わい
わいがや倶楽部

ああ、この人にはかなわない!
名人に会いたい

Vol.6 MIZUSAWA Jinsuke

水沢 仁亮 氏

建築板金工
平成18年 「現代の名工」 厚生労働大臣表彰・黄綬褒章(2009)・株式会社 二見屋 代表取締役会長


この国の屋根のうつくしさを、後世に手渡していく。

もしもどこかで東京駅に降り立つことがあったら、そしてそのとき少しばかり時間の余裕があったら、丸の内北口の外から、 美しいレンガづくりの駅舎と新しくなった頂のドームを見上げてほしい。

2012年に、東京駅の丸の内駅舎が改修された。
次の時代に駅舎を伝え残していくための大規模な工事である。ただ、それだけではない。
日本の表玄関とも言えるこの駅が誕生したのは1914年(大正3年)のことだが、それからの長い年月の大半を、じつは開業当初の姿を失ったまま過ごしてきたことはあまり知られていない。
100年という長い時を超えて、今回はそれを創建当時の姿にまでよみがえらせることに主眼があった。

最初の駅舎は、日本の近代建築の基礎を築いたとされる辰野金吾氏が設計し、工事は大林組が担当した。そして今回は、鹿島建設が工事を担当した。どちらもわが国を代表する建設会社である。
ただ、屋根の隅々までを昔の佇まいのままに復元することについては、現代の工法ではなく、より専門的な、伝統の技法が求められた。

頂に円いドームを配した北側半分の屋根を担当し、それらを昔の技法で見事に再現してみせたのは、信州は長野県稲里町にある、建築板金の技能集団「二見屋」だった。

同社は江戸後期からつづく歴史のある会社ながら、いまだ町工場のような形態を保っている。だからこそと言うべきか、大量生産に頼らない、日本の伝統技術を絶やさぬための努力が途切れることなく続けられていた。
現在、その舵取りをしているのが二見屋五代目にあたる水沢仁亮氏、その人である。

戦争の始まりとともに、信州・松代に生を享けて。

水沢さんは、一番いい時代と一番過酷な時代を生きてきた。いわば、天国と地獄の両方を経験したような人生だった。 そして地獄の日々とは、まさしく彼が誕生したその時代にあった。

生まれたのは、日本がハワイの真珠湾を襲い、太平洋戦争へと突入した1941年(昭和16年)だった。作戦は奇跡的な成功をおさめたが、奇襲であったがゆえにアメリカの大きな怒りを買うところとなり、彼らを総決起させてしまった。軍事的成功が、まさに政略的な大失敗を招き寄せた。
日本をめぐる舞台は暗転し、もはや和平の道は閉ざされ、国民がひとしくどん底の日々へと滑り落ちていった時期である。

2年後には、それまでは兵役を免除されていた学生までが徴兵されるようになった。満州事変以来10余年が過ぎ、屈強な青壮年男子は軍隊と軍需工場に駆り出され、あてにできる戦力はもう学生くらいしか残っていなかったのである。

こうした戦況の悪化は、水沢さんが生まれた信州の松代にも大きな影響をもたらした。
すでに日本軍は追いつめられ、いよいよ本土決戦を覚悟させられるに至っていた。もとより東京は危うい。そこで白羽の矢が立ったのが、地盤が強固な松代だった。
そこに作戦本部である大本営を移そうと、軍部は広大な防空壕の掘削を進めていた。水沢さんの生家は、地下を縦横に延びたその壕の上にあった。洞窟を打ち破る発破の音が、子どもの耳奥に轟いていた。

松代大本営象山地下壕

先祖は真田藩の同心だったらしい。
祖父はその地で農業をし、農協の組合長をしていた。そして父は、尋常高等小学校の教員を務め、戦時には少年義勇隊と称して地元の13,4才の子どもたちを満州の開拓に連れていく役目を負っていた。

もはや戦況は抜き差しならないところへ来ていたが、父は一時帰国したものの、いまだ現地に残る少年たちのもとへと戻っていった。
3才のときだった。
父のいる満州へ行こうと、母と子らで出発地となる舞鶴港に向かおうとしていた。その前日だった。すでに荷物は向こうに送っていた。が、突然に母の具合がわるくなって入院をした。思えばその一日が、明暗を分けた。

