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わいがや倶楽部

すこしお話、聴かせてもらっていいですか。
副編集長のきらきらインタビュー

イタリア・ピエモンテ州のナッツが、信州の風土で実を結ぶ

ヘーゼルナッツ農家 ㈱フル里農産加工
つくりたて生アイスの店 ふるフル 代表

岡田 浩史 氏

OKADA Hiroshi


ヘーゼルナッツと問われて、食べた記憶はあっても、すぐにその樹木の姿まで想い浮かべられる人は、まだまだごくわずかでしょう。
そんな、日本人にはあまりなじみのないヘーゼルナッツですが、ふるさと長野に似た土地で豊かに実るその光景が忘れられず、わざわざイタリアから苗木を取り寄せ、ある確信を持って自分で栽培を始めた方がいます。
何がその方を突き動かしているのか。どんな設計図を描いておられるのか。答えを知りたくて、長野にあるその農園を訪ねてみました。
と、そこには、意外にも昨今の気象変動を見据えた、農業のあたらしい挑戦がありました。


農産加工所代表の岡田浩史さん。
長野市でつくりたて生アイスの店「ふるフル」を営みつつ、ヘーゼルナッツの栽培に取り組んでいます。
長野の農作物といえばりんごが有名ですが、「100年後を見据えて、りんごに代わる新しい特産品を創り出したかった」そうおっしゃる岡田さんは、じつは農業経験ゼロ。それでも5年ほど前にヘーゼルナッツの栽培に立ち上がりました。

かつてのサラリーマン時代に、ピエモンテ州で見た広大なヘーゼルナッツ畑の風景があったからです。
どこか似かよった、空、山、気候があるこの長野の地でも、それと同じような風景がつくれるのでは?そう思ったのでした。

意を決し脱サラをして、2013年からヘーゼルナッツの試験栽培を始めます。
そして2017年に、世界一美味しいと評判の高級品種「トンダ・ジェンティーレ・デッレ・ランゲ」の苗木を、なんと300本も長野に取り寄せます。
仲間も増え、それにともない翌年からは輸入本数も増やし、栽培を本格化させておられます。

それでは、ナッツに熱い情熱を燃やす、岡田浩史さんにインタビューです!

― ヘーゼルナッツと言えば、“チョコレート”や“クッキー”の中に入っている木の実ということぐらいは知っていたのですが?

そうですね、一般的にあまり実を食べることは少ないですね。言われるように加工してお菓子などに入れます。私のヘーゼルナッツ栽培の話は、たどっていくと高校時代にまでさかのぼるんですよ。
15歳の時、近所に大型スーパーが出店してきて、その中にアイスクリームの専門店ができたんです。そこでアルバイトを始めました。
他にもいくつかのアルバイトを掛け持ちしていましてね、自分でいうのもおかしな話ですが、昔から仕事が好きでして、まあ習慣みたいなものです。

卒業後は、アルバイトが高じて、そのままアイスクリーム店に就職しました。 それからしばらくして新店舗がオープンすることになって、そこでは店長として2年半の経験を積ませてもらいました。

― 言われてみれば、今もアイスクリーム屋を経営なさっていらっしゃいますね。
それからはどうなりましたか?

アイスクリームの仕事をする傍ら、調理師免許を取得しました。
それでアイスクリームの仕事を卒業させていただき、ひょんなご縁から、パン屋さんでお世話になることになりました。

もちろん、いずれは独立して自分の店を持ちたい、という想いはありました。
25歳の時でした、運よく共同経営をするパートナーと出会え、それで独立したんです。
店は順調に3店舗となり、26歳のときには結婚しました。
ただ、元旦以外はほとんど休みも取れず、早朝から夜中まで働きっぱなしで。そんな状態ですから、結婚したとは言え一年間で一度も家内と一緒に食事をすることがなかったほどです。

