わい
わいがや倶楽部

じわ〜っと沁みてくる
君の背中に贈る言葉

vol.5 MIYASAKA Naotaka

宮坂 直孝 氏

真澄蔵元 宮坂醸造株式会社 代表取締役社長


しあわせ研究家になってほしい

ふだんは気づかずに暮らしていても、あらためて身のまわりを見渡せば、時の変化とともに日々の表舞台から退場していったものは数知れない。
いつのまにかこの国の家族のかたちが変わり、食事の風景が変わり、酒造業界もまた長い年月にわたって苦難のなかにあえいできた。たとえばオイルショックの頃に全国で造られていた年間10億本もの一升瓶は、いまでは3億本にまで落ち込んでいる。下降はいつ果てるともなくつづき、およそ30年間で、総需要が3分の1以下にまで減ったことになる。
近年になってからは、さすがに下降のカーブがゆるくはなってきた。しかし、減少自体は今もつづいているのである。

もとより伝統は尊ぶべきものである。それでも市場が極端に縮んでいくなか、しかも大手メーカーの間に挟まれて生きていく地方の酒蔵が、ただ古きことを良しとして嵐が止むのを待っていたのでは、いずれ沈むしかない。
とは言え、綿々と続けてきたことを変革するのは、決して容易なことではない。
諏訪大社に代表される古い歴史を有する地にあり、江戸前期の寛文2年(1662年)より代々つづく家業ともなれば、なおさらのことだったろう。
銘酒「真澄」で名高い宮坂醸造の当主、宮坂直孝氏は、それでも迷うことなく後者を選んだ。常識に逆らい、果敢に古い殻を壊していくことでのみ、生き残る道が開ける。そう信じ、いち早く新しい方向へと歩み出していった。

信州・諏訪のゆたかな自然のなかを、奔放に生きた少年時代。

諏訪盆地は、八ヶ岳、蓼科、霧ヶ峰の麓に広がる標高750mの高原にある。元来が厳しい風土にあり、しかも盆地の大半が諏訪湖に占領されてしまっている。人が住める平地は少なく、何か工夫をしなければ生きていけないような土地柄だったから、おのずとモノづくりが進んだ。ご存じの方も多いだろうが、カメラや時計などの精密工業で栄え、工業生産高は今も抜きん出ている。
一方で、酒蔵も多かった。自然の恵みとともに生きる酒造業は、いわばこうした工業化とは対極にあるものだが、高い標高ゆえの寒さと信州の山々の伏流水が酒造りに最適であるうえ、すぐ北で甲州街道と中山道とが交わる交通の要衝でもあった。近くの下諏訪宿は往時から中山道屈指の宿場であり、旅人が忙しく往来し、酒を造って販売するには格好の立地でもあった。こうして数百年の歴史を刻んで、綿々と酒造りがつづけられてきた。

氏は1956年に、ここ、諏訪の地に生まれた。
当時の子どもはたいていが遊びの天才であったが、湖と川と山とに恵まれ、とりわけ奔放な少年であったようだ。
諏訪では、たくさんの川が湖に流れ込んでいる。だから、大雨がつづくとすぐに水が溢れ出た。ガソリンスタンドから拝借した空のドラム缶でいかだを組んで漕ぎ出したら、湖にまで流れ出て、大騒ぎになったことがある。
得意の忍者ごっこでは、近くの高島城の石垣によじ登り、少年忍者はみごとに濠に落っこちた。
かくれんぼの舞台は、主に隣りにある親戚の味噌蔵だった。タンクのなかにはたくさんの酵母が生きており、あやまって落ちたら、酸欠になって数秒で落命する危険極まりない場所だ。しかも味噌蔵には、乾燥させた大豆を麻の袋に入れた「またい」が山と積み上げられており、崩れ落ちればひとたまりもない。
よく無事に育ったと、氏は思う。怖いもの知らずの少年には、将来家業を継ぐという意識など、まったくなかった。