当時最強とうたわれた関東軍は早々と逃げ去り、後ろ盾を失った満州からの引揚者は、それまで抑圧されていた現地の中国人や日本の敗戦と同時に満州に乱入したソ連軍の乱暴狼藉を受け、過酷極まる逃避行を強いられることになる。

神風はついに吹かず、日本は敗れた。
しかし父は、終戦になっても帰ることはなかった。満州からシベリアに抑留されていく途中で、食料不足と相次ぐ行軍の疲労とで倒れ、帰らぬ人となった。
ところが残された母はそのとき、5人目の子どもをお腹に宿していた。わずか一日のいたずらで母と子の生命は救われた形になったが、敗戦後の国民の暮らしは例えようもない悲惨なものだった。

食うものがないから、大人たちはみんな重いものを担いで山の畑に登った。栄養不足の、おまけに空腹であったが、彼らは逞しかった。スポーツで鍛えたものなんかではない、本物の、労働の筋肉をまとっていた。
それでも、畑や田で穫れるものは、だれかしらに持っていかれる。国民全体が飢えていたのだ。一家の柱を失った水沢家の暮らしは、とりわけ困窮を極めた。

食べられないことほど、ひもじいことはない。
小学6年生くらいまでは、いつも腹をすかしていた。草の根っこであろうが、食べられるものは何でも食べた。うさぎや山羊と何ら変わらない。野道を歩いて、これは食べられる、これは食べられない、が自然に身についていた。
それを異常とも知らず、幼くして、ふつうに地獄を見ていた。

戦後は、農地改革と称して、代々所有し他の人々に貸していた土地のほとんどを持っていかれた。法律によって強制的に安値で買い上げられたのだが、当時の急激なインフレーションもあって、実際はただ同然で譲渡させられた。

懸命に子を育てていた母は、つねづねこう言っていた。
「手に職をつけなさい。一度身に付けたものは、だれにも盗まれないよ」と。 すでに百姓をして食っていける時代でもなかったが、土地を奪われた悔しさが骨身に染みていたのだろう。

水沢さんの故郷にある松代城

学校を卒業し、当たり前のように 「二見屋」 へ。

江戸時代の末期に、寺社などの建築物の金物飾りを製作することで創業された二見屋は、もともと善光寺下にあり、そこの出入り職人をしていた。
その二見屋の先代と父とが従兄弟だった。
1959年(昭和34年)に高校を卒業すると、そのまま先代の弟子となって、二見屋で修業することになった。

あとで気づかされたことだが、向こうは娘さんが一人で、跡取り息子がいなかった。こっちは次男だったから、男が余っている。どうやら親どうしで、一人寄越せ、というような話があったようだ。

ただ入社したときは、そんなこととは知らない。
入ったころは兄弟子が4,5人もいた。もちろん自分が苦労して覚えたことを、やすやすと教えてくれる職人などいない。
ときどき小突かれながら、来る日も来る日も先輩たちの仕事を見て、ひたすら盗むしかなかった。
懸命に仕事を覚えて、やがて23才になってその娘さんと結婚した。親たちが描いた筋書きどおりになった。

25才のときだった。
先代は以前から、地元の板金業界の組合長をしていた。そしてある時、こう言った。
「おれは組合の仕事に専念するから、二見屋のほうはお前がやれ」。
いきなりの宣言だった。経営までも任されたから、現場で腕を磨くとともに、現場の後ろにいる、工事の全体像を決める人たちにも積極的にぶつかっていった。

予算を握るそうした人たちはみんな年上だったが、運よく可愛がってくれた。幾度となく海外にも連れて行ってもらい、時代の先を見ることの大切さを教わった。
ひたすら自分の腕を磨く職人と、みんなを食べさせ人を育てていかなければならないオーナーとの違いを、併せて学んでいくことになる。

二見屋のシンボル

水沢さんはこれまでに、世界40か国以上を歩いてきている。
アラスカやキューバにまで行った。見ることで知ることも多い。
もともと何にでも興味が湧く性分だった。
以前はカメラに凝った。3年前からは週に一度、油彩を習っている。華道に茶道、謡いもやれば庭いじりも、鯉や泥鰌を育ててみたり、鳩や小鳥を飼ったこともある。ゴルフやスキーもたのしむ。それらはすなわち、どんなことでも人と話ができるようにしたい、との思いがあったからだ。