家内にはずいぶん心配をかけましたし、あまりの忙しさに、今度は逆にこれからの生活に不安を感じるようになってしまいまして。

― それで思い切った決断をされるのですね。

ええ。当時、機械関係でお世話になっていた食品加工機械の輸入商社に転職することに決めたのです。
せっかく立ち上げた店でしたが、結果的には共同経営から抜けさせてもらうことにしました。

ただ良かったのは、その商社が業務用の専門的な機械をイタリアなどから輸入して販売していたため、洋菓子業界でトップクラスのパティシエらともお会いする機会が多くありました。日本全国はもとより、ヨーロッパやアジア各国へ出張する機会も多く、個人的に世界が広がりましたね。とても刺激的で、いい経験になりましたよ。

― さて、いよいよヘーゼルナッツとの出会いのお話ですね?

はい、今から約15年ほど前です。
イタリアから有名なパティシエを招き、洋菓子の講習会を開催することになりました。
講習会で使う材料は事前に調達しておいてほしいと、イタリアから材料のリストの連絡がありましてね。
その中に「ヘーゼルナッツ=5kg」と記載がありました。
なんのためらいもなく、それならばトルコ産と思い、トルコのヘーゼルナッツ協会に連絡をして、材料を調達したんです。
ところが、いざパティシエが来日して、ヘーゼルナッツの袋を開けた途端、言われてしまったんです。

「これはトルコ産じゃないか? ピエモンテ産は手に入らなかったのかい?」

世界で生産されているヘーゼルナッツのうち、約56%がトルコ産で、第2位がイタリア産、第3位がアゼルバイジャン産でした。(2016年産調べ)

ところが、コンクール等で優勝する確率が高いヘーゼルナッツ入りのチョコレート菓子は、じつはたいていがイタリア・ピエモンテ産のヘーゼルナッツを使っていたんです。
日本国内に輸入されるヘーゼルナッツに至っては、じつに95%がトルコ産でしたから、日本の多くの洋菓子屋さんは、トルコ産のヘーゼルナッツしか調達できていなかったかもしれませんね。

ただそのころの日本にも、幸いにして1社だけピエモンテ州産のヘーゼルナッツを輸入している会社がありました。あわててお願いをして、なんとか5kgを持ってきていただき、あらためてパティシエに香りを確認してもらうと、

「そうだね、これじゃなきゃね!」と喜んでくれました。

これが発端となり、ヘーゼルナッツに興味を持って調べてみたところ、なんと100種類以上ものヘーゼルナッツがあることを知り、とても驚いたことを憶えていますよ。

ちょうど10年ほど前ですか、「Been to Bar ~豆から板へ~」チョコをカカオ豆からつくる、というプロジェクトで、仕入れのためにトリノにあるチョコレート製造機器メーカーに行っていたんです。
きっと何年か後には、日本でも興味を示すパティシエらが出てくると考え、チョコレート作りの勉強も兼ねて、毎月トリノへ通いました。

多忙を極めたトリノ出張でしたが、あるとき訪れたランゲ地方という山間地のトラットリアでランチの最中、駐車場のまわりにある雪におおわれたヘーゼルナッツ畑を見た瞬間、全身に鳥肌が立ったんです。

「これはまるで長野のリンゴ畑みたいだ! 思えば、山も気候も、長野とすごく似ているじゃないか!?」

イタリア・ピエモンテ州のトリノにあるヘーゼルナッツ畑の一つ。

それからも、地元長野に帰郷するたび、岡田さんの脳裏にはトリノの風景が幾度となく浮かび上がります。
「いや待てよ、やっぱり似てるぞ...」


― 2011年3月11日。東日本大震災が岡田さんの背中を押したのですね。

被災した東北地方では、津波でりんご畑を失った農家が生活の再建のために北海道への移住を余儀なくされ、そこで農業を再開することになったのです。ところが、地球温暖化の影響でしょうか。寒い北海道でも、今では質の高い品種までが栽培できるようになってきていました。東北で培われた高い栽培技術は、北海道の大地で見事に継承されていきます。