日本酒の歴史を変えた 「七号酵母」の発見。

宮坂醸造の名が一躍、全国に知れわたったのは終戦の翌年、昭和21(1946)年のことだった。
「真澄」は、その3年前にも、当時の大蔵省が主催する全国清酒鑑評会で第1位に選ばれていた。それはそれでたいへんな出来事であった。が、話はそれで終わらない。いまだ規模が小さく、さほど知られていない田舎酒蔵の酒が、同年になんと最上位の1位から3位までを独占してしまったのである。
当時の杜氏たちが、渾身の力を振り絞って醸したのは言うまでもない。が、じつは陰の功労者がいた。永く宮坂醸造の酒蔵に棲みついてきた、いわゆる蔵付き酵母がそれだった。

数多ある酒のなかで、なぜ真澄だけが、こんなに抜きん出ているのか。
当時の最高権威であった大蔵省醸造試験場の山田正一博士は、答えを見つけ出すべく、遠く諏訪の酒蔵にまで足を運んだ。迎えるほうは、名誉なことだった。
隅々まで丹念に酒蔵を見てまわった博士は、発酵中のもろみから、ついに新種の酵母を発見する。博士は祖父に断わり、みずから醸造協会酵母七号と名づけた。博士に心酔していた祖父は、これを無上の喜びと感じ、感涙にむせんだという。

祖父の眼は澄んでいた。思いがけぬ天からの恵みを、1社で独占することなく、広く酒造業界全体のために公開した。
博士によって持ち帰られた通称「七号酵母」は、大蔵省から全国の酒造所に配布された。これによって業界全体の品質が向上し、どこでも安全においしい酒を造れるようになった。
余談だが、発見から70年以上を経た今も、七号酵母は全国の60%の酒蔵で活躍しており、功績の大きさは疑いようもない。95歳で大往生を遂げるまで、祖父はめっぽう酒に弱い体質にもかかわらず、朝夕の利き酒だけは欠かさなかった。子孫に美田を残すことなど考えもしない、ただまっすぐな人だった。

直孝氏は、今日の品質の基礎をつくり企業精神をつくった祖父から、酒造りの技術関連の基礎を学んだ。
そして父からは、マーケティングの基礎を教わっている。父もまた苦難の連続のなか、立派に仕事を遂行し、かたわら、わが子にさまざまな道を指し示した。
祖父と父は仲がよく、二人とも決してらくな道のりではなかったが、それぞれにたいせつなことを伝え残してくれた。なにより、オーナー家はいつも死にもの狂いであることを、子は身をもって教えられた。

父は父で、先を見ていた。
直孝氏が高校に入ったときのこと。深い考えもなく、テニス部に入ろうとしていたときだ。すかさず父が飛んできて、一喝した。「こんなんで、スポーツなんかやるんじゃない!」あとから思えば、無理もなかった。父はそれなりに期待もしていたのだろうが、じつは入学時の成績が後ろから3番目だった。ぐうの音も出なかった。
やがて慶応義塾大学へと進み、卒業が近くなって就職しようとしたときも、父に不意を突かれた。「これからはアメリカの時代だ。外を見てこい。英語をマスターしてこい」父はあたらしい時代を見ていた。
強く背中を押されて、直孝氏はワシントン州にあるゴンザガ大学に留学する。
そこでは年中、英語でのレポート提出を求められた。が、まともに立ち向かったら、アメリカ人学生に負けてしまう。そろそろ後継者意識も芽生えつつあったから、それならと、あえて「日本酒をアメリカ市場にどう定着させるか」をテーマに掲げた。教授にもよくわからない領域の研究である。おかげで、MBAを取得できた。

