
vol.6 SUZUKI Hiroyuki
元ヤクザの牧師さん
鈴木 啓之 氏
シロアムキリスト協会 牧師 (千葉・札幌)人生やりなおし道場 理事長
/ふるさと志絆塾 塾長 / 平成駆け込み寺 主宰 / 府中刑務所 教誨師
大丈夫だよ。
君に何があったとしても。
〜前編〜
およそ人間と言えるような生き方ではなかった。
自分さえよければ、たとえ妻や子がどれほど犠牲になろうが、どうでもよかった。
当時の鈴木さんには、ふつうの人なら備わっているはずのものが決定的に欠けていた。代わりに、あってはならない前科や入れ墨があり、両の小指の先はとうにない。みずから望んで歩んできた道が、結果として体のあちこちに刻まれている。
都合が悪くなれば、捨てる。場合によっては、逃げる。
人をおもんばかる気持ちなどかけらもなく、どう周りを利用してやろうかということばかり考えていた。それが当然だと思っていた。
ヤクザなんだから。
若手の有望な賭博師として、それなりに有頂天の日々もあった。が、一つ狂いだすと怖い世界であった。あげく、たくさんの追手から命を狙われる羽目に陥った。
逃亡者となってからは、夜半に聴こえる靴音におびえ、洩れ聞こえてくる関西訛りに背筋を凍らせる自分がいた。ここまで来てしまった自分にやり直せるはずもない。もう助からない、そう思っていた。
そんな暗闇の過去を持つ自分が、あるとき奇跡の声に呼びもどされ、さまざまな曲折を経て、いまは平穏に暮らせている。赦される理由など、どこにもなかった自分が。
だから誰かが、もしもぎりぎりの絶望の淵に立たされているのなら、人はいつだってやり直せるんだと、話してみたい。はからずも牧師になって、実際に、笑顔を失ったたくさんの人々を手助けしてきた。
なにより自分こそが、その当事者だったから。

シロアムキリスト協会
ふと迷いこんだ小径は、深い闇へとつづいていた。
どこにでもいる、ふつうの、ひょうきんな子どもだった。
裕福な家庭ではなかったが、周りもそうだったから、気にもかけていなかった。中学生のころは泳ぎが得意で、クロールなら大阪市の大会で3本の指に入るほどだった。が、残念ながら、途中で体の成長が止まった。
男子はさほどでもなかったが、女子はほとんどがオリンピックをめざすような有望な選手が集まっていた。男子といえども選手層は厚く、他の選手たちとの上背と体格の差はどんどん開いていった。そもそもストロークが違う。あれほど得意だったプールで、勝てなくなった。練習に明け暮れたが、以降はついに表彰台に立てなかった。
自分を支えてくれていたものが、なくなった。
高校に入ったが、部活のない高校生は時間を持て余す。通学の途中で中学時代の友だちと何度か出くわし、そのうち友だちの友だちも加わって、なじみの喫茶店でたむろするようになった。
みんな、金がなかった。誰かが持っているだろうと勝手に思い込んでいたのだが、ないとわかって途方に暮れた時、だれかが言い出した。
ジャンケンで負けた者が金を工面しよう、と。
とりあえず賛成はしたが、親に頼める筋合いもなく、高校生に別のいい方法があるわけでもない。しぜんに手を染めたのが、カツアゲと称される恐喝だった。最初にたまたま相手が怖がってくれて、うまくいった。そのうちにオレもオレもと、自慢するように連中がテーブルに金を置くようになった。
そんな毎日が長く続くわけもない。いずれは露見することだった。
高校1年の夏、100数件の暴行と恐喝容疑で6人全員が警察に捕まった。高校に籍を置いていた3人は更生の余地ありとして、家庭裁判所が親の保護を条件に不処分とし、在校していなかった残りの3人は鑑別所から少年院に送られた。
このとき警察は、高校には報告しないと言っていた。
知らん顔をして一旦は学校にもどったものの、不思議なことに、以前とは見える景色が違っていた。同じ学生が、まるで子どもに見えてくるのだ。そのうち何かの行き違いで、例の事件が学校に明るみになった。表向きは自主退学だったが、学校を去らざるを得なくなった。
いろいろ試してみたが、どれも続かない。
たまたま友だちの一人に、大阪でも老舗の博徒組織として知られるS組の、後に五代目となる人の甥がいた。そしてその友だちは、「釜ヶ崎」の名で知られる西成区のあいりん地区で喫茶店をやっていた。住むところがあり飯も食えるという理由で、寝泊まりするようになった。隣に組事務所があり、博打場にも出入りするようになる。
ヤクザに対抗するには、自分がヤクザになるしかない。
大晦日の夜だった。大阪ミナミのディスコで、若いのと肩がぶつかった。
こっちから喧嘩を吹っかけて表で待っていたら、どやどやと男たちがやって来て、おもわずわが目を疑った。相手には、質の悪そうな仲間が20人ほどもいたのだ。返り討ちの、袋叩きだった。こっぴどくやられ、朦朧として意識が消えた。
嘔吐したのかもしれない。気づいたら、友だちの家のトイレの床に転がっていた。その横で友だちは、平然とシンナーを吸っていた。
体の痛みが収まるにつれ、そろそろお礼参りに行ってやろうかと考えていた。その矢先に、なんと向こうから「慰謝料を払え」と言ってきた。殴りつけた一人がヤクザで、相手が悪かった。友だちに協力してもらって、とりあえず20万円を払った。
が、これで終わるとは限らない。いけると思ったら、とことんしゃぶりにくるのが彼らだ。
気持ちが収まらなかった。考えに考えて、ヤクザに対抗するには自分がそうなるしかない、と肚を固めた。本気だった。