そのことを知ったとき、はたと思いあたることがありました。
もしも広大な土地を有する北海道でりんごの栽培が軌道に乗ったとしたら、その収穫量でたちまち青森や長野を抜いてしまうかもしれない。
「特産品」と銘打つこと以前に、もともとの農業自体が地盤沈下してしまう可能性も十分にあり得る。
であれば、りんごではなく、ゆくゆくはその土地の気候や風土に合った新たな「特産品」を産み出していくべきだろう。そう思いました。

岡田さんが抱いた不安が、ヘーゼルナッツ栽培への確固たる想いへと変わっていくときでした。

早速と長野に帰郷し、地域の会合の場で、りんご農家の方々に自分の想いをぶつけました。
将来、りんごは北海道が生産量1位になる可能性が高い。だから、今から次の作物のことを考えていきませんか?と問いかけたのです。
おなじにやるなら、病害虫に強く、寒さにも強くて、6次産業化(※)しやすいヘーゼルナッツがいい。
皆さんどうでしょうか?と。

しかし、長くりんごで生計を立ててきた地元の農家さんにとっては、どうも眉唾物の話に聴こえたらしく、反応はないに等しいものでした。

「なあ岡ちゃんよ、マカダミアナッツってぇのは知ってるけどやい、ヘーゼルなんとかってぇのはどう商売になるんだい?」なんて言われたこともありましたね。

(※)6次産業とは、農業や水産業などの第1次産業が、食品加工(第2次産業)・流通販売(第3次産業)に業務展開している経営形態を表す。
1+2+3なので6次産業という。

― 新しいことをするには、いろいろな人たちの理解が必要ですね。

まずは家内に会社を辞める相談をしました。「定年まで待てないの?」と猛反対にあいましてね。
それでも、やるなら自分の身体がまだ無理の効くうちのほうがいい。そう思って、家族には次の仕事の将来像をしっかりと説明し、納得をしてもらいました。

  ただ一つ、心残りがあるとすれば、洋菓子の知識と経験を積ませていただき、30年近くもお世話になった会社に迷惑だけはかけたくない。
1年をかけて引継ぎをしながら、退社後も少しの間は顧問として、後進の育成をする約束で会社を去ることにしました。
次の仕事を続けていく限りは、おそらく前職ともずっと係わり合いを持つだろうと思っていました。
前職にも何か貢献ができるだろうと考え、決断しました。

― そして、2013年12月に、新たな挑戦をスタートさせたのですね。

そうは言っても、誰もやったことのない作物を、農業経験が無く、家庭菜園すらやったことのない素人がチャレンジするんですから、簡単なことでありませんでしたね。
仲間を募ろうにも、りんご農家全体の将来像を丁寧にお話しさせていただいたつもりでしたが、最初に首を縦に振ってくれた同志は、たったの2人でした。
と言うか、いや、この2人がいてくれたおかげで、ここまでやって来れたのだと思っていますよ。

2013年、当初の仮植え状態では樹間は1m。100本の苗木を試験栽培し始めます。


― 地元でアウェイはお辛かったでしょうが、逆転劇は始まったばかりですね!

ヘーゼルナッツのほとんどは、加工用食品として世に出ていきます。
ですから、農産物を作って納めるだけでは、私のめざす風景とはちがってきます。
消費者には、畑で育てたものを生産者自身が加工までした商品をお届けしたい。
洋菓子の機械を扱っていたサラリーマン時代を思い返しても、自分がめざすところは、農業だけではなく「6次産業」化なんです。

― アイスクリーム店「ふるフル」での販売が、6次産業の一つですね?

