になって、あらためてピアノをやろうと思ったものの、入るつもりのブラスバンド部にピアノはなかった。ブラスバンドという形態そのものを、よく理解できていなかった。
じゃあ、別の楽器を、ということになった。まもなくトロンボーンを手にするようになる。
雄三氏には、4つ上の兄がいる。その兄が大学に入り、ブラスバンド部でトランペットを吹いていた。かなりいい線をいっていたから、兄は続けたかったのだろう。
やがてプロの演奏家になりたいと告げたとき、しかし父は、猛反対をした。
言い分は、こうだった。
専門の領域を受け持つ演奏家のポストには数に限りがあるし、そもそもかんたんに一流になれるものではない。過去も現在も、失意のままに脱落していった人がたくさんいる。
しかも、ボーナスもなければ、公務員や軍人のような恩給もない職業だ。楽器を持てなくなったらそこで終わる、
まったく保証のない世界だった。
兄は折れて、就職をした。
雄三氏が高校生になったとき、再び同じ議論が繰り返されることになった。
こんどは弟が、何があってもトロンボーンをやりたいと、父に告げた。父はまたも反対した。兄のときと何も変わらなかった。ところが、結果は逆になった。弟のほうは幼いころから、変わった子だ、変な子だとよく言われていた。
自由な子と言えば聞こえはいいが、思ったままに生きるタイプだった。
末っ子の奔放さか、相手が折れるまで叫びつづける頑なさゆえか、こんどは父が折れた。
父とおなじ、16才のときだった。
幸いなことに、通っていた男子高校は学業と並行して音楽の仕事をすることに理解を示してくれた。これを受けて父は、自分が所属していたビッグバンド「ニューハード」に、まだ高校生だった息子を紹介してくれた。
そうして、レールだけは敷いたから、あとは自分でやれ、と突き放した。
バンドに入るには、楽器がいる。父の元にはメーカーから,モニターとして最新の楽器が送られてきていた。それに父は年ごとに楽器を変えていたこともあって、家のなかにはトロンボーンがごろごろしていた。
しかし息子はそれをよしとせず、自分で工面してプロ仕様の中古のトロンボーンを買った。以来、父はもとより、父以外の人からも1対1の個別レッスンを受けることは、ついにただの一度もなかった。変な子は、まだ続いていた。

もう一つの闘いと向き合う自分がいる。
一度だけ父に引っぱたかれたことがある。中学2年のときだった。
父が楽器を指して、構えてみろ、と言った。
子はトロンボーンを手に、形ばかりを真似してハイノート(高い音)を出した。調子に乗っていたから、姿勢が狂っていた。
父は、そこに置け、と命じた。とたんに楽器を蹴り、ビンタを見舞ってきた。
「くだらない音を!」
その光景は、今も消えない。
演奏に最も大事なことは、テクニックなどではない。ましてや優劣を競うことでも、自らを誇ることでもない。
父は心のなかで叫んでいたのだ。自分の音をつかんで、それから、這い上がって来い!と。
あの日から、何かが変わった。だから今の自分がいる。間違いない。
すぐ上の先輩たちの時代は、テープレコーダーさえなかった。上手な人の演奏を聴いたり、レコードを擦り切れるほど回して覚え込んだ。が、当時のSP盤は1万3000円もしたから、なかなか手が出ない。
あとはジャズ喫茶で、一杯30円のコーヒーで、粘りに粘るしかなかった。
わずかな機会をとらえて、自らにそなわったすべての神経を集中させ、研ぎ澄まし、一瞬一瞬で音を取っていく。
並大抵ではなかった。
どんな仕事にも知識と知恵があると、雄三氏は言う。
とくにいまの時代は、情報があふれ、知恵など使わなくても知識だけでやっていける時代になっている。
しかし、あの頃は、ド・ミ・ソもよくわからない、どう吹いていいかもわからない人たちが、生きていく知恵として持てる神経を集中させ、全身で対峙していた。
まさに知恵の領域の音楽だった。
知識は大事だが、知恵よりもそっちが先に来る演奏家は、つまらないと思う。逆に、知恵が先行する演奏家には、音魂(おとだま)が宿っている。
実際、当時の、苦労に苦労を重ねて自分の音を身に着けた人たちが奏でる音楽は、とんでもなく素晴らしいものだった。
自分との、一音の違いが明らかだった。
そんな先輩たちに比べれば、雄三氏はまだ少しましだったかもしれない。
中学生の頃にソニーから、大ヒットしたポータブル・オーディオ・プレイヤーの「ウォークマン」が出たからだ。
画期的だった。多くの若者が得意げにそれを持って街に出ていた。日々音楽と格闘する身にとっては、好きな音を惜しみなく聴ける、何よりありがたいモノだった。