S組に頭を下げて、ある組を紹介してもらった。
同じヤクザでも任侠道を掲げる博徒は本筋で、金回りもよく、同業者だけでなく町の人にも一目置かれる存在でもあった。なんとなく憧れもあった。
ところが紹介してもらったところは、博打とは無縁の組織だった。博打で稼げない組は、店からみかじめ料と称する用心棒代をひったくるなど、自分の才覚で金を集めなければならない。18才になって間もない時期、あらゆる雑用を言いつけられる部屋住みから始めて、一から家業の掟を叩き込まれることになった。博打打ちとはまた違うヤクザの姿を見ることになる。
半年くらい経ったころ、電話番をしていて、ささいな行き違いで親分に迷惑をかけた。親分は何も言わなかったが、兄貴分から命じられて指を詰めることになった。これが最初で、二度目と三度目はいずれも博打の借金に絡む不始末が原因だった。
鯉と金太郎を配した入れ墨を入れたのも、この頃だ。
20才の頃、組と組との抗争が烈しくなっていた。大暴れしたのが元で、警察に追われるようになった。半年ほど瀬戸内海に身をひそめ、砂利船に乗っていた。
その頃に最初の結婚をしたが、結局、別件もあって出頭することになった。
月に一度、女手一つで二人の子どもを育ててくれている女房が面会に来てくれていた。少しは冷静になって、申し訳ないという気持ちになったが、出所するとすぐに元にもどってしまった。離婚するしかなかった。26才だった。
それからは積極的に、賭場に出入りするようになる。最初は雑務の手伝いから始め、兄貴分のやっていることを見よう見まねで覚えていく。
関西では、花札ほどの大きさの札に独特の文様で数字を表した「手本引き」が本式だ。親が出した一から六までの数字を当てる単純な勝負ながら、互いの心理の奥の奥までを探り合う究極の駆け引きがあり、最も格の高い博打とされている。
張り詰めた空気に水を差すことはご法度である。だから、客の灰皿やおしぼりを取り替えるタイミングも、勝負の流れを読む勉強になる。そして賭場が引けると、家に札を持ち帰り、寝る間も惜しんで練習に明け暮れた。本物の博打打ちになりたい一心だった。
若手ナンバーワンの賭博師ともてはやされて。
30代も半ばを迎える頃には、その世界でそれなりに知られた賭博師になっていた。
雑誌にグラビア入りで「売り出し中の若手の博打打ち」などと紹介されたこともあって、賭場からよく声がかかった。
座っているだけでまとまった金をくれる。今夜はヘタなイカサマはできないと、客同士が思ってくれることで博打場に一本筋が通るから、という理由である。有頂天のなかにいた。
博打場には2通りあって、いつも開いている常盆(じょうぼん)があり、別に、こちらから客に声をかけて集める手配博打がある。
賭場では、一夜にして数億という金が盆の上を飛び交う。自分が賭場を開く場合は、かなりの高額の資金を用意して、そのうえで途中で金が尽きたり、なかには金を持たないで来る客もいるから、盆を回す資金としてさらに同額ほどを都合しなければならない。
その見せ金をつくるのに、賭博師専門に金を貸す連中がいる。ひと晩の利子が1割である。だから、負けるときには借金がどんどん膨れあがっていく。それがプロの賭博である。
鈴木さんには弱点とも言えるものがあった。
博打打ちは、たとえ一回の勝負で1千万円すろうとも、頬をぴくりともさせず、「いい遊びをさせてもらいました」と笑って立ち去るのが鑑(かがみ)だ。
もとよりプロは、イカサマの技に通じている。大負けをして、なんで使わなかったのだと烈しく詰め寄られたこともある。格好をつけて言うなら、博打打ちとしての美学のようなものだったろう。甘いと言えば甘い。きれい事の世界じゃないのに。
大きな借金ができていた。
2度目の懲役からもどって10日ほどが経ったころ、兄貴分に誘われるままコリアンクラブに呑みに行った。そこで、かけがえのない女性と出会う。親兄弟の生活を助けるために日本に働きに来ていた韓国人女性で、ひと目見て心を奪われた。
それからというもの、ある月は35回も店に通った。持ち前の強引さもあって、なんとか夫婦のような関係になった。
しかし、博打打ちの浮き沈みは激しい。元からあった借金はますます膨らんでいた。
せっかく惚れこんだ女性に出会えたのに、日々の諍いが彼女にはつらすぎて、結局別れて暮らすようになった。別れてみて、気がついた。街へ出ても、どこかで彼女の面影を探している自分がいた。
その頃はよく東京へと出かけていた。
あるとき、赤坂のコリアンクラブの女性に「教会に行こう」と誘われた。あとで知ったことだが、韓国の人にはキリスト教の信者が多い。日本に来てやむなく夜の街で働いている彼女たちには、心を痛めることが多い。それだけに、神の救いと癒しを求める気持ちがいっそう強くなる。
連れていかれた新宿の教会は正面に十字架があるだけで、あちこちで誰彼がただ祈っていた。一瞬にして、思った。
「こんなとこ、1秒たりと、わしのいるところやないわ」。
大阪に帰ると、別れた人に会いたい気持ちが募った。
運よく再会にこぎつけたが、彼女にはもう二度といっしょに暮らす気などなかった。ところがそれでは、こっちがおさまらない。その日のうちにこっそり彼女の家を突き止めて、強引に転がりこんだ。
相手の意思などどうでもいいのである。激しく拒絶され罵倒されたが、かたくなに居座って、ともかくも2度目の同棲生活が始まった。