サラリーマン時代に農家の方に対して6次産業化のプランナーもしていた経験があり、自分が脱サラしてからは、まずは「つくりたて生アイスの店・ふるフル」をオープンしました。加工して販売をするところまでを自分でまかないたい。それと、ヘーゼルナッツに投資するにも、まずはお客様に直接味わってもらう場が必要と思い、アイスクリームやジャムを作って直売することにしたんです。

「つくりたて生アイスの店・ふるフル」。天気のいい日は外のベンチでどうぞ!

生アイスはその日1日だけの限定生産。くちあたりがなめらかな、“やわらかいアイスクリーム”です。
そのアイスクリームが入った真っ赤な冷蔵ショーケースのフェラーリレッドは、もちろんイタリアのシンボルカラー。

開店間もない午前中で、信州産ヘーゼルナッツの生アイスはこの状態。看板商品はいつも大人気です。


― そういえば、ヘーゼルナッツ畑も気になります。見せていただけますか?

ピエモンテ州と同じような、100年後の風景をいつも描いています。
私に賛同してくれた同志らも、イタリアから取り寄せた苗木でヘーゼルナッツ畑をつくろうと、それぞれが自分の畑を耕作しています。

最初の最初は、国内で手に入る5品種でしか始められませんでした。ヘーゼルナッツの木は、実が付く成木になるまで10年ほどかかります。
でも、誰も10年なんて待ってはくれないですよね。
実さえ見たことのない仲間に話しを聞いてもらい、最初は2人だった仲間が確実に増えて、今や各地で作付けが始まっています。

スタートして3年目、りんごの生産地としてはライバルになる青森県から電話がありました。
もちろんヘーゼルナッツ栽培の問い合わせですよ。ライバルからの電話でしたから、これにはさすがに驚きましたね。
青森県も自治体がバックアップして色々と取り組んでいる。りんご農家の先々をきっと危惧しているんだと思いますよ。

それじゃあ、畑に行ってみましょうか。

【左右上】イタリア・ピエモンテ州から取りよせたトンダ・ジェンティーレ種の苗木。
【左右下】順調に育った木々。自宅近所の遊休地をお借りして栽培している。

2019年の夏。2013年の写真と比較すると、幹の高さは岡田さんの背丈を雄に超えています。

ヘーゼルナッツ。和名はセイヨウハシバミ。殻に包まれた実は一見ドングリにも似ている。

― それでは最後になります。 岡田さんの夢をもう一度お聞かせください。

栽培を始めてから、わかったこともたくさんあります。
ヘーゼルナッツの栽培は他の果物に比べれば手入れが楽ですし、それほど手間はかかりません。
収穫作業は自然に落ちた実を拾うだけなので、年をとってもできる仕事ですし、高齢者にも向いていると思います。新規就農希望者でもやりやすい作物だと思いますよ。

残念ながら、いくら医学が進歩したって、私が100年後の風景を見ることはできません。
ひょっとしたら、私の孫やひ孫の代になっても無理かもしれない。
それでも続けていけば、私の思いであったりサラリーマン時代の経験であったり、私に賛同してくれた同志や仲間の協力の全てが、この先の願いをつないでいってくれるんです。
まだ徐々にではありますが、ヘーゼルナッツ畑が拡がっています。
あのイタリアで見た風景に近づいていることを実感していますよ。

サラリーマン時代も仕事に追われ、家族と夕食を囲むのは月にたった2~3日。それほど多忙だった、とおっしゃる岡田さんですが、今はヘーゼルナッツの栽培や加工、アイスクリーム店での販売などでは、いつも奥様がご一緒です。
ご家族の後押しも合わせ、係わり得る全ての人たちと、100年後の未来を共有します。
いずれは、遠いピエモンテ州と生まれ故郷の長野とが重なり合った、懐かしくも全く新しい風景となることでしょう。

ヘーゼルナッツの収穫時期は9月を過ぎたあたりから。
燦々と太陽が降りそそぐ日、ぽとりと一粒の実が地面に落ちます。
岡田さんは夢をつかむように、今日も一粒一粒を丁寧に拾い集めるのでした。

インタビュアー・写真/庄村デスク