わい
わいがや倶楽部

じわ〜っと沁みてくる
君の背中に贈る言葉

vol.2 OKI Toru

MR.イエロー・ブルース 大木 トオル 氏

ブルースシンガー・一般財団法人 国際セラピードッグ協会 代表 動物愛護家


行け。

気がつくと、かたわらの草を噛んでいた。
ニューヨークのセントラルパークでのことだ。所持金は底をつき、いかに空腹だったとはいえ、そこに草まで食べている自分がいた。苛烈な半生だった。当時いまだ歌謡曲が主だった日本の若者が、わざわざ黒人音楽であるブルースを引っさげて、単身アメリカへと乗り込んだのである。無謀を通り越していた。
覚悟のうえとは言え、大国アメリカの壁は強大で、こじ開けられるわずかなすき間もなかった。叩きのめされる日々のなかで、それでも歌うことをやめようとは思わなかった。正直に言えば、生まれた国に居場所もない。音楽にしがみつくしか、他に生きようなどなかったのである。
まもなく、大木トオルの名を冠したバンドを結成して、各地をめぐる。ブルースで育った黒人ミュージシャンたちをバックに、日本人が歌う。
不思議な光景だが、絶対に負けないとの強い意識と、近づけば火傷しそうに熱い、魂の叫びがあった。

ただ、歌うほどに迷いは深まっていった。自分は黒人ではない。黒人の心を追いかけ、内にある日本人的なものを排除しようとすればするほど、かえって日本人の感情が入り込んでいく。そして皮肉なことだが、それがアメリカの人には逆に新鮮な音楽として聴こえている。ふと、思った。それでいいのではないか。
そうと気づいたとき、大木トオルだけの“黄色いブルース”が産声をあげた。氏はやがて「MR.イエロー・ブルース」として、次々と全米でのコンサート・ツアーを成功させていく。

あれから、どれくらいの年月が経ったのだろう。いま大木氏のまなざしは、嵐が過ぎ去ったようにおだやかに、凪いでいる。堂々たる体躯と風貌こそ変わりはないが、こぼれ出る言葉はどれもていねいで、一語一語にやさしさがある。なぎ倒されてはそのつど起きあがってきた人ゆえの、真実がこもる。
もはや炎は消えたのか。いや、そうとは思えない。奥深いところでいまも、この人は見果てぬ夢を追いかけている。若い人たちに何を伝えたいかと問えば、時をおかず、迷いのないひと言が返ってきた。
「行け」。それだった。

12才で家族が離散。故郷から逃げ出すしかなかった少年時代。

まだまだ戦後の荒廃が残る東京の下町、人形町に生まれた。
どこの子どももそうであったように、当たり前にそこで大人になっていくはずだった。が、そうはならなかった。
少年は、話そうとしてもうまく言葉が出てこない吃音障害だった。教室でみんなの前で教科書が読めない。駅で切符が買えない。だれも自分の言葉を待ってはくれなかった。大人がそうだから、子どもたちはなおさら容赦がなかった。
そんななか、少年が飼っていた犬だけは違った。いつまででも待ってくれた。哀しみから救い出しててくれる、唯一の友だった。この時の経験がのちに、音楽と並び立つ大木氏の生涯の仕事となっていく。

日本橋人形町で暮らしていた幼少時代

もうひと組、かけがえのない人たちがいた。少年を育ててくれた祖父母の存在である。祖父は、アメリカに夢を抱いていた。明治生まれの男が、あの時代にコーヒーとトーストとベーコンエッグを食べ、パナマ・ハットに蝶ネクタイ、ステッキを手に日本橋のデパートを歩いていた。
そして、ことあるごとに、少年の耳に囁いた。「アメリカはいいぞ、すごいぞ」。
いつしか少年もアメリカに憧れるようになる。祖父が買ってきたステレオはラジオも聴けたから、駐留軍向けの放送、当時のFENから流れる黒人たちの音楽に夢中になっていった。だが、そのうち父が事業に失敗する。どうにも立ち行かなくなっていよいよ逃げ出そうというその日、犬を連れていきたいと少年は訴えた。が、それどころでなかった。「いい人にもらってもらうから」と諭され、一家は離散し、あてにならない約束だけが残った。