聴講クリニックという方法も活用した。他人のレッスンそのものを見に行くのである。
最初は、一番うまい人の前に陣取って、じっとその人の息づかいや表情の変化を追っていく。指をスライディングさせる運指などの技術も盗む。
次には、ホールの一番後ろに陣取って全体を見渡し、個々の音の輝きを知る。
誰からも習うことはなかったが、今から思えば、あの頃に一生懸命に聴き、徹底して観察したことが、結局は習うことになっていた。
ただ、音楽家としての道が順調だったわけではない。
雄三さんには持って生まれたハンデキャップがあった。先天性のリューマチという難病だ。とりわけ高校3年の秋からの5年間は症状がひどかった。暗黒の時代と言っていいだろう。
病院を転々とし、病魔との闘いに疲れきっていた。大学には入ったが、通学さえままならない。楽器を持てば激痛が走り、吹くどころではなかった。当時は、死すら頭に浮かんでいた。
当然のこと、所属する楽団のメンバーとしても果たすべきことがおろそかになった。
「ニューハード」には5年間いたが、身体のこともあって迷惑をかけた。
あいつはクビだ!と崖っぷちに立たされたこともある。そのうちに、
「親の力であそこまでなれたんでしょ」
そんな囁きが耳に届くようになった。ふつうなら、今頃は別の道を歩いていただろう。
そんなとき、そうと知らないところで助けてくれていたのは、やはり父だった。
ただ、雄三氏は父が陰で動いてくれていたことを知らない。
知らないばかりか、逆に、その存在を重荷に感じていた。一日も早く、父から離れたい。独り立ちをしたい。そればかりを願っていた。
あえて自分を厳しいところに置いてみる。
著名な人気歌手などのサポートをしていれば、演奏家の収入は安定する。
ましてや人間は、一定の年齢になってくると、どうかして無難に仕事をして無難に稼いでいこうとする誘惑が忍び寄るものだ。
雄三氏とても、例外ではない。それでも、収入のためだけに仕方なく望まぬ仕事をするのは哀しかった。
人生は、1Wayだ。後もどりはしない。1Wayなのに、後もどりするほうがおかしい。そう信じ、あえて自分を追い込んでいった。
最初の宣言をした。
「これからはレコーディングやジャズ関係の仕事しかやりません」
そう言って、23才でフリーのジャズ・トロンボーン奏者になった。さまざまな反応があった。が、自分としてはジャズをやりたいからフリーになったにすぎなかった。
それからはフリーランスとして、いろんなビッグバンドに参加することになるのだが、サラリーマンの数倍もあった収入は、みるみる減少していった。
うれしかったこともある。
外部のプロモーターからのお声がけもあり、海外の名プレイヤーとの共演が実現したことだ。
93年にはピアノのサー・チャールス・トンプソン氏と、95年にはトロンボーンの名手ジグス・ウィグハム氏と、そして97年には世界最高峰と称されたトロンボーン奏者ビル・ワトラス氏とも共演した。
スウィングジャーナル誌の読者人気投票ではつねに上位にランクされていたが、2008年にトロンボーン部門で第1位になった。40才だった。
そして、いまから4年前に、再びこう宣言した。
「ビッグバンドは一切やりません。ジャズ・トロンボーンのソリストとして生きていきます」
さらに自分の生きる道を絞った。特定の楽器で個人で勝負していくソリストになるのは、相当にたいへんなことだ。
サックスの渡辺貞夫さんやトランペットの日野皓正さんなどの例はあるが、ヴァイオリンのソリストがトップだとすれば、ジャズはそういう点で最も厳しいジャンルと言える。
ましてやトロンボーンのソリストに至っては、世界的にもほぼ存在しておらず、まさしく自ら自分の首を絞めるような決断だった。

性格的に、本心を隠すのが嫌いな人なのだろう。
上手に生きられない。信念に合わないのに、折り合うことはできない。社会性のない人間とも言えるが、自分はアマチュアじゃないし、プロには責任がある。
重々、覚悟はしていたが、またしても収入は落ちていった。
はからずも今、息子が音楽大学でトロンボーンを吹いている。
まだ何も言ってこないが、これまでの苦労を思えば、かんたんに同じ道を歩めとは言えない。父が暗に示したように、這い上がって来られるかどうかは、誰であれ、最後は自分しだいなのだから。
いまの若い人には、すぐれたプレイヤーが多い。素晴らしいと思う。
過去の有りようがいいというのではない。今というあたらしい時代の文明を尊重しつつ、そこに先人たちのソウル、すなわち知恵を加えて、どうぞ音楽を進化させていってほしい。それも、こうだ、ではなく、お願いします、と伝えたい。
かつての高校生プロミュージシャンも、いつのまにか50才を数えた。次世代に向けて、トロンボーン伝道師としての役割が自分にはあるだろうと思っている。