地獄のような日々がつづいた少年の頃に比べれば、まばゆいような時代である。
とくにバブルのころは、絶頂だった。仕事がたくさんあって、割のいい仕事も多かった。持っているお金をすべて使い切っても、明日になればまた入ってきた。
お酒は飲めなかったけれど、いろんなことを経験できた、たのしい時代だった。天国と言ってもいいだろう。その想いは、いまも続いている。

大震災のその日、東京駅のドームの上で激しく揺れていた。

二見屋はこれまで、善光寺の三門、安曇野市の穂高神社や戸隠神社、松本市の護国神社など、県内のさまざまな寺社の屋根を担当してきた。
水沢さんの代になってからでも、手がけた神社仏閣の新築や修復工事の数は、優に400件を超えている。
一般建築の分野も多い。住宅以外にも、軽井沢の大賀ホールや八ヶ岳高原音楽堂などの公共施設も手がけている。

それらのほとんどが、永く残っていく仕事だ。
なかでも、冒頭に触れた東京駅舎の屋根工事は、これまでとは一線を画す、一生に一度あるかないかの思い出深い仕事になった。

穂高神社

大賀ホール

「帝都の顔」として1914年に誕生した東京駅は、早くも9年後には関東大震災という試練に出くわす。幸いこのときは、ひび割れ程度で済んだ。
しかし1945年(昭和20年)の東京大空襲では焼夷弾が直撃し、屋根が焼け落ち、内装の多くを焼失してしまった。

やや遅れて2年後に復興工事が行われたが、いわば応急的な処置として焼失の激しかった3階部分の内装を取り除いて、3階建てだったものを2階建てにしたのだが、はからずもこの時の仮の姿が、そののち65年間も続くことになった。

今回ようやく、当初の3階建てにもどすことになった。
したがって「屋根も昔のやり方でやってくれ」という注文だった。
が、実際のところ、100年前の屋根の下がどうなっているのか、詳しいことはわからない。一つ一つ剥いでいっては確かめていく作業が続いた。そうしてはじめて、昔の工法が見えてくるのである。
そこには優れた職人の技がいっぱい埋もれていた。継承していくもの、替えていくものをそのつど判断していった。

仮に新規工事なら、溶接を用いて施工すれば、早く、かつ完全な施工ができたことだ。しかし開業当時にそんな技術があったわけもない。
当時の伝統工法で課題に応えるため、天然スレートと銅板の端と端とを噛み合わせる「ハゼ」という昔ながらの方法を用い、二見屋の職人6名で2年半の月日をかけてこれを仕上げた。

難しい曲線も一枚一枚丁寧に張ります。工事完了から約1年が経つと、銅板は深みのある色合いとなります。

ほかにも東京駅という特殊性があった。
なにしろ1日に80万人余の人々が乗り降りする、首都の玄関である。空気が傷んでいるうえ、列車が間断なく行き来するから、排ガスよりもレールから飛散する鉄粉が駅舎の屋根に降り積もる。後世にまで伝え残すための、さまざまな工夫が求められた。

予期せぬことにも会った。
屋根を仕事場にしているかぎり、風雪にともなう落下などの危険がつきまとう。つねに細心の注意を払っているが、それでも想像を絶することが起きてしまう。
2011年3月11日、午後2時46分だった。
忘れもしない、あの東日本大震災が発生した時刻である。震源地から離れた東京も、激しく揺れた。
そして水沢さんはそのとき、現場である東京駅駅舎の屋根にそびえるドームとともにいた。

基礎はしっかりしている。が、そこは建物の最上部の、しかも頼れるもののない吹きさらしの中にあり、かつて経験したことのない揺れが襲った。
振り落とされまいと、仲間とともに井型に組んだ施工用の4本のパイプに必死でしがみついていた。屋根屋という仕事の厳しさをあらためて思い知らされた出来事だった。

「ここにいたんだよ」と東日本大震災が発生した時を振り返る水沢さん。

温故知新を超え、それを次代につないでいく温故創成へ。

優れた過去の技術も、そこに安住し追従するだけでなく、そこから新しい時代のものを創り上げていく努力が必要だ。そうすることではじめて、そののち何代も残っていく仕事となる。
「時代に合ったものを、時代に合った造り方で」。
すなわち、温故知新に終わらず、次へとつながる温故創成にまで持っていく。それが水沢さんの一貫した考えである。

二見屋も先代までは、建築物の飾りをつくる金物職人だった。
寺社の屋根といえば、重厚な瓦か、薄いヒノキの皮を重ねてなめらかな美しい曲線を描き出す檜皮葺(ひわだぶき)がほとんどだった。そこから瓦や檜皮では合わないところを、別なものに置き換える屋根の需要が出てきた。