行くしかない。黒人たちのブルースの故郷、アメリカへ。

日本という国は、ついに生きる場所さえ与えてくれなかった。もはや何もない。頼るべき人もいない。あるのは、吃音障害だけだった。ところが不思議なことに、歌うことだけはできた。ラジオに齧りつき、来る日も来る日も歌っていたせいかもしれない。そうだ、自分にはこれしかない。祖父が憧れたアメリカに渡り、ブルースで生きて行く。迷いはなかった。
が、事態は再び暗転する。
覚悟を決めたそのとき、すでに病魔が身体をむしばんでいた。一円玉大の穴が三つ、胸に空いていた。重度の結核と診断され、ただちに千葉の国立療養所に隔離されることになった。心が荒れていた。扱いにくい患者だった。そんなある日、曲が浮かんだ。以来、曲づくりに夢中になった。立ち直っていく自分がいた。2年半の闘病ののち、ようやくにして羽田空港に立った。黒いカバンに古びたギター。カバンの内には入院中にすっかり黄ばんだ白のスーツと、Gパンとテープレコーダー。そして、楽器とアンプを売って得たわずかばかりの貯え。旅立ちのすべてだった。
アメリカに特別な何かがあったわけではない。かすかな頼みと言えば、数年前に来日し、たった一度だけ紹介され、軽い会話を交わしていた或る黒人女性歌手を訪ねることだった。ロサンゼルスの空港から彼女に電話をし、言われるままに家を訪ねたら、大勢の家族の支柱である通称「ビッグママ」から思いがけず滞在を許される。その人は、生涯の恩人となる。
アメリカは、人種のるつぼである。人種差別は避けられない。黒人として、いやというほど思い知らされてきたビッグママは、こう言った。「私たちは黒人で、お前は黄色だ。白人じゃない。お前は、こっち側だ」と。黄色は白に近いが、この国では黒のほうに近い。そしてすぐに、そのことを思い知らされることになる。
最初のステージのギャラは、わずかに5ドルだった。しかもそれは、手渡しでくれたものではなく、楽屋で投げられたものだった。氏は黙って、床に落ちた札を拾う。この国で生きていくために。

THE BOTTOM LINE IN NEW YORK

それでも、どこかでチャンスをくれるアメリカ。

よそ者を厳しく撥ねつける一方で、チャンスを与え、自分を再起させてくれたのもアメリカだった。評価すべきものは、人種を乗り越えて認めてくれる。それが、アメリカの大きさである。日々地方のクラブで歌いながら暮らすうちに、ロサンゼルスを中心とした西海岸での活動に飽き足らなくなる。やはりニューヨークである。そこで認められてこそ、ほんとうの勝利と言えるだろう。氏はまもなく行動を起こし、成功への階段を駆け上がっていくのだが、ここにその後の活躍を紹介するだけの紙数はない。

氏はのちに、黄色い日本人によるブルース、すなわち「MR.イエロー・ブルース」として、数々の全米コンサート・ツアーを成功させる。結果としてアメリカは、両手を差し出して氏の音楽を迎え入れた。歌手として米国労働者と認可され、さらにアメリカの永住権を取得したミュージシャンは、後にも先にも、この人しかいない。

サンフランシスコ ブルースフェスティバル

生命あるものは、幸せになる権利がある。

失ったものを取り返していく人生だった、と大木氏は振り返る。いまの自分には、支えとなる2つの大きなフィールドがある。一つは音楽、まぎれもなくブルースである。そしてもう一つが、少年時代の自分を救ってくれた、犬への限りない愛情だ。犬から教えられ、勇気をもらうことは多い。かけ引きがなく、嘘もない。にもかかわらず日本では、いまもたくさんの犬が町に捨てられ、殺されている。お願いだ、ガス室を止めてくれ! 氏の悲痛な叫びは、なかなか届かない。
だからこそ、人生最後の戦いだと思い定め、日本中を回って声をあげる。動物愛護家として、日米親善にも尽くす。犬の救助とセラピードッグの育成に捧げた年月は、かれこれ40年になる。「生命あるものは誰も、幸せになる権利がある」、大木トオルのもう一つの、魂の叫びである。

捨て犬・被災犬の救助

老人ホームでのセラピー活動

セラピードッグの育成

救助された捨て犬・被災犬たちと、国際セラピードッグ教会のみなさん

取材:瀧 春樹

リンク先:
一般財団法人 国際セラピードッグ協会 http://therapydog-a.org
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