酒と酒蔵さえ中心にあれば、何だってやってみたい。

古い体質を打ち破るために、宮坂醸造は父子鷹で先がけてきた。
代表的なのが、その時期にしか販売しない季節商品の開発だ。暑い季節はあまり酒が売れないこともあって、昔は「夏の間は屋根のペンキ塗りでもしていろ」と言われたものだった。だったら、夏においしい、夏だけの酒を造ろう、と思った。
とはいえ、加熱処理をしない本物の生酒は、2日間常温に置くだけで腐ってしまう。通年の酒をラベルだけ張り替えるのとは、訳が違う。時間も労力もかかるが、研究に研究を重ね、当時まだ発展途上にあったヤマト運輸と組んで、生の酒を自宅まで直接届けることに成功した。業界の嚆矢だった。
海外展開も早かった。アメリカでの留学経験をベースに、2000年くらいから進めてきた。
メーカーではあまり例がない、自社のショップもつくった。直孝氏には、アメリカ留学から帰ってしばらく東京の伊勢丹に勤務していた時期がある。当初は婦人服部門を担当していたが、そこでは商品アイテムもディスプレイも、2週間ごとに売場が変わっていく。酒蔵も単に問屋に卸すだけではなく、みずから消費者と向き合って市場の動向を知り、より素晴らしいものを生み出していく接点が重要だと感じたからだ。

これまでに何度も、フランスやイタリアのワイン醸造元を訪ね歩いてきた。ボルドーでもブルゴーニュでも、彼らは自分のところのことだけでなく、自分たちの産地をとても大事にしていた。みんなで競い合うことで、地域全体を盛り上げていく。正しいと思う。
国内に目をもどせば、5年ほど前から、酒づくりが元気を取り戻しつつあると感じている。きっかけが、東日本大震災だった。とくに東北の酒蔵はたいへんな目に遭っている。再起を図るかどうかの過程で、おそらくは父たちの代から子の代へと移譲がなされたのだろう。それによって若い人たちが、こんどは自分たちが造りたい酒を造るようになった。彼らが好きにやった結果が、出てきはじめている。ある意味で業界は今、維新であり、ルネッサンスの時期を迎えている。たのしみだ。

今の若者はなかなかに出来物だと、直孝氏は言う。
国際性があり、情報を持っており、ボランティアなどの活動から見て公共性も備えている。ただ願わくば、もっと世界に出ていってほしい。そのうえで、物事を考えてもほしい。日本文化のレベルの高さにも気づいてほしい。そうした先に、自分がやりたいことが見えてくるのではないだろうか。
今の日本にはモノが溢れている。もう、何もなかった昔じゃない。途上国の人の幸福と成熟した国の人の幸福は違うのだから、所有することを喜びとする時代は去って、これからはほんとうのしあわせを追いかけていく時代がくるだろう。
何が必要で、何が私たちの心を満たしてくれるのか。自分自身がだれよりも「しあわせ研究家」であってほしい、と願う。

あたらしい「七号酵母」を、きっと見つけよう。

市場はまだ下降がつづいている。が、製造技術はすごく上がってきている。品質への自信からか、酒蔵の当主としては意外とも思える言葉が飛び出した。
「毎日、大吟醸とかの特別なお酒でなくていいんです。
料理も、お母さんがトントン作ったものでいい。お酒には、家族や仲間がそういう時間を供給できる可能性がある。しあわせな仕事を与えてもらいましたよ」

七号酵母が宮坂醸造の大きな柱であったことは間違いない。しかし同時に、その存在が苦しみの一つともなっていた。人びとの暮らしが変わり、嗜好が成熟してきているのに、そこに留まっていていいのだろうか。
だから、あえてほかの酵母を使ったこともある。
しかし、時を経て、もう一度七号酵母に帰ろうと思いはじめた。
酵母は、ただ1つではない。ファミリーなのだ。しかも変化する。自然界には必ず、時代に適したもっといい酵母が隠れている。七号酵母から、それを見つけ出す。

10年かかるか。それでも届かないか。
砂漠から一粒の石を見つけ出すような、いつ終わるとも知れぬ旅であり、必ず報われるという確証もない。
が、宮坂氏はそう言い終えて、一瞬、力強くうなずいた。それは案外、近いことなのではないか。
ふと、そう思った。