最初は亜鉛鉄板で、それがブリキになり、トタンになり、やがて銅板が出てきた。二見屋は、県内のさまざまな寺社の屋根に葺いてきた。
ただし銅版葺きには、赤銅のうつくしさや緑青の枯れた味わいなどがあるものの、時間と手間と費用がかかる。
地域や用途によっては、別のものがいい場合もある。

そこで二見屋では、銅板に代わり得るものとして、耐久性や経済性に優れたステンレス鋼材を新たに商品化した。
寺社は燈明など、火を用いることが多い。火に強く、腐食にも強く、木材との親和性にも優れる。

長年培ってきた経験に基づく技術力さえあれば、伝統建築への加工に適しており、すでに善光寺大本願の城泉山観音堂や寿光殿、大勧進護摩堂や位牌堂をはじめ、長野市の清水寺観音堂、松本市の安立寺や真田町の長谷寺の本堂、上田市の生島足島神社の大鳥居、さらには東京の湯島天神神楽殿などに採用されている。
温故創成の成果と言えるだろう。

ここで屋根材の銅版が加工されている。

技術は人に宿る。それをいかに絶やさず、継承していくか。

屋根は、風と水との闘いである。
なかには雪の多いところも、海が近くて強い潮風が吹くところもある。外気にさらされているものは年月とともに風に削られていくから、風向きなどをしっかり読み切っておくことが欠かせない。
さらに寺社などの歴史的建造物となれば、姿形も最重要となる。さまざまな知見が必要だ。

また金物職人の基本として、直線から曲線まで、さまざまな材料を自在に折り曲げ加工をする技術が欠かせない。
いまはコンピュータがかなりの部分をこなしてくれるが、鉄とブリキの時代には、木で叩いて面をつくっていた。今でも手仕事としてはそれが主流で、一人前に叩けるように修練をする。

ところが、残念なことに、そうした技術や知識を教えていく現場がない。板金業界は個人で技術を持っている人は多いが、大勢で大きな仕事を請け負えるところが少ない。

だからこれまでも、水沢さんのもとに多くの若者が逗留して技術を磨いてきた。海外からの研修生も受け入れてきた。いまでも、常時20~30人の技術者がいる。
よその板金屋さんの2代目を預かることも多い。すでに20人くらいはここで仕事を覚えて帰っていった。おかげで、忙しいときには、声を掛ければその仲間たちが応援に来てくれる。

それでも十分とは言えない。
将来の板金業界を思って、水沢さんはみずから長野共同高等職業訓練校の講師になり、副校長も務めてきた。
ご自身は、2004年には「信州の名工」の表彰を受け、2年後には「現代の名工」に選ばれて厚生労働大臣表彰を受け、2009年には黄綬褒章を受けた。だが、このまま終わらせるわけにはいかない。

気になるのは、いまの教育制度だ。
あまりにも時代が変わりすぎた。水沢さんの頃には、3年から5年経たないと給料をもらえなかった。だから一人前になるために必死で技術を盗もうとした。そしてそれを自分で何度も反復する。

が、いまは、いきなり給料をもらえる。
仕事を指示しても、それはまだ教わっていませんと、平気で答えを返してくる。仕事も人生も、すべてが甘すぎると感じることが多い。昔がすべてよかったとは言わないが、徒弟制度のいい面は残すべきだと感じている。

なにより大きな仕事、責任の重い仕事は、自分を成長させてくれるものだ。
歴史的建造物だからと言って、特別な報酬をもらえるわけじゃないし、むしろその逆が多いだろう。それでも水沢さんはなにより若者に、そうした最高の舞台を与えたいと願っている。
そうすることで、社会になにがしかの貢献をできる集団であり続けたいと思っている。

日本には、たくさんの社寺がある。社寺そのものが、この国固有の伝統であり文化である。外国に学ぶものなど何もない。
だからこそ、この仕事を絶やしてはならないと思う。

自分が関わったものを見ると、素直にうれしい。
だから若い人にも、やりがいや生きがいを感じるような仕事をしてもらいたい。自分の技で、誇れるものを造って、自信を持ってもらえたら、もう、どこへ行っても大丈夫なのだから。

二見屋だけにとどまらない、ニッポンの親方を見た。

取材:瀧 春樹